
その女、凶暴につき---「言葉狩り」を巡る闘争の歴史
目次
闘争と絶縁の歴史
中国問題
角川書店版権引き上げ問題
読売新聞社との絶縁
「私日記」を巡る「サンデー毎日」との絶縁
「日本ペンクラブ」脱退事件
闘争と絶縁の歴史
曾野綾子は闘争と絶縁の人である。彼女はその評論活動を表現してゆく中でアグレッシブネスを遺憾なく発揮している。アグレッシブネスといってもそれは舌鋒厳しく表現対象を糾弾するといった類では全くなく、表現の場を提供するメディアに対するスタンスを指しているのだ。メディアは自主規制と称して「放送禁止用語」や「禁止表現」を策定し、いわゆる「ことば狩り」を積極的に行ってきた。四半世紀前には「中国」がそのタブーの典型であった。多くの媒体で中国に関するネガティヴな表現の一切が廃され、その一方で「中国には野良猫がいない、なぜなら(社会が整備され)餌となるどぶネズミが全くいないからだ。」などという的外れな賛美さえも掲載された。近年では心身の障害とそれを示す語句を含む慣用表現が徹底して排斥されるようになった。その結果「片手落ち」「盲蛇に怖じず」といった表現や、並外れた愛好心を示す「○○気違い」という表現などは放送媒体に乗ることは無くなってしまった(ちなみに現在使用しているATOK11も「きちがい」「きぐるい」を変換できなかった)。しかしこれらの表現自体が身障者を不当に差別した、いわば「身障者を健常者の一格下の存在」と認識した、ものであると世間は考えているのだろうか?答えは「否」であろう、少なくとも私は「否」だ。曾野綾子の答えも無論そうだ。大多数のバランスの取れた意見としては問題にされないことでも、少数の「声を大にした」存在を恐れるメディアは「自主規制」と称する逃げを予め打つことでトラブルを回避してきた。一表現者としてこのような「ことば狩り」をメディアが行うことに反対する曾野綾子は、この動きに対して「自主基準」を頑なに貫き、そのために幾度と無くメディアの「基準」とぶつかってきた。例えば白内障の手術をする以前の彼女は極度の近眼であり、その状態を自らは「盲(めくら)同然」と表現した。また夫である作家の三浦朱門は生来片耳が不自由であるが、夫婦が作家である理由の一つとして「この人(朱門を指す)も片耳つんぼですから、(以下略)」と記し、視力の十分でない自分とともに五体満足でなくとも作家という他人とのコミュニケーションの必要が比較的薄い商売ならば問題なくやっていけることを述べている。ここに含まれる「盲」「つんぼ」という表現は他者に向けられたものではなく、あくまで自分と身内に発せられたものである。しかもニュアンスとしては身体的障害を持ったとしても社会参加の方途は用意されているというポジティブなものだ。ところがメディア(特にテレビ)は表現のニュアンスや対象に拘わらず、一切そのような言葉を廃する杓子定規な対応を取ることにしている。こうして「曾野基準」と「メディアの基準」で齟齬が生じてくる。そうした時に決して自らを曲げないのが彼女の強烈なアグレッシブネスである。ただし「曲げない」とはいっても、それが他者(メディアの制作側)を困惑させる事である事を十分に承知している曾野は、強行突破をはかろうとはしていない。そのかわり「自主規制」を要求するメディアとは「絶縁」という形で闘争するのだ。作家活動、評論活動で十分な知名度をもつ彼女がテレビに滅多に登場しないのはそのような闘争の歴史の結果なのである。
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中国問題
曾野綾子の闘争を振り返り、著作上で知りうる最古の問題は「中国」であった。時は1970年代の半ば、日中国交回復間もない頃の事である。文化人の使節団の一員として当時最年少の身で中国に招かれ現地で中国人作家らと面会する機会があった。帰国後に「中国1973年春」と題するエッセイを新聞社の依頼で著したのだが、原稿は最終版の前に差し替えとなって掲載がなされなかった。理由は「中国に否定的な内容を含んでいるから」であった。四半世紀を経た今となっては考えられないことだが、当時はメディアを挙げて中国礼賛を唱えていた(僅かに例外は産経新聞と時事通信のみであり、特に「ひとつの中国」に反して台湾に支局を開設している産経新聞は国交回復後20余年に渡って中国本土に支局を開くことが許されなかった)。掲載拒否により一度は幻の原稿となった「中国1973年春」はその他のエッセイと共に「人びとの中の私」としていんなあとりっぷ社より出版された。ここで掲載を新聞社の一方的な判断により中止された経緯も併せて公表されている。この事件から数年にわたって、曾野綾子は産経以外の全国紙から完全に干され、発表の場は専ら雑誌社系のメディアに限られることとなった。このように大メディアと正面切って闘うことを選ぶ人は少ない。ある会社に拒否されても他の発表媒体がある、というのは曾野綾子が既に有名人だからで、普通は関係を絶たれたらライターとしては終わってしまう、とても同じマネは出来ない、という声もある。もちろんそれも全面的には否定できない。しかし1960年代に初めて社会評論を発表してから40年近くの間流行作家、エッセイストとして支持されてきたのは、骨太な深い思慮に満ちた表現内容と共に簡単には迎合しない「自分の基準」を常に持っていたことが読者の信頼を得たためではないだろうか。なお「人びとの中の私」は集英社文庫に収録され現在でも読むことが出来る。「闘う曾野綾子」の出発地点として是非ご一読頂きたい。ちなみに曾野綾子の小説のうち数作品が中国語に翻訳されている。それも現在の改革解放路線が敷かれる以前(1982)に出版されたものだ。この事は産経の支局事件とは別個に中国という大国の懐の深さとして評価すべき事かも知れない。ただし翻訳された作品は「幸吉の行燈」という天皇の権威が引き起こした悲劇、や高度成長時代に取り残され借金苦で自殺する中小企業経営者が登場する短編(「卵とベーコンの朝食」)など如何にも「良く吟味された作品」に限られているようだ。
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角川書店版権引き上げ問題
角川書店発行の角川文庫から曾野綾子の名前が消えてからもう5年近くになる。きっかけは当時社長だった角川春樹氏が薬物問題で逮捕された事件(99.2現在、控訴審公判中)であるが、「角川から本は出せない、版権を引き上げる」という事になったのは春樹氏の行為を問題にしたためではない。この逮捕を境として社内から「春樹氏のワンマン体制」を批判する声が噴出し、「いままで社長に異を唱えることは許されなかった」と世間に報じられ始めた。それを見聞した曾野綾子は「出版社の社員として表現活動に携わっている者達が、一社長の意向を恐れて行動できなかった、とはなんと意気地のない事だ。そんな社員に支えられた会社とはつき合えない」という判断を下したのだ。私の感想としては「やや唐突」「会社という組織に属している人間の立場を、作家という無頼な立場の基準で断罪するのはいかがなものか」であった。ただ曾野綾子に「表現者の側にいるものとして持っていて欲しい矜持」が角川の社員に感じられなくなり、その結果として「絶縁」を選んだのは如何にも彼女らしい潔癖さを現した事件と言えるだろう。この事件の経緯は週刊ポストの連載(昼寝するお化け)、およびThis is 読売(大声小声)に発表され、単行本にも収録されたので、興味のある方は曾野綾子のスタンスを直に確認して頂きたい。読んでみると採算性の良い本(曾野の例で言えば「誰のために愛するか」・「生命ある限り」)以外を容赦なく絶版にしていく商法を取る角川書店を「以前から気に入らない出版社だった」と明かしていたりして興味深い。なお、現在(99.2)角川書店より順次刊行中の「女流作家シリーズ」のラインナップの中に曾野綾子もその一冊として予定されている。既に和解がなされて版権の問題が解決されていると考えるのが妥当であろうが、どのように手打ちがなされたのか公表されていないのは非常に残念だ。また和解がなされたとしても角川文庫の作品群が復刊していないのは不自然ではない。絶縁後に「誰のために愛するか」「テニス・コート」をはじめとする数作は「文春文庫」に移籍して出版されたためである。また再刊されなかった作品の多くは同一のものが他社からも並行して刊行されていたので現在でも入手が可能である(例えば「遠来の客たち」は祥伝社文庫、「ある神話の背景」はPHP文庫)。
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読売新聞社との絶縁
比較的保守的なメディアである読売新聞社と曾野綾子は(中国問題を巡る掲載拒否事件の前後は)良好な関係であったと想像される。実際事件前は「曾野綾子選集」が2シリーズ刊行され、事件後は「聖書の中の友情論」などが刊行されている。また総合オピニオン誌の「This is 読売」(中央公論社との吸収合併により99年2月で廃刊が決まった)には上坂冬子氏との対談「大声小声」が長期連載されていた。この対談は「ナベツネ」という愛称で有名なかの渡辺恒雄氏からも好評で、「This is 読売」主催の講演会でもこの二人に公開対談が「ナベツネの肝いり」で企画された。また「私の目の黒いうちはいつまででもお二人に対談していただく」という趣旨の発言をその講演会場で私は「ナベツネの肉声」として聞いた。にもかかわらず、連載は雑誌自身の寿命よりもはるかに短くして突如終了した。「次号は最終回」といった予告はなく、最終回は対談形式とは違って曾野・上坂両人が独立に10年にわたる連載を振り返った感想を寄せたものだった。おそらく掲載予定だった対談内容が読売の意向に合わず、急遽打ち切りが決定したのだろう。その後に書かれたエッセイの中で読売と表現を巡るトラブルで絶縁に至ったと書かれていたように記憶しているが、定かではない。角川との件のようにその為のコラムという形式では発表はされてはおらず、さらりと一節だけ触れられていたように思う。今後彼女の著作を読み返してみて、より詳細な事情が確認できたらこの部分を書き直したい。なお、読売とは「今後のお付き合いを控える」という方針のようで、既出の出版物の引き上げはなされていないようだ。この対談は二冊分に相当する量が単行本未収録に終わっており、残念である。既刊の二冊も版元は読売ではなく講談社なので問題なかったのでは無かろうか。とはいえ、対談というものは時事問題が俎上に上ることが多く、今となっては刊行はまずありえない。
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「私日記」を巡る「サンデー毎日」との絶縁
去る1998年初夏まで毎日新聞社刊行の週刊誌「サンデー毎日」において曾野綾子は「私日記」と題して日記を連載していた。意外なことに彼女の長い著作歴を振り返っても日記は皆無である。その日記は意外な形で幕を閉じた。いやこのコラムの流れとしては突如トラブルが起きて連載終了というのは「ありがち」に思えるかも知れないが、何しろ内容は日記である。公開できなくなるような事情が曾野綾子に発生するとは考えにくい。平成10年6月14日号に掲載が拒否された部分は被差別部落に関する記述だという。彼女は東京の下町に生まれ育ち、その後山の手の田園調布で結婚後生活をし、経験的に被差別部落を感じることなく生活してきたそうだ。私も山の手で育った為に部落を「ご近所の問題」として感じる機会は無かったので、曾野綾子の感触にも疑問はない。しかし「サンデー毎日」はこの部分の削除が無い限り掲載は出来ないと通告したという。曾野は「部落は存在していない」と書いたのではない。繰り返しになるが、自分の居住する周辺には部落は存在したことが無かった故に(「知識として」は知っていても)体験的には部落を感じたことがない、と限定して述べているのだ。その問題となった5月19日の日記から結びに近い部分を少々引用してみると
「どうして差別問題を是正しようとする人は、こうも差別を知らせること、教え込むことに熱心なのだ!? それは東京の住人に対するこの上ない非礼で、私はそれをずっと我慢し続けてきた。彼らこそ、差別の急先鋒、差別を知らない人にも差別の仕組みと感覚を教え込む元凶だろう。」
となっている。おそらく編集側は「同和団体」と称する団体や一部の人間から抗議の声が挙がる可能性を恐れたのだろう。「きちんと読んでもらえれば分かる」「筆者の差別を無くしたいという意図は明らか」というスタンスで(来るかもしれない)抗議に対処することより、自ら「言葉狩り」に参加することによってトラブルの芽を摘んだのだ。これは「政治的に正しい(PC)」態度なのかも知れないが、その編集方針に屈する曾野綾子ではない。すっぱりと「私日記」の連載は終了させてしまった。この経緯は週刊ポストの「昼寝するお化け」に触れられている(99.2現在、単行本未収録)。さらに最近明らかになったのは、この「私日記」単行本化への障害である。元旦付けの産経新聞に部分的に掲載され、二月一日発行の「正論」三月号に全文が載せられた「三浦朱門との正論対談」によれば、出版各社が「私日記」の単行本出版を申し出てこないのだという。連載を中止した経緯を訊ねた人は複数いたという話なのにも拘わらず。テレビほどではないにせよ、出版社も随分と腰が引けているものである。流行作家の新作を出版できるというのに手を出さないところを見ると、余程警戒しているのだろうか。いよいよ引き受け手が見つからなければ「自費出版でも」と曾野綾子は考えていたようだが、ついに「一切のトラブルは著者の責任で」という条件で版元が決まったそうだ。彼女はそれで当然と思っているそうだが、ビジネスとして版元を引き受けながら「何かあっても知らんぷり」とは実に意気地のない話ではないか。この版元は海竜社と先日判明した。当出版社については以前から思うところがあったので別のコラムを設けて書くことにする。なお、書店では普通に売られており、流通の段階で圧力がかかったりはしていないようだ。ただ彼女の新刊が大手書店で平積みの扱いになっていなかったのはやや気掛かりだが、それはナーバスになり過ぎかもしれない。
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「日本ペンクラブ」脱退事件
著作家の任意団体の一つとして「日本ペンクラブ」存在している。「ペンクラブ」は「表現と思想の自由」「世界平和」を希求する団体であるようだ。そして同クラブはそれを実現すべく「共同アピール」をしばしば発表してきた。例えば1998年には「イラク危機に対する声明」をクラブとして発表し、その中で「いかなる理由があろうとも、武力行使による問親の解決を容認できない」というスタンスを表明している。曾野綾子はこの「日本ペンクラブ」をかつて脱退している。この事実だけ取り上げると一部で「タカ派」と称される曾野綾子が「ハト派の進歩的文化人の集団」に馴染めずに脱退を余儀なくされた、と勘違いするかも知れない。しかし曾野は平和を希求する上での手法の違いを理由に脱退したのではない。ペンクラブの会員ならば各々が著作者として発表の場を持ち得るはずで、そうであるならば決して集約することの出来ない個々の意見を「共同アピール」といった形で発表するという乱暴な行為を容認してはならない、と考えているからだ。脱退の頃はまだ東西冷戦の時代で、ペンクラブは「核状況下における文学」と題してシンポジウムを主催していた。核の存否に依らず文学は存在してきたし、また今後も存在するであろう事を無視し、著作活動をする上で特定の「状況」を共同して認知しつつ行動することを求めている「ペンクラブ」に対して曾野綾子は疑問を感じ(人民の声を聞いて著作活動を行うと発言した70年代の中国人作家の姿も浮かんだに違いない)、組織から離れることを選択した。
ちなみに死刑囚として獄中にありながら著作活動を続けた永山則夫氏が加盟を申請し、一部会員から非公式に反対の声が挙がったために結局その申請を取り下げる事となった問題がかつて報道されたことがある。これは「日本ペンクラブ」ではなく「日本文芸家協会」が当事者であった。永山氏の死刑囚という特殊な立場を考えれば「世間的に」賛否の声が挙がるのは当然であろうが、「表現と思想の自由」を重んずる著作者の中からも反対の声があったのは意外であった。そんな中で永山氏の加盟に協会の幹部が積極的に行動しなかったことに反発して故・中上健二氏および筒井康隆が脱退した。反対者の挙げる理由の一つに「協会の所有する文学者の共同墓地に永山氏と一緒に葬られるのはイヤ」という事があると伝えられて曾野綾子も呆れており、彼女も加盟には賛成だったが、これを機に脱退するということはなかった。申請が却下されたのではなく、取り下げで決着したからなのか、夫の三浦朱門が当時協会幹部であった為か、その何れでもないのかは定かでない。また現在(99.2)は彼女が協会理事を務めている。
<参考・日本ペンクラブの存立と日本文芸家協会との差異>
日本ペンクラブのホームページにはその存立と意義を以下のように規定している。
「日本ペンクラブは、「インターナショナルP.E.N」の一環を担う、国際的な、ポエット、エッセイスト、エディター、ノヴェリストたちの組織であり、創作と出版、言論表現と思想の自由をもって世界の平和に貢献しようと努めています。」
言論表現と思想の自由を保障される世界平和を望んでいるのではなく、自由を持って平和に貢献しようと努めるのだそうな。逆のような気がするのは私だけであろうか? それはともかく、利益団体と言うよりは思想集団のような位置づけと考えるのが妥当なようだ。
一方、日本文芸家協会の方は、著作者という組織を持たない無頼な存在が故に起こりうる権益の遺失を共同で防止するような「職能集団あるいは労働組合」的な存在と思われる。
それは社会保険、健康保険といった団体保険を組織したり、文学者の墓を設立して生涯無頼を貫いても埋葬地を用意できるようにしていることなどから判断できる。協会のホームページには定款の公開がなされていなかったのだが、以下の一文を発見したので引用しておく。
日本文藝家協会は、定款第二章第三条に規定されている通り、「文芸家の職能を擁護確立するを以て目的とす」る職能団体であります。
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