ふと懐かしくよみがえってくる記憶。井戸で冷やした西瓜を縁側でかぶりつく。アイスキャンデーの売り声が聞こえる。ビー玉、三角ベース、肉弾合戦。「ごはんですよー」と母の声。土間の台所に湯気が立つ。五右衛門風呂に飛び込む。セピア色にくすんだ昭和の原風景である。







 割烹着なんて書くと、いまどきの坊やたちは割烹料理の板さんを想像するかもしれない。そうじゃないんだよね。ここはやっぱしかっぽう着のほうがいい。ぼくらの母さんは和服の上にこれを着て台所に立ったものだ。日本古来のたおやかな着物に、真っ白なりりしい仕事着。ビー玉めんこに夢中になっていると、「○○ちゃーん、ごはんですよー」と母さんの声。駆けて帰るわが家。やさしさ、たおやかさ、かいがいしさ、りりしさ、きびしさ、あたたかさ、したわしさ。母さんのかっぽう着は、円い卓袱台とともに、貧しいけれど幸せな昭和の家庭の象徴であった。かっぽう着はぼくらのマリア様であった。やがて日本は高度成長をとげ豊かになった。家庭に電化製品があふれ、ダイニングテーブルになり、母親のかっぽう着は見られなくなった。父親は猛烈に忙しくなり、家庭の団欒は遠のき、そして家族の崩壊がはじまった。ぼくらの世代は、和服にかっぽう着の小料理屋のママ、なんてのに弱い。いまだにかっぽう着後遺症をひきずっている。





 小学校の上級くらいであったろうか? とある夜、ぼくは或る女の子と結婚すると、固く決意して眠りに就いた。あすの朝すぐに両親に告げようと思った。なぜそんな切羽詰まった気持になったのか判然としない。あとになってよくよく思い返してみると、ぼくが惚れ込んだのはその子ではなくて、どうやらその子のお母さんだったらしい。こんな勘違いってよくあるみたいだ。参観日に見たお母さんは、当時としては珍しい職業婦人(なつかしい響きだね)で、したがって一分の隙もなく着飾っていた。西洋人ばりのくっきりした顔だちに、入念なお化粧。三十そこそこの女盛り。それはそれは美しく見えたものだ。実のところその子の容貌はよく憶えていない。もちろん、翌朝起きたときには、何もかもきれいさっぱり忘れていたのは言うまでもない。




 「パーパパー、パパパパーパパー」ピーナッツ・ハッコーのクラリネットで一世を風靡した「小さな花」Petite Fleur。あのビロードのようになめらかな音色はいまも耳に残っている。たまに聴こえてくると、一瞬にして青春真っ盛りに戻ってしまう。胸がキューッと切なくなる。情景や空気や匂いまでよみがえる。音の記憶ってホント不思議だなー。このメロディはダンスと切り離せない。この時分生意気にも大学のダンス研究会なんてとこにいたんだ。週一回学外から来る「ポンジョ」とか「ジッセン」とか「アオガク」とかの女子大生にダンスを手取り(足は取らない)指導していた。あれは楽しかったなあ。鈴木章治のクラリネットでもよく聴いた。 双子の姉妹、ザ・ピーナッツのデビュー曲としても大ヒットした。この歌のほうは「可愛い花」というタイトルだったな。偶然だけど両方とも「ピーナッツ」だったのが面白い。ザ・ピーナッツは「情熱の花」もヒットしたね。これはカテリーナ・バレンテのフランス語の歌がオリジナルだった。バレンテは美人で、マルチリンガルで「歌う通訳」と呼ばれたものだ。




 ジージーとアブラゼミの鳴き声が絶えまなく響く夏の昼下がり。「チリンチリン」・・・ああ、あの音がきこえる。 アイスキャンデー売りのおじさんが鐘を鳴らしてやって来る。自転車の荷台には水色のデッカイ木箱、「アイスキャンデー」と染めた幟を立てている。麦わら帽子の下から真っ黒に日焼けした顔が笑う。子供達が手に手に握りしめた小銭を差し出すと、おじさんはニコニコしながら箱の上部の小さな扉を開けて中をのぞく。一本一本慎重に取り出してくれる。まるで宝物を取り出す手品師みたいだった。白いミルクやピンクに粒々のあずき。一本五円。冷たく甘い懐かしい夏の風物詩。懐かしいアイスキャンデーの夏、少年の夏だった。右手に棒を握って慎重に少しずつかじる。早く食べないとドンドン溶けてしまう。ヘタすると崩落が起きる。衝撃の崩落を経験しなかった子はいないだろーな。崩落はじつに情けない。ペロペロなめるのが好きな子もいたねえ。うちは五人兄弟姉妹だったので誰かがまとめて買いに行くことが多かった。誰かといってもじつは末の妹に決まっていた。駆け出して行ってハアハア言いながら帰って来る。お駄賃として一本余計にもらうのが狙いだった。夏といえば、井戸水で冷やしたスイカ、アイスキャンデー、そしてかき氷だったね。でもかき氷はどっちかというと大人の食べ物で、子供は海水浴など特別の時だけだったな。




 むかし仙台で三年暮した。新入社員のころである。はじめての土地ではじめての仕事、毎日毎日すべてが新鮮だった。若造のくせによくキャバレーに行った。看板になるとなじみのおねえちゃんを連れ出してラーメンを食いに行ったりした。うまい札幌ラーメンの店があった。そのすぐそばに「牛たん焼き」の店があった。屋台みたいな小さな店だった。ここで牛舌なるものをはじめて食った。最初は歯ごたえに慣れなかったが、噛み締めるうちに旨さがジワジワとにじみ出てきた。当時はこの店しかなかったのでよく通ったものだ。いまの牛たんブームは正直驚きである。ネットで調べて大発見をした。元祖仙台牛たん「味太助」の佐野啓四郎氏(故)があのときのおっちゃんだったんだ。写真の顔に憶えがある。昭和四十年前後である。仕事一筋の無口なおじさんだった。長い箸を手に網の上の牛たんを丁寧に焼いていた。本店の場所もあのころのままだから確かだろう。懐かしいなあ。




 ガリ版って知ってる?「それ何?」って言うあなたはたぶん30代以下。「懐かしいなあ」と思う方は50代以上じゃないかな?正式には「謄写板」という。むかし学校の試験はぜんぶこれで印刷されたザラ紙だったんだよ。手書きだから下手くそな先生の字は読みにくくてねえ。「これ何ていう字ですかあ?」なんて質問したものだ。蝋をしみ込ませた原紙をヤスリ板に乗せて、鉄筆(ペンの先に鉄の針がついてる)で字を書くと、そこだけ蝋がとれてインクを通すようになる。その原紙を謄写版にセットして、上からインクの付いたゴムロー ラーをころがすと下に置いた紙に文字が謄写される仕組みだ。原紙に書くことを「ガリを切る」といった。鉄筆がヤスリをこするときの「ガリガリ」という音からきたんだね。小学校のころよく先生にたのまれて放課後に印刷の手伝いをした。左手で謄写版を上げ下げして右手でローラーをころがすんだ。刷り上がった紙をめくる役とコンビだった。当時は学級新聞なんてものが流行っていた。だから生徒も「ガリを切る」ところから印刷までみんなやったものだ。昔の職員室にはガリ版インクのツンとした刺激臭がいつも漂っていたなあ。あのインクの匂いが懐かしい。




 戦後食糧難の数年間はサツマイモの時代だった。不足する米を補うためにサツマイモが配給されたのだ。毎日のようにサツマイモを食ったねー。「サツマイモごはん」にイモのツルが入った味噌汁だったりした。「サツマイモおかゆ」もあった。おやつの定番は「蒸かしイモ」や「切り干しイモ」。当時の子供でサツマイモ後遺症になった大人は多い。ぼくの兄も「サツマイモは一生分食った」といって見向きもしない。しかし考えるとサツマイモはわれわれの命の恩人だったんだ。ずっとのちに石焼き芋の屋台をを見て「へえ、こんなもんが売り物になるのか?」と不思議な気がしたものだ。いまでは料理雑誌などに「秋の旬の一品、サツマイモごはんがおいしい!」なんて出ている。サツマイモを原料にした芋焼酎がモテモテだという。ははるばる遠くまで来たもんだなあーと感慨ひとしおである。




 キッチン○○という食堂が懐かしい。はじめて東京へ出てきたワクワク気分と、昭和三十年代の町の光景と、欠食学生の食欲が眼前にホウフツとする。「キッチン」という響きは親しみがあり(レストランにはちょっとビビッた)、同時にちょっぴりハイカラ(この言葉もレトロでしょ?)でもあったのだ。当時わが家にあったのはあくまで「だいどころ」であって、キッチンなんて言わなかった。キッチン○○はおおむね学生街にあった。もしくは学生の下宿が多い街の駅前なんぞにあった。当時の学生はその旺盛な食欲をどこで満たしたか?一番はなんといっても学生食堂 (がくしょくと言った)である。定食が百円前後だったかな?つぎは大学門前町の定食屋だった。そしてボリューム&カロリーの洋食を食いた くなるとキッチン○○へ行った。ここの花形はまず「メンチカツ」、つぎに「豚生姜焼き」だった。メンチカツはハンバーグの先代にあたる。いまもメンチカツの文字を見ると気持が動く(ハンバーグには何も感じない)。キッチンの周辺にはかならず喫茶店と麻雀屋があったなあ。キッチン○○の代表格が「キッチン南海」だろう。いまも神田神保町にある。


 戦後十年くらいはどこの家にもにわとり小屋があった。一家のあるじは自分の手で小屋を作れなければならなかった。にわとりをつぶす(殺して処理すること)ことも出来なければならなかった。生きるために原始的な能力が要求されたのだ。鶏の世話にはむろん子供もかり出された。朝一番に小屋の水入れに水を汲んでやる。金網の下にある餌箱に餌を補充する。ときには鶏小屋の大掃除をやらされる。鶏小屋の中はどこもかしこも糞の山である。臭くてかなわない。集めた糞は庭に大きな穴を掘って埋めた。農家ならむろんこやしにする。当時は生ゴミでも何でも穴を掘って埋めたものだ。燃えるものはなんでもかまどや風呂で燃やしたし、食えるものはすべて食ったからゴミは実に少なかった。にわとりを飼っていた時代は、つまり卵がご馳走だった時代である。たまご焼きに格別の思い入れを持つのがこの頃育った子供たちである。


 戦後の貧弱な住宅の台所は土間だった。玄関も土間だった。玄関と台所は障子一枚で仕切ってあるだけ。上をあおぐとすぐ屋根裏が見えた。これは天井を張るのをケチッただけのことだ。土間の台所から一段上がると茶の間で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)が食卓だった。つまり当時の住宅は土間空間と床上空間とにはっきり分かれていたのだ。土間は固く踏み固められてはいたが、平らではなくでこぼこだった。台所の壁際には煮炊き用の大きなかまどがあった。これに薪をくべて煮炊きする のだ。水道はあったと思うがひょっとしたらもっと後だったかもしれな い。いずれにしても、まだ井戸というものが生きて使われていたし、子供はしょっちゅう水汲みをさせられた。炊事のためや風呂のためだった。かまどのから湯気が立ちのぼる風情はよかった。「ああ、めしができたー!」という感動があった。のちには土間に木製の簀の子を敷いて裸足で茶の間と行き来できるようになった。台所改善のはしりだった。



 中学、高校時代に住んでいた広島県の家では五右衛門風呂だった。五右衛門風呂というのは大盗賊・石川五右衛門が京都の三条河原で釜ゆでの刑に処せられたという伝説にちなんで名付けられたものだ。かまどの上に鉄釜を据え下から直火で沸かす風呂だ。 深い鋳鉄の釜風呂である。調べてみたら、江戸末期頃から主産地が安芸(広島県)に移り、戦前には全国の生産量の8割を占めるようになったとある。つまり広島は五右衛門風呂の本場なんだ。この風呂に入るには要領がいる。浮いてる底板の中心に片足を乗せて沈ませる。下手すると底 板が浮力で勢いよく浮き上がって男の急所を直撃する。うまく重心を取って沈んでも釜にさわるとアッチッチとなるから、丸く身をちじめている。とても伸び伸び手足を伸ばすなんてできない。よく風呂焚きをさせられた。はじめのころは薪で焚いた。新聞紙で着火して木の枝を燃やしそれから薪に火を移す。燃え上がるまでは一苦労である。のちにようやくヒトデみたいな格好のガスバーナーになって楽になった。


 昭和三十年代、ホーロー看板が花盛りであった。街道すじの家々の 壁には百花繚乱のホーロー看板がかかっていた。壁はトタン壁か土壁か板壁だった。食品、飲料、衣料、履物、味噌、醤油、焼酎、洋酒などなどの看板、色もデザインも多種多様だった。いま見てもけっこう優れたデザインがある。なかでもよく憶えているのがグリコキャラメルだ。赤地に白い人物。マラソンでテープを切るランナーのように両手を上げている。イラストのリアリズムがなんとなくレトロなんだね。黒字で縦に文字がある。右に「日本一の榮養菓子」、左に「一粒三百メートル」とある。「榮養」の「榮」も古い文字だ。いまなら「低 カロリー」をうたうのに「栄養」が唱い文句だったんだねえ。三百メートルというのもなんか控え目で奥ゆかしいよね。ただひとつ今でもわからないのが人物の背景にあるもの。バドミントンのラケットみたいな円形の網目があるんだ。あれはいったい何だったんだろう?


 子供の時分、便所は家の外にあるのが普通だった。農家なんかでは風呂場と便所が母屋と離れた別棟になっていた。わが家ではそこまでい かないが、外廊下の端っこに外便所があった。外廊下は囲いも何もないから冬は寒くてたまらない。水洗じゃないから便所は臭いのがあたりまえ、とても家の中には置けなかったんだね。便所はもちろん和式のしゃがみこみ方式。木の床に青っぽい便器がついていた。右隅に紙が置いてあった。なぜか竹製のかごに決まっていた。ちり紙が出回るまでは新聞紙を切ったものだった。しゃがむと下から冷たい風が尻をなでた。自然落下式だからウンコがドッポンと落下するとチャプンと跳ね返りが飛んできた。これを「おつり」と言った。どうすればおつりが来ないか研究したものだ。便所の外側には汲み取り口というものがあった。近所のお百姓さんが定期的に訪れて、肥桶に汲み取って行ってくれた。そのあとで必ず山盛りの野菜を届けてくれた。当時は肥料という立派な商品だったんだねえ。まさに物物交換の時代であった。かつて便所は「恐い」「暗い」「寒い」「臭い」とこだった。いまや水洗便所で便座は温かいし、温水でお尻まで洗ってくれる。快適このうえない。家の中で一番進歩したのは便所と台所ですねえ。

 「東京ブギウギ、リズムウキウキ、心ズキズキ、ワクワク・・・」子供のころわけも分からず唱っていた。笠置シヅ子の調子のよさと明るさが子供にも受けた。もっとも「ウキウキ、ズキズキ」ばっかりで歌詞はほとんど憶えなかった。「世紀の歌、心の歌」はずっと「正義の歌」だと思っていた。こんなことよくあるよね?ところが「異国の丘」は歌詞をカンペキに憶えて唱っていた。「今日も暮れゆく異国の丘に、友よ辛かろ切なかろ、我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ、帰る日も来る春も来る」。辛い悲しい歌だということは子供心にも感じた。戦時中の歌だとばかり思い込んでいた。ところがこ の二つの歌は戦後同じころ世に出たんですねえ。「異国の丘」は苦しい過去を唱い「東京ブギウギ」は明るい未来を先取りしているようだ。ちょうどそういう時代だったんですね。服部良一、吉田正という戦後日本を代表する作曲家の歌だということはずっとあとに知った。いまでは「東京ブギウギ」をサッカーチームFC東京の応援歌として知った世代のほうが多いにちがいない。昭和レトロ流行りのいま、東京駅八重洲地下街に「 東京ブギ」という懐かしのバーが出来ているらしい。一度行ってみようかな?




 むかし知多半島の漁村に住んでいた。名古屋の近くである。7、8才のころだったかな。学校のことはまるで憶えていないが、家の周囲の遊び場圏には懐かしい記憶がある。家は海のすぐそばだった。下校の途中に漁船を作る現場があった。といっても川べりの空き地で手漕ぎの舟を手作りしているだけだ。カンナやノミで木を削ったり組み立てたりするさまを飽かず眺めたものだ。しだいに船の形が現れる。船端の曲線が 美しかった。こんなものを作れる大工は素晴らしいと思った。進水式がまたカッコよかった。新船に綱をかけ切り立った川岸を滑り下ろす。ザバッと着水すると歓声が上がる。岸から餅をまく。ホースで船に水をまく。当時には珍しく賑やかで元気なイベントだった。子供達は大喜びで船を追いかけた。ぼくは「船大工になりたい」と言ったらしい。のちのちまで家族の笑い話のタネになった。





 子供時代おもちはご馳走だった。正月には思う存分おもちを食べた。 子供五人の七人家族だから、1斗、2斗という単位でもちをついた。幼少のころは家でついたものだ。どこからか臼と杵を借りてきて父親がついた。母が介添えをした。のちには業者に頼むようになった。水につけたモチ米を業者まで運ぶのが兄貴とぼくの役目だった。自転車のハンドルに二個のバケツをぶら下げて、坂の上の家から坂下まで運んだ。おもちは雑煮のほかにもいろいろな食い方をした。キナコ餅砂糖醤油をつける。圧巻は火鉢を囲んでの醤油つけ焼きだった。兄弟姉妹が火鉢を取り囲む。「これあたしのよ!」「オレが先だぞ!」なんて言い争いながらやったものだ。それにしてもよくもちを食べたなあ。あのころおせち料理なんてあったんだろうか?




 針仕事という言葉もほとんど聞かれなくなったね。いまの子供はお母さんといえば、どんな姿を思い浮かべるのだろう。台所に立つお母さんかな?(チンを鳴らすお母さんだったりして)昔のお母さんはいつも針仕事をしていた。まず、子供の服にツギを当てる。当時の子供はしょっちゅう服を破いたものだ。野原や森や川や海で遊ぶのが仕事だったからね。兄の服を弟に作り直す。これを「お下がり」といった。弟、妹はいつも割りを食っていた。セーターを編み直す。よく手伝いさせられた。毛糸のたばを両手首に巻いて、腕を広げる。母が毛糸玉を巻いて行く。毛糸をうまく繰り出すために、両腕を左右に揺らす。なにしろ子供だから、疲れてくると腕が自然に下がってくる。「ほらっ、もっとチャンと持って!」なんて叱られたものだった。

 むかしはバッチイという言葉があった。バツイチじゃないよ。汚らしいという意味だが、そもそも子供はみんなバッチかったんだ。夏ならツギだらけの半ズボン(短パン)に汚れたシャツ(下着)にゴムぞうりか裸足。足にはオデキ、膝小僧はすり傷だらけ、頭はシラクモ(かび)、そして青っ鼻をたらしていた。日焼けと汚れで真っ黒な顔に眼ばかり光らせていた。「バッチイ子!」なんて言われても「ヘヘン」と鼻で笑っていた。いつのころからか子供がバッチクなくなった。自然のほうがバッチイことになった。泥や草や虫や動物を「バッチイから触っちゃ駄目!」なんてことになった。かくしていまの子供たちの、なんとまあ、ご清潔でキレイなこと!色は白いし、傷もオデキもないし、むろん鼻水なんかたらしてない。たまにはバッチイ「ガキ」を見てみたいものだ。

 戦後の一時期はヘンテコな道具があった。煙草巻き器 って知ってる?おやじがこれで煙草を巻いていた。アルミの枠に煙草の長さのロールが二本ついていて、間に布が張ってある。ここにまず紙を乗せる。紙はもっぱら英和辞書をちぎって使用した。その上に煙草の粉を散らす。しかるのちロールで煙草を巻くのである。巻いた紙の縁に舌でつばをつけてくっつける。おやじはこいつをうまそうに吸っていたなあ。手作りの電気パン焼き器もあった。 アイロン箱くらいの木箱の内側に、電気コードの端をハンダ付けした金 属板を取り付けて、家庭用の100ボルトの交流電流を流すというものだっ た。この中によくこねたパン種(小麦粉と膨らし粉などを水でねったもの) を押し込んでスイッチを入れると、パンが焼き上がったんだから不思議。市販の電気トースターが出たのは数年のちのことだった。こんな道具はのちのちまで、戸棚や押し入れなどに後生大事に残っていた。こんなものたちが見えなくなったときが、われわれの「もはや戦後ではない」だった。




 戦後それほど経っていなかった。一家七人が親戚の家に居候していた。6歳くらいだったろうか。隣家へよく遊びに行った。優しいおばさんがいた。いつも赤ちゃんに乳を呑ませていた。おばさんといっても若いお母さんだ。ご主人が兵隊から戻っていないことを、大人の話で知った。おばさんのふっくらした真っ白な乳房に引かれた。赤ちゃんが羨ましいような気がした。当時は人前でも平気で乳を含ませた。人前で授乳することがみっともないとされるようになるのはずっと後である。小さな幼児として乳房に引かれたのか、それとも幼い性の目覚めだったのか。夢のような白い乳房のイメージだけが鮮烈に残った。 





 貸し自転車って知っとる?ああ、軽井沢とかのリゾート地なんかでちょっと借りるやつでしょ?・・・と、おっしゃるでしょうね、たぶん。だけど、その貸し自転車じゃないんですよ。小学生のころ貸し自転車に夢中だった。家に自転車なんかない時代の話だ。自転車屋さんが子供相手に時間貸ししてくれたんだ。だいたい子供用の小さい自転車だった。大人用は三角乗りしかできなかった。二歳上の兄貴が借りて来て得意げに乗り回してるのを、指を喰わえて眺めていた。たまにちょっと乗せてくれたけど、すぐに取り上げられてしまった。くやしかった。テレビもゲームもない時代だ。ちっちゃな自転車がまるで宝物のように光り輝いて見えたもんや。 








 まだ幼いころだった。栃木の田舎に住んでいた。夕方になるとよくお使いに出された。兄貴と交代で、末の妹のミルクをもらいに牧場まで行くのである。通りすがりの人家からいつも音楽が漏れてきた。「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン・・・」ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌である。家並の二階のガラスが夕日にキラキラ輝いていた。夢か現か幻か、よくわからないが、この音楽と夕日のイメージは、自分の脳裏には鮮やかである。デジャビュ(既視感)という現象があるらしいが、どうだったのだろう?  






 一年生のときだ。なぜ憶えてるかというと、「二年が来たぞ!」と上級生から逃げまわっていたからだ。田舎に住んでいた。学校は憶えていないが、行帰りの道は記憶にある。畑や田んぼのあぜ道を通り、小川を渡り雑木林を抜けて登下校した。 二年生のガキ大将がいて、こいつが下校途上にしょっちゅう畑で糞をたれるんだ。うっかり同行してると「おい、紙持って来い!」なんて呼ばれるので、たまったもんじゃない。一年生は敬遠して逃げ回ったものだった。 






 広島県呉市に引っ越した頃じゃったのう。ニコヨンさんという人たちが大勢おった。学校への行き帰りに道路工事をやっている姿をいつも見たもんじゃ。「しったい」という言葉も覚えた。失業対策事業の日雇い労働者が、つまり「しったい」の「ニコヨン」さんじゃったんよ。日当が240円だったのでニコヨンと呼ばれた。呉市は明治以来の軍港だった。戦艦大和を建造したのも呉海軍工廠じゃけん。最盛期には人口四十万を誇ったが、敗戦後は半分以下に減ってしもうた。失業者は巷にあふれちょった。ホイトいう言葉も覚えたのう。いまで言うホームレスよ。「ホイトの子」は侮蔑の言葉じゃった。海軍工廠の跡地が、鉄鋼と造船で息を吹き返したのはもっと後じゃったのう。 




 むかしバリカンは一家の必需品だった。もちろん電動バリカンでなく手動式だ。お父さんかお母さんが縁側で子供の頭を刈ってくれた。刃が鈍いとうまく切れなくて「イテテ!」と騒ぐ。「我慢しろ」なんて頭を引っぱたかれた。不器用なお父さんにかかると、刈り跡がギザギザになり「やあ、トラ刈りだあ」とからかわれた。頭を刈ったり、膝小僧に赤チンを塗ったり、垂れた鼻水を拭いたり、身体の寸法を計ったり、当時のお母さんは子供の身体によく触れた。子供は「痛いっ、くすぐったい、キャハハハ!」なんて大騒ぎしながら、触られてけっこう嬉しかった。 




 「蚤虱馬の尿する枕もと」は芭蕉の句だ。そんな風流とは程遠い戦後、ノミシラミは日常会話の花形だった。わが家には畳がひと間しかなかった。あとの部屋は下板に御座敷き。殺虫剤なんてない。あったかもしれないが縁がない。ひたすら追いかけて潰すだけだ。でかいノミを潰したら鬼の首を取ったようなもの。「ほら、これ見て見て」と爪にこびりついたノミの残骸を見せびらかした。シラミ 髪の毛や衣服の縫い目にへばりつく。ノミよりもっと陰険な感じだ。ほかにバイキン、カイチュウ、なんてスターもいたなあ。










 いま台風10号が接近している。それで思い出した。昔は台風に女の名前がついていた。小学生のころ大阪付近に住んでいた。その日は日曜日だったが、数人の友達と学校に出ていた。たぶん先生のお手伝いかなんかだったと思う。そこへ台風が襲って来た。鉄筋の頑丈な校舎は大丈夫だが、外は強風が荒れ狂い猛烈な雨が降った。家が心配になった。台風が去ってどのくらい経ったろうか?母親が迎えに来てくれて一緒に帰った。わたしの胸まである濁水の中を泳ぐように歩いた。どぶの悪臭が鼻をついた。さいわいわが家より手前で水はなくなった。たしかジェーン台風だったと思うがさだかでない。