群馬交響楽団

☆歴史

 萩原朔太郎の「上毛マンドリンクラブ」の流れをくむ若者らが戦前に「高崎音楽協会」を結成した。
高崎音楽協会は「翼賛壮年団音楽挺身隊」と名前を変え、慰問演奏を続けていた。
1945年11月に結成された「高崎市民オーケストラ」は、挺身隊の楽員が集まって始めた。
1947年に丸山勝広が周囲の反対を押し切ってプロ化を決断。
学校への移動音楽教室が始った。
経営は苦しかった。苦境を救ったのは1955年群響をモデルにした映画「ここに泉あり」だった。群響は演奏シーンだけで、音楽は東京交響楽団が録音したが、映画の反響は大きかった。
北関東の小さな都市で生まれたオーケストラの物語は、地方文化に関わる全国の若者を勇気づけ、地方文化のシンボルに群響を押し上げていった。
1956年、群馬県が初の「音楽モデル県」に指定され、1961年には、市民の全面的な支援をうけて高崎市に群馬音楽センターが建設された。
東京以外でまだ音楽ホールは珍しかった。当時の高崎市の人口は13万人、財政規模は8億円だった。
センターの建設予算は最終的に3億3千500万円に膨れ上がっている。
1963年に財団法人群馬交響楽団と改称。
以後、全国規模の演奏活動に拡充された「群響」は日本の交響楽団の中で、NHK交響楽団に次ぐ歴史を持ち、日本の交響楽団運動の先駆として、地方の音楽文化の普及と振興のために地道な演奏活動を展開し、群馬県の文化の象徴としての地位を確立した。
また全国各地での演奏会など意欲的な活動を展開している。
1994年5月には、「プラハの春国際音楽祭」、「ウィーン芸術週間」から同時に招待を受け、高関健音楽監督指揮のもと、4カ国をめぐる海外公演を実現、各地で高い評価を得た。

☆移動音楽教室

「小さい楽器ほど音は高く、大きくなると低くなります」
群馬、上郊小の体育館を埋めた700人の子供達の前で、群響音楽監督の高関健さんが楽器の説明を始めた。
白のワイシャツにノーネクタイ。定期演奏会とは異なり、ややラフな服装で、楽しそうに子供たちに語りかけた。
弦楽器の中で最も大きいコントラバスの番になると、よく見えない後ろの列の子供たちが立ち上がった。
歓声と拍手。そこには昔のままの懐かしい光景があった。
この日は高関さん自らタクトを振った。
「つまらないと思われたら将来の音楽ファンが減ります。手抜きはできません」
小中学校を回って生の音楽を聞かせ、いくらかの料金をもらう。
まだ学校に楽器もレコードもなかった戦後の荒廃期。群響のマネージャー、丸山勝広の発案で「食べるため」に始めた移動音楽教室は、その役割を変えながら今も続く。
地方、それも東京に近い北関東の小都市はオーケストラを支える基盤が弱い。
活動すれば赤字は増える。
群響が創立されて54年。群響を目標に次々と地方オーケストラが誕生したが、そのほとんどは人口100万人をこえる大都市を拠点としている。

☆データ

全国の地方オーケストラを比較すると、楽員数が最も多いのは大阪フィルで95人。名古屋フィル81人。札幌響80人と続く。群響は71人で仙台フィル、九州響とほぼ同じ規模となっている。
年間事業費もオーケストラの規模に比例する。大阪フィルは11億4千400万円でトップ。群響は7億2千200万円だった。
年間の音楽鑑賞教室は群響が111回で群を抜いている。山形響がこれに続き69回。大阪フィルは行っていない。

(参考記事 上毛新聞)

群響と第9をうたう会

1995年11月、富岡市の「かぶら文化ホール」のオープン記念に、ベートーベンの「第9」を歌おうと富岡市の教育委員会の呼び掛けで「群響と第9をうたう会」が発足。
県内では8番目の「第9をうたう会」であった。
人口も5万人ほどの富岡市、「第9」を歌う本格的な合唱組織も初めてとあって、どれほどの人が集まるかと心配されたが、400人を超える応募者が集まった。
合唱指導に織田修一、ピアニストに加世田直人、をむかえ毎週火曜日夜7時から9時までの練習がスタートした。
ベートーベンの「第9」を歌うのは初めて。という団員がほとんど、合唱もやった事がなかったという人も多く、それぞれに不安を抱えながらのスタートだった。
1年を超える長丁場。練習は通算52回にものぼる。
1996年12月1日。男性64人女性236人の「第9」の合唱が「かぶら文化ホール」のこけら落としを飾った。
1997年12月には合唱指導に大島弘ピアニストに小林直子をむかえ「第9」を、
そして1998年11月にはモーツァルトの「レクイエム」を演奏。
今年1999年は「第9」を、 そして2000年には、ヘンデルの「メサイヤ」を、2001年には「第9」を演奏。
2003年3月にはハイドンの「天地創造」を演奏する予定で練習を重ねている。