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人を裁き、殺す権利なのか?:人間は神様の替わりになる時、人間は宇宙を創造した神様を創造出来ないから。

400年ぶりの新しいカトリック教会公認公共要理、
英語版・スペイン語版

聖母マリアのファチマの予言、ヴァチカン市国から
(平成12年6月26日)ファチマの第三の秘密公開された。

[英語, フランス語, ドイツ語, イタリア語, ポルトガル語, スペイン語]


バチカンが公開なさったファチマの第三の秘密にはまだ謎がいっぱい残されています
ポルトガルにおいては常に信仰の教義が保持されるでしょう、等々とは他の国々には
信仰の教義は保持されないと言う意味でしょう。実際にはこのようなことは既に起こっています。
どうして最近ロザリオが嫌がれるようになったでしょうか。
 

聖マラキは故法王(110番目)を「労働者の太陽」と預言し的中したといわれています。
そして次期法王(111番目)を「オリーブの栄光」と預言しています。はたしてその通りの人選となるのかどうか。
そしてその法王の期間、バチカンはかなりの迫害を受けるようです。
さらに、いわゆる恐るべき審判までには、そののち就任される112番目の法王のみ。
注目せざるを得ません。

 

次に選ばれる教皇はファチマの予言に出ている通りバチカンに対する迫害によって
殉教かそれとも天罰の警告であると私は推測します:

 

1917年7月13日にファティマのコヴァ・ダ・イリアで明かされた秘密の
第3の部分。】

私の神よ、レイラの司教を通して、またあなたと私のもっとも聖なる御母
を通して、あなたは書くようにと命ぜられましたので従順にこれを記します。

すでにご説明申し上げた(訳者補足:秘密の)2つの部分のあと、聖母の
左側と少し上方に、一位の天使が炎に包まれた剣を左手に持っているの
を見ました。剣は光を放ち、炎をあげ、まるで世界に火をつけるかのように
思われました。しかし火は、天使に向かって聖母の右手が放つ輝きに触
れると、次第に消えてゆきました。天使は右手で地上を指しながら大きな
声で叫びました。「悔い改めよ、悔い改めよ、悔い改めよ!」
(どうして黙想会の時の告解の秘蹟はミサ後なのでしょうか?)

そして私どもは測り知れない巨大な光である神の中に見たのです。白い
服の司教様で、「鏡の前を人が通るときに見られるような姿に似ていまし
た」「私どもはそれが教皇様であるという印象を持ちました」。他の司教たち
や、司祭たち、男女の修道者たちが険しい山道を登っており、その頂上
には粗くおおざっぱに切り落とされた枝つきのコルクの木で作られた大き
な十字架がありました。そこに到達する前に教皇様は半分崩れた大きな
都市を半ばふるえながら、おぼつかない足取りで通られ、痛みと悲しみ
のために苦しみながらも、行く先々に転がる屍の霊魂のために祈ってお
られました。山の頂の大きな十字架のもとまで膝行しながら到達される
と、銃弾を放ち矢を射る兵士の一団によって教皇様は殺されてしまわれ

同じようにそこで他の司教たち、司祭たち、男女の修道者たちと様々な
立場や階級の信徒たちも殺されてゆきました。

十字架の2本の腕木の下には2位の天使がそれぞれクリスタルの聖水
盤を手にしており、それに殉教者たちの血を集めては神へと向かう魂たち
へふりかけていました。

 

ロザリオの祈り方(注意:異端の天使祝詞口語体版を使わないで下さい

新しい光の玄義

司祭のマリア運動 ロザリオの正しい祈り方等の説明が詳しく書いてあります。


証拠の一つ:聖体に対しての正しい教えに何が起こっているのでしょうか。

ポルトガルには口による聖体拝領は守られています!!

ちなみにラテン典礼の原文は

Accipite, et  manducate
受け   そして 食べよ

であって、「手で取れ」なんかじゃない。

現代の 聖書翻訳は可笑しくなっています。


現代の聖書翻訳はどうなっているのでしょうか?

聖体拝領はそして何よりも自分に大罪が無いことに”疑問さえ無い”こと:あれば聖体拝領ではなくて告解の秘蹟を先に受けなければ聖体への冒涜、即ちドミノ倒しのように重い罪が重なっていて聖体配慮する”意味”が無くなりますから絶対にやらないで下さい。これは交通事故以上危ないことです!!!

   手での聖体拝領の実践、この異なった実践は、多くの哀れなカトリック者たちが真の現前への信仰を喪失するという不祥事を起こさせるために、教会の敵どもによって効果的に用いられてきました。ですから、多くの世紀にわたって教会の普遍的な法によってこの手での聖体拝領の実践は禁じられてきましたが一部の地域の司教様の手による聖体拝領の許可の申請があったのでこの一部の地域には千年ぶり”許可”されました。でも教皇様はこのような方法を勧めたこを聞いたことはありません:実際教皇様の聖体拝領の役9割は口で行われます。
   正統的な教説を支持する実践は正しい実践(ortho-praxis、すなわち正統的なカトリックの実践)として言及されます。これらは、御聖体の前で跪くこと、舌の上に御聖体を配ること/舌の上に御聖体を受けること、御聖体がまします聖櫃を主要な注意(および礼拝)の焦点として至聖所の中心に維持すること、御聖体における神の現前へのしかるべき尊敬を示す至聖所内部での聖職者の厳粛な振る舞いなどの実践を含みます。正統実践(信仰を支持する正統的な行為)のこれらの例は、聖別された御聖体が神の真の現前--パンの外観の下でのわれらの主イエズス・キリストの身体、血、霊魂と神性--であるという教義の真理を、そして同様にまた神に対する人間の適切な尊敬を証明するのです。
   御聖体がまします聖櫃を至聖所から側室あるいは箒を入れる小部屋へ永続的に移すことです。その結果至聖所における主要な注意(および礼拝)の焦点が司式司祭の座--「集会の座長」--となります。その椅子に座る人物が御聖体よりももっと重要であるというメッセージが巧妙に与えられ、受け取られます。そして「集会の座長」は人々を代表しますから、そのとき神は重要ではなくて、人間がもっと重要なのだというメッセージが巧妙に与えられるのです。簡潔に言えば、これらの宗教的集会に集う人々の精神と心においては、神が事実上人間によって取って替わられてしまったのです。異なった実践のこの例は、御聖体はそれほど重要ではない、それは単なるパンであるという誤ったメッセージを平信徒の人々に伝え、そしてそれは神の真の現前--ホスチアの外観の下でのわれらの主イエズス・キリストの身体、血、霊魂と神性--ではないという異端を促進するのです。

     そうして何よりも大切なことの一つは聖体拝領の前に自分の犯した罪を振り返って、重い罪があればそれを悔い改めて、二度と起こさないように決心して告解の秘蹟(聖霊の恵み)で主の御許しを受けてから聖体拝領を受けることです。これは主が次のように使徒たち(当時の教皇様、司教様)に言われたからである:

”...そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた
がたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(ヨハネによる福音書20.22-23)
Real Audio

  これもファチマで聖母マリアが出現なさった時に言われたメッセージの中に込められた意味の一つでもある。
なぜかと言うと私たち生きている人間は死を体験していないのにどうして地獄は存在しないと想像出来るでしょうか、そうして聖母マリアも大勢の人々は永遠の地獄に落ちっていると言っていました。神様は愛ですから地獄は存在しないではなくて地獄に落ちる自由の責任を与えて下さるまでに愛してくれるのです。

   こうしなければ汚聖の罪を犯すことになりますのでこのような罪が赦されないままに残る場合に人々はReal Audioファチマの聖母が教えてくれた永遠の地獄に堕ちる事になります。

教皇(ローマ法王)ヨハネ・パウロ二世, 手による聖体拝領:

  私は教皇の列聖式ミサを見るときに教皇様の聖体拝領を9割ぐらい人は口で受けています。手で受ける人は殆ど女性でした。
とはフェミニズムと手での聖体拝領とは関係があるでしょうか?
教皇のミサと聖体拝領はここで見ることが出来ますー>
Live EWTN TV 



「この特別許可につての使徒的書簡がありますが、私は私がそれを支持していない、...そして、私はそれを勧めていない!」1980年11月、ドイツ(101Times、Vol.4、No.2、1992、tel:908-689-8792(USA))

 

口による聖体拝領はマザーテレサをも含めてやってきた諸聖人たちが教えてくれる”正しい”聖体拝領。作成日:2002/04/01

The Holy Eucharist

St. Agnes Church, New York in 1989,Fr. George Rutler とのインタビューの中でマザーテレサはこう答えました:

『世界の何処にいても、私を最も悲しんでいるのは人々が手による聖体拝領をするのを見かけること。』Mother Teresa

「私は毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主をいただいています。もう一つは、町の巷の中でいただいています。先日、町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引き揚げてみるとおばあちゃんで、体はネズミにかじられて、ウジがわいていた。意識がなかった。それを体をきれいに拭いてあげた。そしたらおばあちゃんがパッと目を開いて、マザーありがとう≠ニいって息を引き取りました。その顔は、それはそれはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした。なぜかと言うと私にとっては、イエス様のことばはすべて神秘。私は飢えた人、凍えた人の中にいる≠ニおっしゃったように、あのおばあちゃんの中に主がいらっしゃった。そのおばあちゃんを天に見送った時に、私の中に主がきてくださったのです」(粕谷甲一『マザー・テレサの道・二つの聖体拝領』)。

「さらに、シスター達が舌に御聖体拝領を受けることは我々の修道会と私の願いの習慣である、そしてそれは、私の知る限りでは、彼らはこれを何処でも実施している。」(India,1995)

カトリック教会はフリーメーソンを破門している。教皇様は彼らの考え方を破門しています。