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聖母マリアの復権を願って

 

                           川 崎 重 行
                           「ヴァチカンの道」第35号

【はじめに】

 改革には痛みが伴う。今まで慣れ親しんできた習慣を捨て、新しい習慣に移行する時、人はノスタルジーから逃げられない。しかし、物事の本質が十分に保たれた上で断行される時宜に適った改革には異論を唱えるべきでない。私は闇雲に新しい習慣を批判しない。基本的には司教団の意向を最大限に尊重し、小教区の主任司祭には従順を貫ぬこうと心に決めている。但し、本質が著しく無視された改革(改悪)は例外である。このたびの論考もこの見地に立つものであり、母なる教会を攻撃する意図は毛頭ないことを予め断っておきたい。今回は聖母被昇天号にちなんで、聖母への熱き思いを拙文に託す。

1.口語化天使祝詞の問題点

(1) 本能的に感じる危険

 主の祈りと天使祝詞の口語バージョンが導入された。本誌でも名にし負う論客が様々な角度からその問題点を指摘してきた。年端も行かぬ私などはとてもオピニオンリーダーとは成り得ぬが、まずはこの論壇に交じって私見を述べ、後半では今まであまり指摘されることのなかった論点に的を絞り、小論を展開したいと思う。

 聖母信心に篤い人たちが開く祈りの集いでは、今でもロザリオが唱えられる。このような集いに参加すると、総じて従来の文語の祈りが好まれていることに気付き、清々しい気分になる。年輩者が古き良き時代を懐かしんでいるのではない。前号で述べた通り、この種の集いには若い世代の参加者もやけに多い。世代が違えば言語感覚が違うのも当然と思いきや、ことロザリオに関しては、90パーセント以上の人たちが従来の文語を支持している。どうやら大衆は口語訳の危険性を本能的なレベルで察知しているようである。

 「恵みあふれる聖マリア」という出だしからして「誤訳ではないか」と誰もが口を揃えて言う。「あふれる恵み」と「聖寵」とでは概念上、意味が異なると皆が言う。前号の澤田昭夫氏のご高説のように無尽蔵の専門知識に裏打ちされた正論を語れる人は滅多にいないが、それと全く同じ内容を大衆は皮膚感覚の言葉で率直に表現している。大半の人々は神学知識に長けていない。必然的に専門的な議論を避けたがり、持論をストレートに聖職者にぶつけるような手荒いことはしない。いずれの祈りも小教区では素直に口語で唱え、家では文語に「帰郷」し、心の平安を取り戻す。必然的にプライベートな会合ではなんの迷いもなく文語を選ぶ。しかし、彼らの悲痛な叫びは教会当局には届かない。

(2) ダブルスタンダード

 このようにして生じてしまったダブルスタンダードはもはや解決の糸口が見つからない。厳粛な気持ちになれない日常語による祈り、唱えながらもどかしく感じる、あのリズムのなさは多くの人を苛立たせる。これから教会の門を叩く人にこのダブルスタンダードはどのように映ることか。私の友人の若い女性は職場の同僚がカトリックに興味を持ち出したので、終業後にイグナチオ(麹町)教会の夕ミサに一緒に通うようになった。彼女は道を求める同僚を懇切丁寧に導き、信徒としての宣教の使命を十分に果たしている。専門的なことについては司祭の指導を仰ぐように勧め、自分は橋渡しの役に徹している。しかし、主の祈りと天使祝詞の口語訳だけは生理的に受けつけないらしく、「教会ではこちら(口語)を唱えて、プライベートではこちら(文語)を使ってね」と珍しく本音を吐露した。現段階では、彼女のアドバイスも同僚にとっては謎めいたものであろう。しかし、同僚もやがて彼女の言葉の真意をかみしめる日が来るに違いない。このように、変える必要のないものまで強引に変えてしまうお粗末な刷新主義が教会に無用な混乱の種を撒いている。

(3) 嘆かわしい省略

 日本に長らく居住している外国人信徒と交流すると、国籍の異なる複数の人々から同じことを指摘され、日本人には盲点となっている現実が浮かび上がる。「日本の教会は重要なことを目にもとまらぬ早業でオミット(省略)する」と彼らは言う。これには概ね同意せざるを得ない。たとえば、ミサ中に唱える信仰宣言は、元来の使徒信経と比較して、重要なファクターが幾つか省略されているように見える。これについて然るべき説明を受けたことはない。何事もいつのまにか省略され、それに対してなんの説明もないままに時が過ぎる。いつかは是正されるに違いないという淡い期待も大抵は裏切られる。ふと気が付けば嘆かわしい新習慣が市民権を得ている。

(4)「女のうちにて」と「ご胎内」の欠落

 さて、ここからが本題である。口語訳の天使祝詞では「女のうちにて」と「ご胎内」がオミットされた。この二つの語句にはカトリック信仰のエキスが凝縮されている。どさくさに紛れて行われたこの省略が気の早い人からフリーメーソンの影響などと批判されても言い逃れはできまい。もしこれが悪意のないケアレスミスであったとすれば、何年もかけて口語化を推進し、吟味に吟味を重ねたに違いない委員会の人たちの能力が疑われる。万一、悪意があったとすれば徹底的に糾弾されるべき由々しき事態といえよう。

2.霊的なアーク

(1) The Lamb's Supper

 ここからの論説はFranciscan University of Steubenville(米国)の神学教授、スコット・ハーン氏の著書、The Lamb's Supperを参考文献として用いたい。この本のタイトルは日本語に直訳すれば『子羊の晩餐』となる。護教学(apologetics)の立場からミサ聖祭の神秘を教父たちの教えや聖書的根拠に照らして解き明かした傑作である。基本的にはミサを主題とした本であるが、ある章では聖母についても触れている。その要約を紹介しながら聖母の特性を考察し、それが欠落してしまった口語化天使祝詞の欠陥を論証してみたい。

 The Lamb's Supperは純粋なカトリック書籍であるが、一般大衆を魅了して一躍ベストセラーとなった。一昨年の暮れに発売されたが、今でも全米ブックチャート上位の座を譲らない。著者の博識に加え、モダンな文体、読者の知的好奇心を刺激する独特な文章術のなせる業であろうが、その内容は極めて神学的色彩が強く、一般人を神学と向き合わせる絶大な効果を生んだ。ちなみに、この本には司教のimprimaturが付されている。これから述べることはカトリシズムの歴史的大河の本流をなすものであり、決して新説ではない。

(2)契約の櫃

 ヨハネの黙示録の第12章には「太陽に包まれた婦人」が登場する。諸説があるものの、カトリック教会は歴史的にこの婦人を聖母の象徴と解釈してきた。第12章の直前にはこう書かれている。「天では神の神殿が開け、その中に契約の櫃が見え……」(黙11:19)。契約の櫃はアークとも呼ばれる。アークは突然、歴史から姿を消した。預言者エレミアは「神が民をふたたび集めてあわれみをくだされるまで、その場所は人の知らぬところとして残る」(マカバイ下2:7)と言い残し、アークを隠してしまった。今、世界中の資産家、冒険家がアークの発掘に莫大な資金をかけて動いているが、我々カトリック教徒は霊的なアークとも言うべき「新しい契約の櫃」に心を向ける必要がある。それは「聖母アリアのご胎内」のことである。黙示録第11章の最終節(19節)は、その後に続く「婦人」のダイナミックな活躍のイントロであった。

 モーゼの時代の「古い契約の櫃」は美しい黄金の装飾のゆえに聖なるものとされたのではない。その中に収められた十戒、すなわち、神の指によって石板に刻まれた法によって聖なるものとされた。荒れ地をさまよう旅路の中で神の民を養った奇跡のパン(マンナ)とアロンを大祭司に導いた杖(民数記17章参照)もアークには収められていた。これらはユダヤ人にとって至宝であった。

 古い契約の櫃は石板に書かれた神のみことばを収めていたが、聖母マリアはそのご胎内に、人となられて私たちのうちに住まれた神のみことばを宿された。カトリック教徒は伝統的にアンジェラス(お告げの祈り)を唱える。「しかして御言葉はひととなり給い、われらのうちに住み給えり」と心を込めて唱える。イエズスが母マリアのご胎内を通り、この世においでになったことが無意識のうちに頭にインプットされる瞬間である。我々の心にさりげなく真理を叩き込む伝統の力を私は畏敬する。

 古い契約の櫃はマンナを収めていたが、聖母マリアは天から下った「命のパン」をご胎内に収められた。この命のパンは今でもご聖体として地上に残り、聖櫃は現代のアークの役割を果たしている。ある地域で聖母信心が崩れると、必ずワンセットのように聖体信心までが崩壊の憂き目に遭う。聖母信心と聖体信心は常に不可分な関係にある。聖ドン・ボスコが見た予言的な夢はそれを暗示させるものであった。教皇が舵をとる大船に無数の小船が襲撃する。二つの大きな柱の上には、聖母マリアの姿とご聖体が見えた。教皇の大船を襲う小船は今、教会内を荒らしている教理上の誤謬と典礼の乱れを象徴するものと思われる。これらの謬説及び悪しき慣行は究極的にカトリックの大黒柱、ご聖体と聖母を攻撃目標に据える習性を持つ。カトリックの最もカトリックである部分を滅ぼせば、後は如何に(愛の本源たる神を無視して)軽薄な隣人愛を説こうが社会正義を叫ぼうがサタンにとって怖いものは一つもない。

 さて、古い契約の櫃は大祭司アロンの杖を収めていた。一方、聖母マリアは永遠の大祭司、イエズス・キリストをご胎内に収められた。ヨハネが太陽に包まれた婦人を見る前に契約の櫃を見たのは決してこれと無関係であるまい。

3.日本の教会の致命的欠点

 口語訳の天使祝詞から「ご胎内」という重要な言葉が抜け落ちてしまった真相を知る者はいない。起草者による悪意はなかったと信じたい。しかし、裏で暗躍するサタンの気配を感じる人は多い。今、カトリック教会は思慮分別を欠いた改革によって、聖なるものが次々と剥ぎ取られ、キリストの神秘体は徐々に骨抜きにされている。冒頭に述べた通り、私は保守頑迷な者ではない。「昔は良かった」と同じ事を繰り返し言うほど歳をとってはいない。しかし、物事を改革する必要がある時は、清く正しく抜け目なく遂行してほしいものである。素人目にもすぐに問題が露呈してしまう下品な改革はいただけない。もっとも、主の祈りと天使祝詞の口語化は全く不要であったとしか言いようがない。今でも十分に意味が通じる文語である。せめて、祈祷書に「参考口語訳」として掲載する程度に留めてほしかった。明らかな欠陥を知りながら公的な場所ではそれを用いなければならない信徒の気持ちにもなってほしい。

 日本の教会の致命的欠点は何事も十分な説明のないままに新制度が導入されることである。たとえば、奉献文の最後を締めくくるドクソロジーでは、本来、会衆は「アーメン」とだけ言うべきところを最初におかしな歌ができてしまった関係で「すべての誉れと栄光は代々に至るまで」も会衆が歌うようになった。詳しい経緯は知らないが、世界でも極めて稀なるこの珍習慣は聖座との折衝の末、歌う時のみ認められたと聞いたことがある。しかし、今では歌わない時も「すべての誉れと栄光…」以下を会衆が唱えるスタイルが定着している。私は何事も司教団の意向であれば少々の不満は腹におさめる覚悟を決めている。しかし、いまだかつて何故そのようになったのかという納得のいく説明を聞いた覚えがない。万事がこの調子である。改変の理由を問うことは信徒の権利であろう。ところが、この権利を行使する者はかなりの確率で煙たがられる。

 「開かれた教会」を標榜する日本の教会の実状は「閉ざされた教会」である。正論が全く通じない。ここに日本の教会の病理を見る。まともな説明なしに「これからはこうしろ」と命じる態度は信徒を愚弄するものである。教会当局は「ご胎内」と「女のうちにて」を削った理由を明らかにすべきである。

4.新しいエヴァ

(1) プロトエヴァンジェリウム

 ご存知のように、創世記3章15節は原福音(protoevangelium)と呼ばれる。人祖アダムとエヴァの堕落によって原罪がこの世に入り込んだことを憐れんだ神がはじめて救いの約束をされた箇所として知られる。神はエヴァをそそのかして禁断の木の実を食べさせた蛇に「宣戦布告」をされる。この布告は人類にとっては救霊の予告であった。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意をおく。女のすえはおまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」(創3:15)。ジョン A. ハードン神父(イエズス会)編著『現代カトリック辞典』(エンデルレ書店)によれば、「女のすえ」とは聖母マリアと「その子」を意味する。これはもはや通説である。エヴァの子孫とサタンとの対決は聖書の最初の書物である創世記で予告され、聖書の最後を飾る黙示録でクライマックスを迎える。古代ヘブライ語では蛇と竜をnahashという同じ語で表した。黙示録の竜は太陽に包まれた婦人が産み出そうとする男児に攻撃を仕掛けようとする。イエズスは蛇を粉砕するためにこの世に遣わされた方である。

(2) 天使によって告げられた真実

 故伊藤庄治郎司教(前新潟教区長)が1984年4月22日、司教書簡で認可した秋田の聖母に関する私的啓示にもカトリックの教えの再確認となる重要な出来事が含まれていた。安田貞治神父(神言会)著『聖母マリア像の涙』(エンデルレ書店)によれば、聖母像が最後(101回目)の涙を流した1981年9月15日(悲しみの聖母の記念日)の13日後、シスター笹川は守護の天使の気配を感じた。今までのように姿は見えなかったが、代わりに目の前に神秘的な光を帯びた大きな聖書が現れ、シスターはそこに「創世記3章15節」という文字を認めたという。安田神父の本から天使の言葉を引用しよう。
「お涙の流されたこの101回という数字には意味があります。一人の女によって罪がこの世に来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に来たことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神の存在を示しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです」。
 
 聖母の出現、天使の出現といった神秘現象は「現代の風潮に合わない」という理不尽な理由で無視されたり、ろくに調べもせずに否定されるのが昨今の習わしであるが、人々が神の恩恵を忘却しているご時世であるからこそ天は超自然的介入(私的啓示)をもって哀れな人類を眠りから覚ますのである。

(3)二人の「女」のコントラスト

 エヴァとマリアは一対をなしている。地上に原罪を持ち込んだ者と地上に救い主をもらたした者として、二人の「女」の対照的なキャラクターが鮮明に描き出される。キリストが新しいアダムであれば、聖母は新しいエヴァである。女のうちにて祝せられし聖母は、当然のことながら女でなければならなかった。イエズスは聖母の胎内を通って世に現れた。神の子であれば、いきなり成人の姿で地上に降臨してもよさそうに思えるが、わざわざ一人の女の胎内を通ってお生まれになった。十字架上でイエズスは聖母を指し、最愛の弟子ヨハネに「汝の母なり」と宣言された。この瞬間、聖母はキリストに従う全ての者の母となられた。私たちも洗礼によって霊的に聖母の胎内を通って生まれるかの如くである。教皇ピオ10世は黙示録第12章に言及し、回勅Ad Diem Illum で次のように宣言された。

 <だからヨハネは、すでに永遠の幸福に入っていながら、なおも神秘的出産のうちに陣痛の苦しみを受ける神の母聖マリアを見たのである。この出産は何を意味するのか。間違いなくこれは流刑の身でありながら完全なる神の愛と永遠の幸福にあずかるように創られた私たちの出産を意味する>

 「御身は女のうちにて祝せられ」という言葉には深い意味があった。「主はあなたを選び祝福し」では神学的に辻褄が合わない。「ご胎内の御子イエズス」が「あなたの子イエス」に変わった理由も定かではない。わざわざ厳粛な意味(ご胎内)を消去している。どうでもよいことだが、ついでに「イエズス」が「イエス」になってしまった。これはプロテスタントへの迎合であろう。なんでも新しくすれば進歩であると信じる軽薄な思考には閉口する。これは祈りの口語訳に限った話ではない。「新しい○○」、「新生○○」などと題した方針が発表されるたびに、必ずと言ってよいほど凡人の目にも明らかな失態が伴うのは何故なのか。夥しい数の信徒が泣くのを見ると切なくなる。

5.提言

 カトリック教会内で聖母信心が下火になってから久しい。このたびはその礎となるべき祈りまでが「改悪」されてしまった。軍事上の拠点(基地)が破壊されるとたちまち戦力が低下するように、霊的な戦いにおいて、日本の教会は計り知れないダメージを被った。今後も教会内で聖母を軽視する風潮にますます拍車がかかることが懸念される。

 私は長年の信徒生活を通じて、あることに気付いている。サレジオ会やレデンプトール会のように聖母信心を大切にする修道会が運営する小教区は信徒同士の絆が深い。帰宅した子供たちが母親の姿を見て心和み、兄弟姉妹、家族の結束を強めるように、母親への思慕は家庭全体に平和と繁栄をもたらす。片親のいない家庭に多くの問題が発生するように、教会も母親を欠いた状態では健全な信仰を保てない。

 今、歪曲化されたエキュメニカル運動(本来は良いこと)の餌食となって、多くの小教区でロザリオを排斥したり、聖母像を片隅に追いやる悪習が横行している。これだけではない。神学校では聖母神学がまともに教育されていないため、聖母のドグマを詳しく知らぬ司祭が数多く生まれている。聖母被昇天祭のミサの説教が終戦記念日の話題一色に染まってしまったり、神の母聖マリアの祭日(1月1日)の説教が「あけましておめでとうございます」で始まり、一年の抱負を延々と述べる「新年会」に様変わりする小教区も珍しくない。
 
 今、日本の司教団が抱えている司牧上の悩みは私なりに理解しているつもりである。私は他の教区の司教が発表されたメッセージも可能な限り収集して、周囲の人々に報知している。そして、教区においては司教のリーダーシップが大いに発揮され、日本の教会がめざましい発展を遂げることを心から願っている。ひいては日本の教会が社会を聖化する原動力となることを夢見て、日々、拙い祈りを捧げている。

 最後に本誌をご覧になっておられる司教方にこの場を借りて一つだけ要望を提出させていただくことをお許し願いたい。今、「教会の母」は人々の祈りを待ち侘びておられる。しかし、過度にリベラルに傾いた教会にはまともな聖母信心が根付かない。信徒は母親の素顔を知らぬ孤児となっている。そこには言い知れぬ悲哀があるが、人はその悲哀がどこから来るのかわからない。カナの婚礼を引くまでもなく聖母の取り次ぎには人知を超えた力がある。日本の教会の発展も聖母信心にかかっていると確信する。諸外国を見れば明らかなように、聖母信心の強い国の教会は必ず栄える。

 今こそ聖母マリアの復権を実現させるべく教区内の司祭と信徒に正しいご指導を行っていただきたい。そのことを伏してお願い申し上げる。(了)