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安田神父の説教(その2)

安田神父の説教をテ−プからおこしたものをまとめた未発表分です。
説教(会話)文からですので読みづらいところもあります。
そのうちにまとめて文集3冊目として出版予定。
新しい口語体の天使の祝詞は人間的で偽善的な考え方の解放の神学を取り入れた祈りです。(津嘉山 弘から)
2002年8月26日
御ミサの説教(マタイ福音書23章13─22)


 今日の福音は、「そのとき、イエズスは言われた。立法学者たちとファリザイ派の人びと、あなたたち、偽善者は不幸だ。人びとの前で、天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人びとも入らせない」、ということを言っているのである。だから、イエズスさまの時代、二千年前にです。
そのユダヤ教のファリザイ人とか、律法学者というものは、それは、ユダヤ教において、その宗教の指導者であったのであります。導き手であったのである。
それがわたしたちにとって、二千年後のわたしたちにとって、ファリザイ人とか、律法学者が今、現にいるのでしょうか。わたしたちの目の前には、いくら考えても(福音書に書かれている)ファリザイ派とか、律法学者は(現実には)いないのです。

 わたしたちは、みんなネ、もう、いないと考えておるでしょう。
そして、(このことは)イエズスさまの(単なる)教訓にすぎないからと──。
それで、その教訓というものを、わたしたちは生かしてネ、使わなければ、わたしたちの霊魂の為には助かりにならないでしょう。だから、(その教訓からいえば)現代の教会の司祭とか司教とか、みんなファリザイ人であり、律法学者である(と言える)のであります。
それで、ユダヤ教においては、(彼らは)そのような律法の指導者であったから。だから、(現代では)わたしたちは、信仰の導き手というものは、わたしたちの現在においては、教皇とか司教とか司祭たちがそれである。
そして、神学者たちもみんなネ、律法学者であり、ファリザイ派と同じ職務とか、任務をもっていたのであります。

 だから、それで、イエズスさまは、その悪いファリザイ派の人びとや、それから、律法学者というものをネ、それを批判しておるのであります。「人びとの前で、天の国を閉ざすからだ」と書いてある。「自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも、入らせない」ということも書いてあります。だから、今日の日本の教会の様子を、具体的に考えて見ると分かるようだ。まあ、わたしの目からすれば、今日、口語体の祈りというものは、本当に神さまの意図を、十分に表さないで、人間の考えを指し入れて、そして、もう、この口語体の祈りを作って、これをみんなに強制しておるのである。この祈りを唱えなければ、破門される、ということであるらしい。

 だから、信者たちは、みんな恐れて、なにも考えないで、そのように祈っておるのである。
けれども、特に「天使祝詞」にねぇ、二つの重要な部分を省いておるのです。
文語体は、「女のうちに祝せられた」とありますが、口語体はそのことを省いております。口語体は、女であれば、マリアさまになれる、ということです。誰でも女であれば、マリアさまになれる、ということです。それは神さまの思召しではないのであります。
それから、また、「ご胎内のおん子イエズスさまも祝せられ給う」も省いておる。
それは、イエズスさまのご託身というものは、わたしたちにとって、最も重要なもので、唯一の救いのネ、メッセージであったものである。

 イエズスさまが、人間に、神さまの御子が人間にならなければ、わたしたちを救うことができなかったものである。この出発点を、みんな、ごまかしてネ、ボヤケさせているのである。
そのような、変えられた祈りを唱えても──。神さまというものは、あくまでも真理であります。正しいものである。正しい祈りをもって、わたしたちは神さまに願うことは正しいけれども──。間違った祈りをもって、人間がネ、この混ざりものを加えて、人間の混ぜものを加えて、そうして、この何ですか、純粋さを失った祈りを唱えても、神さまは、それを喜ぶことはできません。

(神さまは)真理でありますから。
だから、今日のイエズスさまの説教を、当てはめて考えると、「あなたたち偽善者は」と書いてある。そのとおりです。偽善者というものは、いかにも神さまの前に善なるものとして(ふるまう)、このような指導者であるのです。(このような指導者も)務めを持っているものである。権利をもっておるんでしょう。それで「あなたたち偽善者は不幸だ」ということをイエズスさまは言っているのです。(繰り返しますが)、「あなたたち偽善者は」と書いてあるごとく、偽善者というものは、いかにも神さまの前に、善なるものとして(ふるまう)、この指導者たちのことであるのである。

 
 それは、今日においても、福音をもっておるものたちである。権利をもっておるんでしょう。それで「あなたたち偽善者は不幸だ」ということを、イエズスさまは遠慮なくおっしゃった。「人びととの前にネ、天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。律法学者たちとファザイ派の人びとよ、あなたたち、あなたたち偽善者は不幸だ」と。

(彼らは)真理を伝えないで、自分の混ざりもの、自分の欲望、自分の名誉になるものを加えたのです。
(彼らは)この口語体の祈りをネ、変えたのは、最も素晴らしい祈りだ、と。神さまのかわりに、じぶんたちは、神さまの代理者である、と。それは、神さまに忠実じゃなくてネ──。

 それは、今までの祈りはネ、古い祈りであるから、今はネ、新しい時代である、とネ──。
そして、今はネ、この刷新の時代であるから、祈りも変えなければならない、と言ってネ、自分たちのネ、考えで、おそらく変えたのであります。それは、あきらかに人間的混ざりものであります。そのようにして、わたしたちは、この祈りを唱えても、神さまは喜ぶことはできないのである。決して喜ばない。それは、権利に従順であると言っても、その間違いに従順というものは、神さまは喜ぶことはできないのであります。

 それでネ、「天の国を閉ざしてネ、自分が入らないばかりか」と書いてある。
それは、偽善者であるからネ。入ろうとするネ、この羊たちをもネ、このネ、何も知らない信者達が、それに、従って入ろうとネ、入ろうとする人びとを入らせないのである、と書いてある。それは、イエズスさまは、その当時の律法学者とかファリザイ派の人びとの偽善的行いをネ、その現実に行なわれていることをみて(言っているのである)。

 イエズスさまは、その事態を見て、イエズスさまは、明らかに批判しているのであります。
それは、「改宗者を一人つくろうとしてだよ、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができてくると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」、と書いてある。
 これ(偽善者たち)は、将来の世の終わりまでネ、宗教という名のもとにネ、行なう。
それで、今、全世界に宣教という(名のもとに)ネ、教会でネ、声を大きくしておるのである。けれども、この改宗者、(つまり)わたしたちがネ、改心してネ、そして信者になっても、それでもイエズスさまは、「(偽善者たちが)地獄の子にしてしまうのである」、と(言っている)。

 それは、不信仰の道を歩む(ようになるから)、ということである。それで、イエズスさまは、そのたとえをネ、明らかにあげて、その非難するのである。「物の見えない案内人」と書いてある。その案内人というものは、司祭であり、司教である。あるいは教皇である。「あなたたちは不幸だ」と書いてある。
(物の見えない案内人は)『あなたたちは、神殿にかけて誓えばだよ、その誓いは無効であるが、だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
神殿というものと、神殿を飾っている黄金というものは──。みんな黄金というものはネ、素晴らしいと言うでしょう。まあネ、誰でも黄金が素晴らしいと言うでしょう。
だから、今、ヴァチカンのネ、聖殿を見ても、ミケランジェロとか、ラファエロとか、あるいは、ダヴィンチとか、そのような芸術作品を、みんな拝むのである。

 それは、キリストを拝むんじゃないのである。それは、黄金(を拝むこと)である。

 それで、みんな観光旅行してネ、そのように、ミケランジェロのピエタを見たとか、そのようなことをみんな話して、みんな絵はがきまで、みんな大事に買ってくるのである。
これは信仰ではないのである。それで、みんな偽善者にネ、ごまかされて、このように、地獄に入るものであるということを、イエズスさまは、それをネ、批判して教えたんでしょう。
それで「愚かで、物の見えない者たち」と書いてある。それは、本当の信仰のないもの、そして、偽りの人間的な信仰のあるものはネ、人間的に見てネ、見えておるけれども、神さまのは見えないものである。だから、教皇といっても、人間的に物を見てネ、そしてネ、信者たちを、羊たちを導くのであれば、これは、目の見えないネ、その案内人であるということを、イエズスさまは言っております。

「愚かで、物の見えない者たちよ」と書いてある。
「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」と書いてある。


 
 神殿というものは、神さまが住んでおるから尊いのであって、黄金そのものじゃないのである。そして、わたしたちは、ヴァチカンのネ、聖堂にネ、巡礼に行くのは、神さまをネ、尊んで、そして巡礼に行くけれども──。その(聖堂の)すぐれた芸術性を、みんなネ、名誉に思っておる──。これは、まあ、愚かものであるということになるんじゃないんですか。
また、(愚か者は)『祭壇にかけて誓えばだよ、その誓いは無効である』とも言っている。祭壇というものは、まあ、木で造ったり、石で造った祭壇でしょう。それで、無効である、と。(また)『その(祭壇)上の供え物にかけて誓えばネ、果たさなければならない』と。

 それは、供え物は、神さまに供える物であるから、尊いものであるから、と。祭壇は、まあ、外面的なものであるからということを言っておるのでしょう。それで、イエズスさまはネ、物の見えないファザイ人たちにネ、案内人たちに、「供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか」、と書いてある。それは、(供え物も)神さまに捧げる物であるから、祭壇も神さまのネ、供えられたネ、祭壇であるから、それはなんにも変わることがないのであります。それは、祭壇にかけて誓う者は、その上のすべてのものにかけて誓うのであるから、それで果たさなければならない、ということを言っているのであります。

 それで、わたしたちが、この誓いというものは、何であるかというと、神さまに対する約束であるでしょう。捧げであるでしょう。祈りであるでしょう。それで、わたしたちの約束というものはネ、証人がなければネ、証人にかけてわたしたちは、みんな誓って約束するでしょう。証人というものは、わたしたちの約束の保証であるのである。
それで、保証というものはネ、証人(教皇、司教、司祭たち)というものは、正しい判断をするものでなければ、証人(としての)の役に立たないものでしょう。
ただの約束事であれば、みんな証人はいらないものでしょう。
だから、今でも、わたしたちは、証人を立てて、借金をするでしょう。その人は借金を返すことができないとすれば、証人は支払わなければならないでしょう。ねぇー。

 それは、人間のネ、約束はネ、必ず果たさなければならないということであるでしょう。
 だから、わたしたちもネ、今はネ、
 祭壇にかけて誓うとか、
 神殿にかけて誓うとか、
 供え物にかけて誓うとか、は、それは、わたしたちの祈りでありまする。

 祈りというものは、神さまに願うものでしょう。約束でしょう。ごまかしてはならないのです。だから「天にまします」の祈り一つ唱えても、わたしたちは、神さまへの約束を果たさなければならないのである。「我らが人に許すごとく、我らの罪を許し給え」ということは、神さまに対しての約束であるのでしょう。願いでしょう。それでネ、だから、すべての祈り、というものは、正しく神さまの前に、(約束を)果たさなければならないものである。それで、今、「天使祝詞」を口語体文に変えてネ、人間の考えによって変えた祈りというものは、神さまの前には、約束ではないのである。

 これは、ちょっと考えると、神さまを侮辱するものでしょう。本当に、わたしたちは知らないで、神さまを侮辱しておるのであります。その悪い偽善者(たち)によってネ、それで神さまは、そのことをネ、わたしたちは、大目に見て、許して下さるんでしょうかネ。それで、わたしたちはよく考えて、心から神さまにお詫びして、祈らなければならないということをネ。罪の痛悔が必要である。

 今日の福音はネ、(このことを)わたしたちに教えてくださるのじゃないかと、わたしは思います。それでネ、イエズスさまは、「わたしは、良い牧者である」、と。そして、「わたしを通らなければ」、ネ、羊は命を得ることはできない、ということでしょう。だから、わたしたちは、本当にイエズスさまを愛して、そうして、毎日、毎日、イエズスさまの力を借りてネ、本当に、天のおん父に、おん父を礼拝して祈らなければならないのである。それで、わたしたちは、ごミサにあずかって、ご聖体を頂くならば、イエズスさまと一致して、天のおん父を礼拝する最上の祈りになるのであります。だから、ごミサと聖体拝領というものは、わたしたちにとって、霊魂を活かすものでありますから、これをおろそかに考えてはいけないと、まあ、思うのであります。

 今日の福音は、本当に、イエズスさまの厳しい言葉であると思います。
それを受け止めて、わたしたちはネ、信仰に励むことが必要であると思います。
イエズスさまは、昔のファリザイ派の人びとと、また律法学者の例を用いて、今日のわたしたちに警告して、あたえてくださったと思うしかありません。
 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。