
第壱弐回:武士道
新渡戸稲造という人物をご存知であろうか? まぁ大抵の人が知っているでしょう。五千円札に描かれている人物だからね。今から100年前に彼が欧米人達に向けて英語で書いた「武士道」。武士は何を学び、己をどう磨いたか、が書かれている。これを学ぶ事は現代人にとっても必要であろう。そしてそれを読んだ時には男であれば必ずや感銘を受ける事であろう。拙者もその一人。だから「サムライ」
<武士道とは何か>
武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。それは人の道を照らしつづける力と美を兼ね備えた生きた対象である。<武士道の源〜仏教と神道>
仏教が武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さなどをもたらした。ある一流の剣術の師匠(柳生宗矩)は、一人の弟子が自分の技の極意を習い覚えてしまったのを見るや「私の指南はこれまで。あとは禅の教えに譲らなければならぬ」といった。禅とは「沈思黙考により、言語表現の範囲をこえた思考の領域へ到達しようとする人間の探求心を意味する」その方法は黙想であり、そのめざすところは森羅万象の背後に横たわっている原理であり、でき得れば「絶対」そのものを悟り、そしてその「絶対」と己自身を調和させることである。神道によっては主君に対する忠誠、祖先への崇拝、孝心をうえつけられた。神道は人間の魂の生来の善性と神にも似た清浄性を信じ、魂を神の意思が宿る至聖のところとして崇拝する。神道の自然崇拝は国土というものを心からいとおしく思われるような存在にした。神道からは愛国心と忠誠心を提供された。
以下は武士道の基本原理「義・勇・仁・礼・誠」と「名誉」「忠義」について
<義>
「義」とは武士道の光り輝く最高の支柱でサムライの規範の中でもっとも厳しい教えである。サムライにとって裏取引や不正な行いほどいまわしいものはない。武士として人として守るべき正義であり「義」がなくては「武士道」は話にならず、サムライは「義」に生きてこそ、なのである。「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」
<勇>
「勇」とはすなわち「義をみてせざるは勇なきなり」と。正しいことをする勇気である。しかしあらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に臨むこと、とは多少異なる。死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とされた。「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を引退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」
また武士道の「勇」は平静さに裏打ちされた勇気でもある。勇気の精神的側面は落ち着きである。平静さとは、静止の状態における勇気である。果敢な行為が勇気の動的表現であることに対して、これはその静的表現である。まことに勇気のある人は、常に落ち着いていて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。サムライ達は戦場の昂揚の中でも冷静である。破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている。地震にもあわてることなく、嵐に立ち向かって笑う。危険や死を眼前にするとき、なお平静さを保つ。迫りくる危難を前にして詩歌を作ったり、死に直面して詩を吟ずる。それは人の大きさの証拠である。
<仁>
「仁」とは人の上に立つ条件である。封建制度の世の中では武士階級は他の階級の上にあった。だからこそ持っていなくてはならない愛・寛容・他者への同情・憐憫(あわれみ)の情である。「仁」はやさしく、母のような徳である。慈愛であり女性的な性質であるやさしさと諭す力を備えた徳である。か弱い者、劣った者、敗れた者への「仁」が所謂「武士の情け」である。サムライは苦しんでいる人、落胆している人の事をいつも心に留めている。「仁の不仁に勝つはなお水の火に勝つが如し、今の仁を為す者はなお一杯の水を持って一車薪の火を救うが如し」
武士が詩歌を詠む事が奨励されたのは、より優しい感情を表面に表し、その反対に内面にそれを蓄えるためのものであった。したがってサムライの詩歌には悲哀と優しさが底流に存在している。
<礼>
「礼」とは他人に対する思いやりを表現すること、物事の道理を当然の事として尊重することである。また優雅な作法は力を内に蓄えさせる。あらゆる礼法の目的は精神を陶冶することにある。心静かに座っているときは、凶悪な暴漢とても手出しをするのを控える、というが、そこまで心を練磨することである。正しい作法に基づいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が身体中にいきわたることである。また礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事をおこなうので、いつも優美な感受性として表れる。「礼」の必要条件とは、泣いてる人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである。このような教訓的必要条件はそれが日常生活の細々とした点に及ぶ時、人の注意をあまり引かない些細な行為の中に表れる。
<誠>
嘘をつくこと、あるいはごまかしは等しく臆病とみなされた。サムライは「誠」に敬意を払い、言葉に重みを持たせていた。だから「武士に二言はない」のである。約束はおおむね証文なしで決められ、かつ実行された。<名誉>
まさしく名の誉れである。そしてその高潔さに対するいかなる侵害も恥とされた。そして廉恥心という感性を大事にするのである。恥を知り、己の名誉を守るのである。「名誉」の繊細な掟が陥りがちな、病的な行きすぎは寛容と忍耐を説くことで相殺される。些細な挑発に「名誉」を汚されたと腹を立てることは短気として嘲笑される。「ならぬ堪忍、するが堪忍」である。「己を責めて人を責むるべからず」である。武士道がむやみに争わず、あえてあらがわない忍耐強さの極致に到達した所以である。「人は咎むとも咎めじ、人は怒るとも怒らじ、怒りと欲を棄ててこそ常に心は楽しめ」
「人の誣うるに逆らわず、己が信ならざるを思え」<忠義>
武士たるもの主君に対する「忠義」である、己の信じる者の為の「忠義」である。が、無節操なへつらいを持って主君の機嫌をとることでは決してない。そのような者は当然軽蔑に値する。主君と意見がわかれる時、家臣のとるべき忠節の道はあくまで主君の言うところが非であることを説くことである。そして、もしそのことが容れられない時は、自己の血を持って自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることである。〜サムライは感情を顔に出すべからず〜
武士道においては不平不満を並べたてない不屈の勇気を訓練することが行われていた。そして他方では、礼の教訓があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の愉快や平穏をかき乱すことのないように求めていた。サムライにとっては感情を顔に表すことは男らしくないと考えられた。立派な人物を評するとき「喜怒を色に現さず」という言葉がよく用いられた。父親はその威厳を犠牲にして、子を抱く事はできなかった。夫はその妻に口づけすることは人前では決してなしえなかった。沈着な振舞や心の安らかさは、どんな種類の情熱によってもかき乱されることがあってはならない。「汝の霊魂の土壌が微妙なる思想を持って動くを感ずるか。それは種子の芽生えるときならん。言葉を持ってこれを妨ぐるな。静かに、秘やかに、これをして独り働かしめよ」
多弁を弄して心の奥底の思想や感情を述べるという事は、その行為自体があまり深刻でもなく、また誠意に欠ける印であるとされる。また心を安らかに保つためにも寡黙がよしとされるのである。
〜生きる勇気と死ぬ勇気〜
武士道においては名誉と死は密接な関係があった。だからこそ名誉のために死ねるのであるし、切腹もサムライにだけ許された儀式典礼である。しかし、真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐことや死を恋焦がれることは卑怯と同義であった。「憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん」
あらゆる困難、逆境にも忍耐と高潔な心を持って生きて立ち向かう。これが武士道の教えである。
〜武士道が求めた女性の理想像〜
家庭的であれ、そして女傑でもあれ。武士道は自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、もっとも強く、かつ勇敢である男性にも決して負けない英雄的な武勇を示した女性を讃えた。したがって女性も感情を抑制し、神経を鍛え、武器(得に薙刀)をあやつり、不慮の争いに対して自己の身体を守れるように訓練された。そしてこの種の武芸習得の主な動機は個人のためでもあり、家のためでもあった。貞操はサムライの妻にとって、もっとも貴ばれた徳目であり、生命を賭しても守るべきものとされている。それと同時に家を守るのも女性の務めである。妻を意味する漢字である「婦」は箒(ほうき)を持っている女性を表している。娘としては父のために、妻としては夫のために、そして母としては息子のために仕え、家を守るのである。自分の存在が夫の助けとなるならば、妻は夫とともに舞台に立ち、夫の仕事の邪魔となるならば、幕の後ろに引き下がる。父や夫は出陣し、その留守を妻が守る。男女それぞれが、この世において、その果たすべき使命に対して従順であれ、ということである。ひとつ誤解のないように言っておくが武士道の教えとは決して女性を軽蔑しているわけではない。例えば「愚妻」などという言葉があり、サムライはその言葉を使っていたが、同時に「愚父」「愚兄」「拙者」などという言葉もごく普通に使われていた。サムライは自分の妻をほめることは自分の一部をほめることだと考える。自分自身の事を、聡明な私とか、私のすばらしい気質などと決して表現しないのと同じである。自我自讃はサムライにとって悪趣味以上のなにものでもないとされる。
と、まぁ かなり長くなったが「武士道」の中からそれなりに抜き出してみた。「勇」をもって「義」を尊び、「仁」を持って他人には情けをかけ、「礼」をもって人と接し、発言に「誠」を持たせ、「恥」を知り行動をすれば、もう世の中は天下泰平! そう思わない?「恥」を知っていれば、例えばマナーを守らない人はいなくなるだろうし、タバコのポイ捨てもなくなるだろう。「礼」や「仁」があればいじめや少年非行もなくなるだろう。そして「義」や「勇」や「誠」があれば犯罪はまずなくなる。武士道とは人の守るべき道なのである。そしてこのHPこそ「武士道」実践すべく存在するのである。「義」「勇」「仁」「礼」「誠」を掲げ「恥」を知らぬ者あれば、裁きを下すべく剣をとる。それが「必殺天誅剣」!! の、はずだったんだけどなぁ・・・
(99/11/23 Written by SAMURAI)