聖徳太子の兄弟・子供・孫の古典の記載状況表
                                                                 2003・5
 古典の名称 兄 弟 の 名 前 A            子 供 の 名 前 B    孫 の 名 前 C   備       考

 上宮記
 『国書逸文』より
不  明 母は菩支々彌女郎、舂米女王・己乃斯重王・
久波侈女王・波等利女王・三枝王・伊等斯古王・麻里古王・
馬屋女王。  ☆合七王也。
母は刀自古郎女、山尻王・財王・卑支王・片岡女王。
母はヰ那部橘王・白髪部王・手島女王。

             男八人・女六人
                                                                十四人      
父は尻大王、母は舂米女王、難波王・
麻里古王・弓削王・作々女王・加布加王・乎波利王

  男五人・女一人

          六人
B:波等利女王や白髪部王が入っている。卑は本来はにんべんがつく

☆実際は「合八王也。」
C:2のCと比較して三嶋女王が入っていない。

 上宮聖徳法王
   帝説
 『群書類従』より
母は穴穂部間人王、厩戸
豊聡耳聖徳法王・久米王
・殖栗王・茨田王。
母は伊志古那郎女、多米王。
母は伊比古郎女、乎麻呂古王
・須加底古女王。(此の王は、伊
勢神前に拝祭、三天皇に至るなり)
母は菩岐岐美郎女、舂米女子・長谷王・久波木女王・波止利女王
・三枝王・伊止志古王・麻呂(古)王・馬屋古女王巳上八人。
母は刀自古郎女、山代大兄王・財王・日置王・片岡女王。 巳上四人。
母は位奈部橘王、白髪部王・手島女王。
 ☆知恩院本:刀自は負が正しいか。フのルビあり。
                          
              男八人・女六人
                                                                十四人
父は山代大兄、母は舂米王、難波麻
呂古王・麻里古王・弓削王・佐々女王・
三嶋女王・甲可王・尾治王

   男五人・女二人

          七人
A:底のところは本来は氏の下にーを書く。
B:白髪部王と波止利女王が入っている。3のBと比較すると、
殖栗王・茨田王・卒末呂王・
菅手古王を兄弟姉妹と判断
したのではないか。

 上宮聖徳太子伝補欠記
 『群書類従』より
記載なし 山代大兄王。蘇。殖栗王。茨田王。卒末呂王・菅手古王
・舂米女王、。近代王・桑田女王・磯部女王・三枝末呂古王・財王・・日置王。蘇・片丘女王・蘇・白髪部王・橘・手嶋女王・橘・

                 男九人・女六人
                           十五人
孫、難波王・末呂女王・・弓削王
・佐保女王・佐々王・三嶋女王。甲可王
・尾張王・

   男五人・女三人

          八人
B:三枝末呂古王の名前の
長さに注意。白髪部王。
があるが、馬屋女王がない。
C:末呂女王・の「」の
意味が不明である。


 聖徳太子伝暦

  『続群書類従』より
記載なし 山背大兄王・乎末呂王・菅手王・女・殖栗王・舂米王・・近代女王・
桑田女王・磯部女王・茨田王・三枝王・三枝末呂古王馬屋女王・財王・
日置王・片岡女王・白髪部王・手嶋女王・

山背大兄王の母は蘇我馬子大臣の女
                 男九人・女八人
                                                                 十七人
孫、難破王・末呂女王・弓削王・佐保(伊イ)
女王・佐々王・三嶋女王。田(甲イ)可王・尾張王・


   男五人・女三人

         八人
B:母の名がない。茨田王は
第九位。
BC:二十五人の中九人が
女王とあるが、実際は
十一人である。
4−2
 聖徳太子伝暦
  『寛文本』より
母は穴穂部皇女、厩戸皇子・
来目皇子・
植栗皇子・茨田皇子。
母は蘇我大臣稲目宿禰が女、
石樹名、田目皇子。(豊浦皇子)。
母は葛城直磐村の女、広子、
麿子・酢香手姫皇女(注書き、書紀の転記か)
山背大兄王・殖栗王・茨田王・卒末呂王・菅手女王・舂米女王・近代王・
桑田女王・磯部女王・三枝王・三枝末呂古王馬屋女王・財王・日置王・
片岡女王・白髪部王・手嶋女王・

山背大兄王の母は蘇我馬子大臣の女
                 男十人・女七人
                                                                 十七人
孫、難波王・末呂女王・弓削王・佐保
女王・佐佐王・三嶋女王。甲可王・尾張王・


   男五人・女三人

         八人
A:植栗皇子とある。
B:茨田王は第三位、母の名
がない。白髪部王と佐保
女王は別名か。
BC:二十三人と書いてあ
るが、実際は二十五人である。

 延宝本旧事紀大成経 
  『武田本』より
母は穴穂部間人皇女、厩戸皇子・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・母は石寸名媛、田目皇子・母は広子姫命、真子皇子・酢香手姫皇女 母は兎道貝蛸皇女、殖栗王・卒丸王・菅手女王・ 舂米女王・御財王・日置王・手島女王の四男三女
母は膳大娘姫、山背大兄王・茨田王・近世王・桑田女王・磯部女王・三枝王・丸子王・馬屋女王・片岡女王の五男四女
                  男九人・女七人
                                                                 十六人
記載なし C:孫の記載がないところに注意。

 白河本旧事紀
   『旧事紀白河家三十巻』より
記載なし 母は兎道貝蛸皇女、殖栗王・卒丸王・菅手女王・ 舂米女王・御財王・日置王・手島女王の四男三女
母は膳大娘、山背大兄王・茨田王・近世王・桑田女王・磯部女王・三枝王・丸子王・馬屋女王・片岡女王の五男四女
                  男九人・女七人
                                                                 十六人
記載なし B:殖栗王、卒丸王、菅手女王、
茨田王は太子の兄弟か、それとも子供か。
これを解く鍵は法隆寺の聖霊院にある。
C:孫の記載がないところに注意。
注1…『伝暦』の舒明天皇元年の条に、「大兄王は是れ上宮聖徳の子、母は蘇我馬子の大臣の女」という記事がある。
注2…『永万本』には子供や孫の名は、皇極天皇二年の条に細書で記述されている。


 ☆ この表で見る限り、内容的に『上宮記・逸文』が最も当てにならない古典ではないかということであり、従来の坂本太郎や家永三郎説には問題があるとおもう。作成するまではわたしもある程度信頼する立場でスタートしたが失望した。

 各古典の資料的価値について、『日本史広辞典』(山川出版社)などに基づいて記載するとおおむねつぎのとおりである。

 1 『上宮記』…出典不明。鎌倉時代後期まで伝来したが現存していない。
 「聖徳太子平氏伝雑勘文」「釈日本紀」「天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文」などに逸文がある。用字法は藤原宮跡木簡より古く、系譜の記載様式も古い形式を採用しているといわれる。「聖徳太子平氏伝雑勘文」は、『伝暦』の最も古い注釈書。正和3年(1314)橘寺の僧、法空の撰述したものとする。
 「釈日本紀」は、正安3年(1301)ころ卜部兼方の撰とされる。
 『上宮記』は、形式的には古いかもしれないが、逸文を登載している文献が比較的新しく、内容的に波等利女王、三枝王などと仮名とおもわれるものとそのでないものとが混在しており、また三嶋女王の欠落など疑問がある。
 2 『上宮聖徳法王帝説』…出典不明。成立は平安中期といわれる。ただし、性質の異なる5つの部分からなり、個々に成立年次が異なるようである。ここでは、第一の部分は、聖徳太子を中心とした皇室系譜。この部分は大宝、慶雲以前とされる。
 3 『上宮聖徳太子伝補欠紀』…聖徳太子の伝記。平安時代初期に成立。出典は『日本書紀』『暦録』『四天王寺聖徳王伝』『行事奇異の状』『調使膳臣等二家記』などである。
 4 『聖徳太子伝暦』…聖徳太子の伝記。延喜17年(917)成立。出典は、『補欠記』に更に『太子の行事奇蹤の書』などを加えている。
 5 『延宝本旧事紀大成経』…出典不明。延宝年間に出版。
 6 『白河本旧事紀』…出典不明。享保19年(1734)『旧事紀訓解』の撰者三重貞亮没す。

 ☆ 1と2は、妃3人から14人の子供をあげているので同一系統の書物と認められる。通説では「『上宮記』は有名な古書であって、法王帝説より古い。古事記、日本書紀よりも古いといわれるものである」とされている。しかし、わたしにはそのように判断する根拠がない。2の「負古(フコノ)郎女」から判断すると、「負」が「刀自」に変化したのであり、その逆は可能性としてはきわめて薄いと考えられる。日置王が卑支王に変化することがあっても、卑支王が日置王に変化するのは難しい。したがって、『上宮記』のほうが『帝説』よりも新しいと考えられる。
 3と4は、文献的に同一系統と認められる。出典から3が先に作られた。
 なお、4のうち『続群書類従』所収の『永万本』と『寛文本』では子供の名前の記載順序から『寛文本』のほうがオリジナルに近いと判断した。
 5と6では、物部氏の系譜から検討すると、6のほうが人数も少なくその分古い。5は稿本が存在したと考えられ、たとえば隋の煬帝が国書をみて激怒するなど、相当に加工されていると認められる。
 文献的には出典が最もはっきりしている『補欠記』が最も信頼されなければならないが、問題は、殖栗王、茨田王、卒末呂王、菅手古女王などが太子の兄弟姉妹なのかそれとも子供かどうかである。
 ここで『補欠記』を見直すと、山代大兄王、財王、日置王、片丘女王の記載のつぎに細書で「蘇」が、また舂米女王、三枝末呂古王のつぎに細書で「膳」、さらに白髪部王、手嶋女王のつぎに「橘」が付されているが、この細書は『帝説』の妃と符合する。しかし、殖栗王、茨田王、卒末呂王、菅手古王、近代王、桑田女王、磯部女王には細書が付されていない。紛らわしい名前も存在するが、すべて太子の兄弟姉妹とはならないとおもう。当初は『補欠記』記載の者すべて太子の子供と考えられ、細書は後に挿入されたのではあるまいか。
 3の三枝末呂古王は長くて不自然である。分離すると16人になり、5と6に一致する。4の白髪部王に着目すると、馬屋女王の別名の公算が強い。1と2はともに馬屋女王、白髪部王が存在する。いずれにせよ『補欠記』を基本とする見直しが必要である。
 ところで、法隆寺の聖霊院に安置されている「聖徳太子及び侍者像」のうちの殖栗王と卒末呂王像は通説では太子の兄弟とみなされているが、この二つの像は山背王像より像高が低くかつあどけない表情を漂わせており、太子の兄弟とするには無理があるとおもう。
 なお、『日本書紀』の兎道貝蛸皇女関係の記述には不可解な表現があることに注意する必要がある。
 以上から2の負古(フコノ)郎女に注視すると1は2の後と考えざるを得ない。また、1と2から3、4、5、6を導くことは不可能と考えられる。すなわち『上宮記』や『上宮聖徳法王帝説』は偽作の疑いがあると考えられる。