水島大空襲

 

昭和20年6月22日、午前8時36分。グアム島からやってきた

米国第20航空軍の110機のB29の大編隊は約1時間

三菱重工業水島航空機製作所(現三菱自動車製作所)に

603トンの爆弾の雨を降らした。

この日は公休日だったので、2万人を超える作業員のうち

死者2人、負傷者3人にとどまったのは

幸いというべきか。

ともさんはこの日、出勤していた。

後は、ともさんに・・・。

 


当時、私は福田職業訓練所の指導員であり、見習い生の中田明(呼松)

千田剛一・亮二(広江)、武本(北畝)、白神(大高)ほか1名と,南畝出身の

指導員と私の計8人で,7時半ごろ現場に出張していた。

通勤の自転車を4・5機あった故障機の翼の下におき、その故障機の横で作業中であった。

滑走路には、零戦一機が発進した後、3,4機が待機していた。

1時間ほどしたころ、警戒警報が鳴り出した。

道具をしまうように指示してまもなく、空襲警報が発令された。

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防空壕を探すまもなく、東の空(呼松、広江)にB29の編隊が見えた。

一目散に近くにあった防空壕へ全員飛び込んだ。

息つくまもなく、天地を引き裂くようなものすごい炸裂音が全身を揺さぶった。

今日はただではすまない危機感におそわれた。

生死は運命の女神の掌中にゆだねられた。

王島山、中畝の高射砲が攻撃を始めた。

上空は炸裂した高射砲弾の煙で真っ黒である。

その黒煙のはるか上空をB29は3機5機7機と編隊を組んで

東から西南の空に向かって続き、爆撃を繰り返してくる。

防空壕の中の私たちは、目と耳を指で押さえ伏せているのだか゛、

爆弾が炸裂するたびに体が15センチもはねあげられて、腹が痛くてたまらない。

無意識のうちにひじとひざを立てて腹を守る。

目に光を感じた瞬間に、体が跳ね上げられているのだから、

事前に対応して腹を守ることは出来ない。

今か!今か!とヒヤヒヤしているだけである。

爆音が中断した。

防空壕より首を出して様子を見る。

東の空にB29の編隊が見えない。

工場を見ると黒煙がもうもうと立ち上がっている。

各所の防空壕から人が出てくる。

みんな北に向かって工場外に出ようと一目散に走る。

私も自転車を持って工場の正門に向かった。

中央の道は爆撃で大きな穴があいて通れない。

私は逃げるために正門に向かったのではない。

私には「水島三菱工場地帯防空出動」の重大な任務があった。

(福田村警防団第6部呼松部長として、倉敷警察署長より命令を受けていた。)

第6部の警防団員20人を指揮して

工場の消火に出動しなければならない任務があったのである。

その正門への道はどうにか通れば通れたかもしれないが、

その時、ふと、見習い生の安否が私の脳裏をかすめた。

私には、預かっている生徒を安全地帯に避難させなければならない責任がある。

急きょ引き返した道筋に、積みおかれた材木に1頭の馬がつながれていたが、

もう東の空にB29が見えている。

どうしてやることも出来ないまま防空壕を探した。

目についた防空壕に飛び込むと、7・8人の者が待避していた。

空襲はますます激しい。

でも様子を見なければ気が気でない。

やっと爆撃が途絶えたので、頭を出して周囲の様子を見ようとすると、

「頭を出すな!」と大声でどなられた。

防空壕より出て逃げ出すものが一人二人と多くなる。

私も防空壕から飛び出して生徒を探しに走った。

激しい空襲の合間に防空壕からから抜け出して姿を見せた生徒に

水島港にかかったトロッコの橋を渡って逃げるように指導した。

自転車を持って渡る生徒もいた。

私も最後に道具箱を積んだ自転車を押してトロッコの橋を渡った。

南畝の堤防に近づいた頃に、また東の空にB29が現れた。

「いそげ!」と声をかけて励ました。

早く板橋を渡って、低地に身を伏せなければならない。

一緒にトロッコの板橋を渡った10人くらいの者が、

田と田の間の小溝に飛び込んで伏せた。

 

高射砲は激しく撃ちまくる。

生徒の中田明君が私の後ろにいた。

対岸の工場で爆弾が炸裂する。

その波状爆撃の合間を見ては東へ東へと逃げ走るよりどうする術もない。

B29から身を隠す物陰になるものを無意識のうちに探している。

用水の東向こうに小麦をこいだわら山がある。

土ぐろも二つある。

急いで二つならんだ土ぐろの間に入ろうとすると、わら山の北側から、

「そこには子供がいる!そこには入るな!」

母親であろう、女の声で怒鳴りつけられた。

仕方なく南側のわら山にもぐりこみ、わら束を2束持って顔に当て、

わら束の間からB29の編隊を見上げると、

編隊の中、2機の翼の根元から黒煙が出たように見えた。

その瞬間、黒ごまのように見えたと思うまもなく、黒豆のようになり、

細長い棒状になり、頭を押さえつけるようなものすごい炸裂音が全身をつんざく。

まるで、大木を切り倒す音と同じである。

高射砲の破片がプップッと辺り一面に落ちてくる。

また、B29が投下した爆弾の頭部につけてあるプロペラが落ちてくる。

これは爆弾の着火栓である。

波状攻撃の合間合間に東へ東へと走り急ぐ。

早く王島山の航空隊へたどり着き、

さらに広江見通しへと出なければと気があせる。

1福小学校の通りの角で近所の婦人と出会い、

水を所望するとコップに水を入れて出してくれたのを

一呼吸で飲み干した。

あの水くらいおいしい水はなかった。

東に向けて帰るにつれて、農家の北側の窓が破れている。

なぜだろうと不思議に思えてならなかった。

北側になる産業道路を見ると黒土の山があちこちにある。

ここにも爆弾が落ちたのかとびっくりした。

 

呼松に帰ったが、家には帰らず、消防機庫に直行した。

警防団員が集合している。

出動準備を頼み、家に帰ると、娘と家内が無事を喜んでくれた。

警防団服に着替えて消防機庫に行くと、出動の準備は完了していた。

20人の団員をトラックに乗せ、ポンプとともに三菱の工場に向けて出動した。

出動の道筋はあらかじめ指示されており、

第一コースの新高橋の通りは爆撃で通れないので、

第二コースの松竹梅をまわり、途中本部に寄り、団長に出動を報告すると、

「これをかぶって行け。」

と鉄兜を頭にのせてくれた。

このときは身が引き締まる思いがした。

 

第6部警防団員を指揮して工場内の火災現場に向かう途中、

工事現場に行くと、何か得体の知れない変なものがある。

近寄ってみると、材木につながれていた馬の、

泥をかぶって横倒しになっている変わり果てた姿であった。

横腹にあながあき、腸がはみ出ており、

顔半分が吹き飛ばされてなかった。

今朝、元気な姿を見ているだけに、

材木につながれている綱を放してやれなかったことが、

不憫に思われ、可哀想にと胸をつまされたが、致し方なかった。

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爆弾の落ちた穴に水がたまっていたので、そこにポンプをおき消火活動を開始した。

まもなく大きな爆発音が工場内で起こった。

異常がなければと案じているところへ、渡辺慶太君と小島嘉一君が出てきた。

顔に黒いものが点々とついている。

つづいて大島勝巳君も同じような顔で出てきた。

事情を尋ねると、ベッチのドラム缶が爆発して飛び散ったと説明した。

早速に救護班に行って治療をするようにとすすめているところへ

顔が真っ黒になった警防団員が運び出されてきた。

重傷である。

団員に気をつけるよう注意を促す。

朝出勤していた工場現場付近を見ると、自転車や道具は跡形もない。

ハンドルは抜け、前輪も飛び散り、タイヤ・チューブもどこかに消えてない。

道具箱はふたを吹き飛ばされて土をかぶっている。

のこぎりには穴があき、かんなやのみは金の部分が抜けてなくなっている。

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この爆撃の後、グラマン機もやって来るようになる。

これは敵艦載機なので、B29のと違って低空で攻撃してくる。

敵の操縦する顔が見える。

反対に、こちらも高射砲で反撃が出来る。

 

私らは任務(警防団)上、常に上空を監視していなければならない立場にあった。

7月24日、7時10分、艦載機の空襲があった。

艦載機をめがけて王島山の高射機銃が、しのつく雨のように尾を引いて射撃する。

その弾丸の中を通って、敵の艦載機が機銃帰射をあびせて飛びぬける。

艦載機は東西に反転を繰り返して機銃帰射をしてくる。

身の危険を避けるために反対側に移動して状況を監視しなければならない。

東方から急降下をかけて機銃帰射をしてくる艦載機の一機が左右にゆれ、

水島栄町の上空付近から南に方向を変えて水平飛行になった。

警防団員の一人が、「命中した!」と叫ぶ。

見ると、翼の下から黒煙が出ている。

まもなく火を吹き出した。

一同は、「やった!」と歓声を上げた。

火は次第に大きくなり、南に向かって水平に飛んでいたが、

王島山中央上空で火だるまとなり、海上に出て、

突然下に向かってキリモミ状態で海に落ちた。

 


実は、この二つの出来事の間の6月29日には、岡山市が焼夷弾爆撃を受けている。

2万5000戸が焼失し、1725名の死者を出した。

水島以上に悲惨な状態だったらしい。

 

8月15日。

日本は、多大な犠牲を払って無条件降伏。

 

 

-----写真は「水島の戦災」倉敷市から------