参勤終わり 江戸城をぐるり見回り2007/2/23(金) 東京都千代田区

再訪
2017/9/28(木)〜29(金)皇居宮殿参観と横浜憧れの名門ホテル2日間

参勤交代制により、大名は江戸藩邸に妻子を置き、一年おきに江戸と国元を往復する二重生活を
強いられた。広島藩の江戸屋敷は、上屋敷が桜田(霞ヶ関)、中屋敷が桜田(霞ヶ関)と赤坂、
下屋敷が青山、蔵屋敷が築地に置かれていた。

篤姫
陸路で嘉永6(1853)8月21日に薩摩(鹿児島)を出発、10月23日に江戸に到着した

篤姫 江戸にむかう途中
嘉永6年(1853)9月29日 京都・伏見屋敷に入り
      10月6日 伏見をたちました


2017/2  松江歴史館 展示
『極秘諸国城図』に含まれる「江戸始図」が、徳川家康が築いた江戸城を描いた最古級の絵図であることが
判明しました。1607-1609年頃の江戸城とされ、謎に包まれた家康築城の江戸城中心部の城郭構造を細部
まで明快に描いており、全国的に見ても画期的な資料であることが分かりました。



江戸始図は城の輪郭が黒い線で明確に示され、石垣や堀、出入り口などの構造が描写されている。
本丸の内部は、大天守と複数の小天守を、石垣上に建てられた長屋「多聞櫓」でつなぎ、
四方を囲む厳重なつくり。本丸南側には、城壁を互い違いにする「連続外枡形」という複雑な形態
の出入り口を備えていたことが初めて判明した。

豊臣氏との決戦に備え、強力な「戦う城」だった

家康が築いた「慶長度天守
2代将軍秀忠が本丸を広げて現在の位置に移した「元和度天守
3代将軍家光が建て直した「寛永度天守」明暦の大火で焼失した。
再建は見送られ、先に造り直された天守台だけが今も残っている。

1615年大阪夏の陣で豊臣氏が滅びると、大きな戦いに備える必要はなくなった。

幕府の行政施設や将軍の私生活の場の大奥などを広げるために軍事施設は
取り壊され、江戸城は「戦う城」から「宮殿」に生まれ変わった。


「最強の城『江戸城』の秘密」


江戸城跡 





今昔マップ on the web

北の丸公園にある科学技術館でセミナー聞きました。

御茶ノ水のホテルで一泊、翌日 お城 時計回りで見聞しました。

日本橋の「道路元標」から2時間ほどでした。

竹橋 2月23日(金)

地下鉄「土橋」

竹橋

科学技術館でセミナー

御茶ノ水のホテル 泊る

2月24日(土)

暖冬の冬から

一転 江戸は
冬の季節風強い日でした。

幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、
重要な水路であった日本橋川と交差する点として
江戸経済の中心となっていました。
橋詰めは高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。

道の起点としての日本橋  日本の道100選
中央区日本橋1丁目〜港区新橋1丁目

日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も
交通の要衝として知られている。
慶長8年に日本橋が架設されて以来、
火災などによって改築すること19回を経て、

明治44年3月石橋の名橋として現在の橋に生まれ変わった。

また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は
近代的な街道で日本経済の中心地として今なを
活況を呈している。
日本国道路元標
石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。
橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、
青銅の照明灯装飾品の真鍮は東京市の繁栄を、
獅子は守護表しています。

橋の中央にある日本国道路元標は、
昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを
契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。
プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆
によるものです。
平成10年照明灯装飾品の修復が行われ、
同11年5月には国の重要文化財に指定されました。
装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、
大切に保管しています。
大手町から時計回りに歩きました

桔梗濠

二重橋
桜田門
桜田濠
桜田濠
桜田濠
歴史と文化の散歩道

千鳥ヶ淵公園

桜の古木 治療中。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑
靖国神社
千鳥ヶ淵

菜の花咲いていました

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