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出会いはドラマ 「自己改革」と「出会い」
(02年5月に作成し北野生涯教育振興会の懸賞論文として応募) 1.起:「自己」と「世界の諸相」 「出会い」は、後講釈は別にして、瞬間的であり非言語的だ。「出会い」を「出会い」と直感し、より多くの「出会い」をより深く味わうには、動機として「自己改革」への積極姿勢が確立され、方法として「世界の諸相」から刺激を受け入れること(出会い)に貪欲で柔軟な姿勢が必要だ。さて、昨今日本は、維新・戦後と続く近代3回目の大変革期にあって、経済的欧米キャッチアップ後のビジョンが定まらない。そして、年間自殺者3万人超(同時多発テロの犠牲者の10倍)等の事実が示すように、社会に当惑・不安という「ガス」が充満し、価値観が揺れる一方、変化を阻む力も増大している。この様な時こそ、一人ひとりが「自己の基本構造」を再確認し、「動機/自己改革」「方法/出会い」との関係を心のより深くに刻み直すべきである。これは、日本人が活力を取り戻し、日本が閉塞感から脱し再活性化されるためにも必要な作業だ。 2.承:「自己の基本構造」「自己改革」「出会い」 生まれようとして生まれる人間はいない。皆、気がつけば生きている。一方、動物の中で人間のみが自らがいつかは死ぬことを知っている。人生とは、自らがコントロールできないこの生と死の間に存在する「輪郭の曖昧なぼやけた時空」のことだ。この「足場」の無さ、突き詰めれば、人生の無意味さが、時に人間を悩ます。悩みの本質は、一般論として「人生って何だ?」「人間は何のために生きているのか?」という問いに対する明確な答えが存在しないことだ。万人に共通な人生の目的・使命や、正しい生き方等は存在しない。また、人間は明らかに「偶然の産物」であり、宇宙的視点で考えれば、本来その様な問い自体、的を射ていないことは自明だ。 そこで、人間は自己の外部や内部になんとか「足場」を作って自らを支えようとする。前者は「広義の宗教」的アプローチで、自己の外部に一種の絶対的なものを置き(実は自己の思考回路の一部であるが疑う余地がないとして「封印」し)、それを「足場」にする。既存宗教はもちろんのこと、ジンクス・占い・縁起等、理屈抜きに外部情報を信じることがすべてに優先するものは「広義の宗教」と定義できる。また、後者は内面的アプローチで、自己の内部に「自尊心」を築き、それを「足場」にする。そして、志を決め、「志の実行」(人生を積極的に切り開く生き様)で、生きている証・理由を得る。 「自尊心」の各種定義は次の通りである。「高い自尊心とは、人間が自己の境界を知り認めていくこと。自己が完全でもない万能でもないことを認め、自己から逃げないで、快い自己イメージを持ち、そのイメージにいとおしい感情を自己がもっていること。」「人生の無意味さに直面できる能力がない私達にとって自尊心、つまり、精神防御システムは、健康的に生活するために必要。」「自尊心を持つことは、相手を低く見下げることや見栄をはるという他人を意識しての態度とは違う。自分はやればできる/必ず成功することができる/なぜなら自分は幸せになる価値のある人間だから、という自己への信頼と、自信を持っていること。」等である。つまり、「自尊心」を持つとは、自己を大切にし、自己を好きになり、自己に自信を持つことである。また、「志の実行」は、次の様な言葉でも表現されてきた。「人生とは自己を見いだすことではなく、自己を造り出すことだ。」「私達とは、心構えであり、心構えとは、私達である。」「要は考え方である。決意である。」「人生のエネルギーはどれだけ目的意識を強化できるかにかかっている。」「人生は理解するものでなく、生きるものである。」 「偶然の産物」でありながら、肉体の上に、知情意を高度に発展させてきた人間の心は実に柔であり「広義の宗教」「自尊心」等何らかの「足場」(「ガード」「逃避」とも言える)を必要とする。一方、型から入り型を破る。一度作った「足場」は永遠のものと言うよりむしろ仮設であり、極論すれば日々更新(自己改革)するのがあるべき姿だ。ところが、だましだまし的な要素を持つ自己の内部を自己自身が凝視しても、更新(自己改革)のヒントは容易には得られない。結局は、人間は「世界の諸相」と丹念に「出会い」直して日々新たな発見を梃子に更新(自己改革)を目指すことになる。 3.転:「潜在意識」と「顕在意識」 目線を人間の内部から「世界の諸相」に転じる。人間は環境の動物と言われる。環境とは、時代環境、社会環境、文化環境、自然環境等様々なものを意味する。環境適応が至上命題の動物である人間は、無意識に環境(世界の諸相)と情報交換を繰り返している。つまり、多くの場合、「出会い」の素材は潜在意識の中にすでに蓄えられており、それに顕在意識が気づけば、それが「出会い」だ。具体例として、私の潜在意識の表層を顕在化してみる。 <文化> 日本の土地は肥えており生産性は高く、豊かな自然の恵みで古来比較的簡単に生活できた。時として自然が猛威を振るったが基本的には皆が共倒れにならない生産力があった。また、異民族の侵略も無きに等しく、争いが他民族に比べて相当程度少なかった。結果的に、日本人は、自己の存在や利益を生きるか死ぬかのぎりぎりの状況で考える機会が少なく、「和を以って尊し」、簡単に言えば、「まあまあ」と言いながら何千年も生きてきた。物事を突き詰めて考えるよりも、むしろ、四季の移り変わり等風流を感じ、また、精神的なレベルを向上させることにエネルギーを費やしてきた。つまり、「死と隣り合せの自己」や「攻撃性」が西洋人(やせた陸続きに多くの民族が狩猟を業として生活していた)の根であるなら、「余裕」およびそこから派生してくる「優しさ」が日本人の遺伝子に組み込まれた性格の核の部分である。これが、英米通算約10年間の生活で得た私の日本文化に対する洞察である。良し悪しは別にして、この様な文化特性は日本人一人ひとりに刷り込まれている。 <教育> 人間は、農業革命・産業革命・情報革命と経て、生産活動・筋肉労働・情報処理から相当程度解放され、加えて医療の進歩もあり、「輪郭の曖昧なぼやけた時空」つまり人生を持て余すようになってきた。特に、先進国に住む10億人にとって、生存のための基礎生活はほぼ実現されており、基礎生活以上のもの、つまり、贅沢な悩みであるが心の満足感等に意識が向いている。また、人間は子孫を残した後も長く生きる例外的な動物と言われる。逆に言うと、人間は教育期間の長い動物だ。生きるために自己完結的に常時必死になる必要があった時代は、大人は特段の意識をしなくても、子孫に迫力のある「背中」を見せることができ、ある意味で幸せだった。「話ばかりで、行動が伴わなければ、親は決して子供に対して教えることができない」(アモルド・グラソー)。現代の人間、特に高度な分業社会である先進国に住む人間は、贅沢な悩みを抱える一方で、工夫しながら迫力のある「背中」を子孫に見せる義務を負わされている。 <技術> 人間の進歩は技術と共にある。現在進行中のIT革命では、デジタル、つまり0と1を使った情報の加工・伝達が飛躍的に発展中であり、コミュニケーションの生産性が爆発的に向上し、人間が情報処理という作業から大幅に解放されつつある。具体的には、「知識力」「交流力」「効率力」を持つネットが出現した。検索エンジンを有効に使えばネット上の膨大な「知識」に接する事ができる。また、地縁・血縁・職縁という枠組みや時空を超えた他人との「交流」が可能になった。さらに、ネット自体が情報の連続処理を行う強大なプロセスマシーンとなり、社会の営みが「効率」化されようとしている。結果として、人間は情報に関する単純作業から相当程度開放され、生活のより多くの部分を創造的に、また、対人交流に使えるようになってきた。二つの棒が差さえあって立っている「人」という漢字が示すように、人間はひとりでは生きていけない。「自尊心」「志の実行」も、他人の認知を頻繁に必要とする場合が多い。ネット社会にあって、人間はその軸足を思い切って創造性に移し、ネットを通じて広い母集団の中から共感を持つ人を見つけ、相互扶助・相互刺激の中で人生を展開することがより容易になる。IT革命が社会の枠組みを一変させようとしている。 4.結:「自己改革」と「出会い」 「我々は一定の観念を通して外界の風景を観察する」(ウォルター・リップマン)。つまり、世界は自己の鏡であり、自己が変れば世界が違って見える。人は、特段意識していないが「広義の宗教」「自尊心」「環境(世界の諸相)認識」等をオリジナルブレンドした「色眼鏡・観念・内的枠組み」を通して世界を見ている。私にとっての「広義の宗教」は、幼少で他界した兄が私を常々見守ってくれているという確信であり(母の口癖だった)、「自尊心」は、物事の本質を読む力・直感・感受性が相対的に高いと信じていることだろうか。「出会い」の本質的意味は、結局のところ、この自らの「色眼鏡・観念・内的枠組み」に気づくこと(自己との「出会い」)であり、また、それを更新(自己改革)する契機になることだ。潜在意識に「稲妻」が走った時、瞬間的・非言語的に「出会い」が得られる。そして、言語でそれを「自己改革」に結び付け、他人ともコミュニケートしていくことになる。また、「自己改革」を繰り返し、人生の高みを極めた人間、つまり、「足場」(ガード・逃避)が不必要で、「世界の諸相」に対する深い洞察を得た人間の「色眼鏡」は透明だと直感する。人生は、その様なゴールをイメージした片道切符の旅であり、そこでは「出会い」と「自己改革」が繰り返される。 |
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市場化時代のセーフティネットとは 「発想転換による社会の再生」−陸地生活から海洋生活へ (00年9月に作成し東洋経済新報社に「高橋亀吉記念賞」懸賞論文として応募) 1章 はじめに: 「セーフティネット」という言葉を考える まずは、「セーフティネット」という言葉の周りを「散策」してみる。 1)数年前に「グローバルスタンダード」という言葉が盛んに使われた。しかし、今はあまり使われなくなった。もともと定義が広くて曖昧だった。また、その言葉を使って皆が言わんとしたことのひとつである「世界的視野の必要性」を意味する「グローバリゼーション」という言葉の方がよく使われるようになった。「セーフティネット」という言葉も、数年後には同じような運命をたどるだろう。社会の変革期には「ビッグワード」として、アドバルーン的に曖昧さを含みながらも好んで使われるが、安定期になると、あえて大きな声で「セーフティネット」と言う人は少なくなる。「セーフティネット」が意味していることを語るにしても、より意味が限定された言葉がその時々の文意の中で使われることになるだろう。逆にいうと、「セーフティネット」や「グローバルスタンダード」という言葉から、現在が時代の大きな節目であることが読みとれる。 2)「セーフティネット」という言葉は、直接的には「守り」に傾いた響きを持つものの、その目的・対象・手法・程度を考案するということは、突き詰めて考えると、「どんな社会をつくるか」ということと同義だ。共産主義は、結局は失敗に終わったが、完全な「セーフティネット」を目指したものとも言える。政府は、最新の経済白書の中で、最近の動向を、「蒸気機関、電力、自動車に匹敵する大きな技術革新の波である可能性が高くなってきた。」と認めている。人間の生活は、結局はその時々に入手可能な技術・道具に大きく規定される。産業革命ほどのレベルではないにしても、現在進行中のIT革命・ネットワーク革命と言われる技術革新を背景とする、社会の大きな地殻変動のもとでは、根本的な発想の転換による社会の再生(すなわち「セーフティネット」の再生とも言える)の必要性がある。 3)「セーフティネット」という言葉が頻繁に使われるようになった背景のひとつは、時代の大変革の匂いを嗅ぎ取った上で、かつ、適切なビジョンがリーダーから提示されず「視界」不良・閉塞感の中での人々の「不安」だ。そういう意味で、今日の問題は、経済的・金銭的なものに加えて、意識的・精神的な要素も大きい。不況とは言え経済的には深刻には困らない日本の現状を考えれば(海外からはそのように見える)、この様なソフト的な要素の方がむしろ重要とも言える。逆に、「視界」がひらけて、さらに、意識的・精神的なものがしっかりしてくれば、やや極論だが「ボロは着てても心は錦」ともなりうる。高度成長という成功体験や、それに端を発した「慣性」の法則からいまだに抜けきれず、大きな環境変化の中で、軸足・よりどころ・目標・自信を喪失し、不安感に襲われている日本の姿がそこにある。「私はだれなの。どこから来てどこに行くの。」と自問している姿が、今の日本にはぴったりの描写だ。 この論文では、この3つの「散策」結果を意識しながら、1)時代認識としてネットワーク市場化時代の意味を考察し、2)求められる個人の意識(ソフト)、および、3)あるべき社会システム(ハード)を論じ、4)現状からの「移行作戦」を提案する。 2章 ネットワーク市場化時代の意味: 陸地生活から海洋生活へ 例え話で言えば、ネットワーク技術が、地球規模で海水面の大幅な上昇を引きおこしている。結果として、多くの「陸地」(「権力・統制」の世界)が水没するとともに、池・湖・内海等(ローカルマーケット)も消滅し、世界がいわばひとつの海(単一マーケット)のようになろうとしている。かつての山(国家を代表とするピラミッド型大組織)の頂きが、島として海水面上に顔をだしているイメージだ。小さな組織は合併等によって規模を大きくしてかろうじて水面上に顔をだそうとしている。これが、現在進行中の技術革新を背景とした「ネットワーク市場化時代」のイメージだ。結果的に、社会の構成要素として、「権力・統制」の世界の存在感が大幅に低下し、グローバルな「マーケットメカニズム」のプレゼンスが大幅に向上した。 存在感を増した大きな「海洋」は、中途半端な規模の組織を「水没」させ、大組織に対しても容赦無く「大波」をぶつけている。そして、その中に閉じ込められていた個人を、「厳しさ」と「優しさ」の二面性を併せ持つ「海洋」に放とうとしている。「海洋」は、確かに、個人にも「マーケットメカニズム」の貫徹を容赦無く要求する「厳しさ」を持っている。しかし、一方で、ネットワークは個人にパワーアップの源泉(「優しさ」)を与える可能性があることにも同時に気が付く必要がある。逆にいうと、「陸地」では、「マーケットメカニズム」の「厳しさ」は制限されたが、個人として失うものも多く、「優しさ」が限定的でもあった。目の位置を動かして、物事を従来の「陸地」からではなく「海洋」から見れば、きっと違った視界が広がるはずだ。 ネットワーク社会、つまり、双方向のグローバルな情報伝達網をもつ社会、にあっては、個人が、グローバルな情報空間の中で、双方向のコミュニケーションを形成することが容易だ。従来(権力・マスコミ・組織サイドからの一方的な情報発信中心)の感覚からすると、時間的・空間的・経済的な制約条件が消滅したような、個人にとって真に偉大なコミュニケーション手段と言える。「優しさ」の源泉は次の通りである。結果的に、これらの要因がからみ合い、社会の構成要素として個人のプレゼンスは相対的に向上するはずだ。まさに個人主役時代が到来しているのだ。 A)現在の高度な分業社会の中で、個人はその能力・興味をもとに、ベストなポジションを見つけやすくなり、より満足・充実を得る。 B)個人は、従来より中身の濃いコミュニティーを時空を超えて多数形成することが可能になり、より多くの人とのつながりの中で、「自己」・「人間」・「時代」・「歴史」等について、より認識・哲学を深める。 C)ネットワークはその世論形成力で、「権力・統制」の世界により高いレベルの透明度・アカウンタビリティーを求めるなどして牽制する。 D)「人間にとって経済的生活・経済的価値がすべてではない」ことを多くのコミュニティーで確認することによって、「マーケットメカニズム」を牽制する。つまり、ネットワークが、経済的価値以外の価値を共有する「場」となり、経済的利益最大化という「マーケットメカニズム」の「常識」が通用しない世界(貨幣価値以外で情報を伝達・判断する世界)を拡大する。 実は、私は、現在ニューヨークにいながら、「バーチャル書斎」と題したホームページ(月間のアクセス700件程度)を持ち、メールマガジン2本(コラムと日記風エッセー)を週4回配信し(購読者合計1700人超)、また、メーリングリスト(メンバー50人超)を運営している。ネットワークを駆使して、小規模ながらコミュニティーを、限定的な(1日1時間ぐらいの)労力で運営している。これは単なる一例であるが、「海洋」は、確かに、個人に、グローバルなベースでの多くの「つながり」(コニュニティー形成)の機会を提供している。NPO(非営利組織)の活躍や地域通貨の創生なども良い例である。ひと昔前、国家(「権力・統制」の世界)と市場(「マーケットメカニズム」の世界)の関係がよく議論されたが、今はそれに加えて、社会の「第3の極」として、この様な「つながり」の世界が勃興してきた。この「つながり」の世界は、国家や市場に比べて、力強さに欠ける面もあるが、逆にそのしなやかさを武器に、前述のように国家や市場への一定の牽制力(「優しさ」の源泉C・D)も得て、社会の「第3の極」としての地位を固めていくと考える。 この様な状態を、俯瞰図的に見れば、現在、「陸地」時代が終わり、「海洋」時代を迎えて、新しい環境の中で、「権力・統制」・「マーケットメカニズム」・「つながり」の3者間のパワーバランスの構築が模索されているように見える。さらに、違う切り口で言えば、この3者の代表選手である「国家」・「企業」・「個人」が、この大きな環境変化の中でせめぎあい、それぞれが今後どうあるべきかが根本的に問われているとも言える。具体的には、国家が「最低限の介入」、企業が「極大化すべき利益」、個人が「社会生活のための対価」の再定義が求められている。 3章 求められる個人の意識(ソフト) 個人は、まず、その基本的生活の場が「陸地」から「海洋」へ変わったことを認識し、今までとは、全く違う意識・行動が求められていることに気が付かなければならない。これからの時代、求められるのは、広い海(社会)を切れよく、かつ、優雅に動く船(個人)だ。ただし、巨艦主義の時代ではない。個人がネットワークを武器に大きな組織を作らなくても戦える時代だ。組織的行動をとることがあっても、基本は小船を一時的に束ねたようなフラットなイメージだ。今一度、新しい技術をベースとするまったく新しい環境の下で、「組織の定義」・「組織を作る意義」が問われている。日本は、少なくとも戦後、組織(特にピラミッド型の階層的・閉鎖的組織)を中心に考えてきたこともあり、個人・社会という枠組み・座標軸は苦手だ。どうしても組織ありきで発想(そこで思考が停止)する傾向があり、根本的な意識改革が求められる。リーダーも、残念ながら、ある一定の範囲や枠組みの中での優秀さをベースにした人が多い。今後は、発想の基点を、社会等の大枠を意識した上での、個人にしなければならない。昨今の日本の動きは、そのよう(個人中心化傾向)に見えるかもしれないが、社会等の大枠との架け橋が欠落していることに留意が必要だ。 「場と共創」(清水博ほか著・NTT出版)に、東京ディズニーランドのパレード観覧用場所取りのためのビニールシート敷きについて、面白い記述がある。「本来、公共の場所を一時的にしろ占有してしまうのは公私混同であり、その公の場所を使おうとする他者の権利を侵害したことになる。したがって、確立した自我があることを前提にして、公共の秩序を守ろうとしている諸国では、このビニールシート群が出現することはない。」私は、世界の全てのディズニーランド(ロス・オーランド・パリ・東京)に行ったことがある。全てに同じ様なパレードはあるが、確かにビニールシートは東京だけの現象だ。著者の言っていることを裏返すと「日本人は、自我が未確立で、公共の秩序を守ろうとする倫理観が低い。」ということになる。新しい時代に適応していくにあたって、日本人の根本的な問題のひとつがここに明確に示されている。つまり、「個人」と「社会」の2点について、根本的な意識改革を行う必要がある。 日本人にとって、所属する組織(ビニールシートの中に入る人)が「実線」(強く意識する)で個人も社会も「点線」(認識が低い)ということだ。確かに、日本の社会では,組織(「ムラ」)内で,閉鎖的で馴れ合い的な意識や,ルール無視の温情主義がまかり通ることがしばしばある(組織の「たこつぼ」化)。最近発覚した、雪印乳業や三菱自動車の事件でも、この点が見え隠れする。逆に、欧米では、個人と社会が「実線」で所属する組織などは「点線」となる。西洋では、キリスト教の「唯一神」というコンセプトを使って個人と社会を結び付け、この点をしっかりと固めてきた。最近はやや緩んできたと言われるものの、まだまだ潜在意識の中には深く刻み込まれている。私は、日本人にキリスト教徒になれと言うつもりはまったくないし、もともと文化のコピーは不可能に近い作業だと認識している。さらに言うと、欧米的なものすべてが正しいとはとても思わない。したがって、あくまでも日本文化の根幹を押えた上で、組織という枠組みを「点線」化し、個人・社会という枠組みの両方を「実線」化する必要がある。これが「海洋」時代を生き抜くために必要な基本スタンス・意識だ。 4章 あるべき社会システム(ハード) 今までの「陸地」生活では、企業には終身雇用慣行という「塀A」があり、選挙区には公共事業という「塀B」が築かれ、この「塀」の中では雇用・所得が保証された穏やかな環境が作られてきた。戦後のキャッチアップ経済の中では、これらがうまくからまり、結果として、経済大国日本が出来上がった。また、教育が「塀A」を乗り越えるための「はしご」、政治が「壁B」を乗り越えるための「はしご」として認知されてきた。しかし、一時栄華を誇った戦後の日本のシステムも、キャッチアップ過程終了・冷戦構造終結・バブル崩壊ときたところに、ついにIT革命・ネットワーク革命により「水没」(機能不全)状態となった。社会は常に各種要素の微妙なバランスの上に成立しているものだ。今後は、個人と社会が際立つ比較的シンプルな構造を持つ「海洋」時代を前提とした新しい社会システムが必要だ。「海洋」時代には、多くの選択肢がある中で、個人はいっそうの自主判断・自己責任が求められる一方で、結果としてより多くの自由を獲得する。この様な認識をベースに、教育制度・労働市場・中央政治・地方自治等の社会システムを改革する必要がある。 1)教育制度 前述の通り、教育は従来、終身雇用慣行をもつ企業への「はしご」の役割を担ってきた。これらは、いわば工場の長い「ベルトコンベアー」を想像させるシステムだ。一時的な競争の結果が長期間有効な閉鎖的な仕組みであり、途中に選択肢はあっても大変限られた幅の中でのことであった。競争そのものではなく、その硬直性が問題だったと言える。さらに言えば、「ベルトコンベアー」の上では、「本質的な問題・悩み」に立ち止まり哲学をするなどの機会が得難く、思想・思考が浅い人間を大量生産し、全体の底上げには成功したが、次世代のリーダーの育成には失敗した。「海洋」時代の教育の核となるコンセプトは「自走力」だ。個人それぞれが、社会という枠組みを意識して、その中でそれぞれにとってのベストな教育・仕事・生活・人生等を自分で考え、人生の様々なステージにおいて、主体的意思決定として選べるような「寄り道の許容」をも加味した教育システムが必要だ。簡単に表現すれば、いつでもどこでも学びたい時に学べて、かつ、やり直しが可能なシステムであり、厳しく表現すれば、選択の自由・結果責任があるシステムだ。 2)労働市場 社会全体として人材の適材適所を実現し、また、個人の高い行動の自由度をベースにした「海洋」時代の企業組織を作るために、特に下記の3点に改革を実行する必要がある。 A)退職金・年金システム: 一部に変革の動きがあるものの、まだ多くの会社では、一定年齢以下で退職すると、退職金・年金に関するデメリットが大きい。今後は、転職が不利にならない様な退職金・年金システムが求められる。さらには、起業家を育てる優遇税制等を設けて、脱サラリーマン的な職業・ライフスタイルを選びやすくすることも必要だ。 B)責任と権限: 閉鎖的な日本型の組織(「ムラ」)内では,各仕事の責任・権限が曖昧で、多くのポジションが、「箱」というより「アメーバー」の様なイメージになる傾向があり、属人的な要素を含みやすい。今後は、もっと切り分け可能な仕事の定義が求められる。 C)既得権の清算: 社内価値と市場価値に乖離があり、前者の方が高い場合には転職は進まない。既得権の一部を現金清算するなどの工夫が求められる。 3)中央政治 自民党の政治は利益誘導型政治だと言われる。自民党の力の源泉は、今でも1票の格差を2倍以上つけて地方に政治力を傾斜配分していることにある。そして、例えば、ウルグアイラウンド対策費6兆円や各種公共事業に代表される、利益誘導・既得権擁護をして見返りに地方から票と資金を得ている。結果として、地方の経済力も底上げされて、全国どこに行っても同じ様な「金太郎アメ」的な国土が出来上がった。国土を作る過程においては、確かにこの様な方法も選択肢のひとつだ。ただ、そろそろ限界で、この様な政策が、色々な意味で機能不全になっていることは多くの人の共通認識だ。前述の様に、「海洋」時代にあっては、国家のプレゼンスは低下し、求められているのは「最低限の介入」であり、政治のエネルギーを公共事業の配分ではなく、多元化・多様化時代での社会という大枠の維持・管理に使う必要がある。この様な基本認識のもと、喫緊の課題は、財政・税制・産業政策・社会保障・知的財産権・年金等についてビジョンを国民に示しリーダーシップを発揮することだ。状況対応型の政策では変革の時代は乗り切れない。また、政治が未来への構想力を欠けば、「誘惑」の多いネットワーク社会の中で、国民のアイデンティティーが揺らぐ。 4)地方自治 欧米の地方はそれぞれがユニークさをもっていることが多いが、日本の地方は、伝統文化を除けば、東京のミニチュア的で、正直なところ面白さにかけることが多い。資金が国の紐付き・指導付きで供給されることの裏返しの結果だ。今後地方は多様性を育む器のひとつとしてもっと活用されるべきだ。総じて、日本人の画一的で多様性を許容せず排除する姿勢は現実にはまだまだ強いが、それは「海洋」時代には不適合だ。人々の目に付きやすい地方自治の分野で多様性が積極的に表現されれば、個人の意識も相当程度改善されるはずだ。そのためには、現在国税になっているものを一部地方税化するなどして、地方は自主財源を拡充し、地方が主体的な意思決定でそのユニークネスを確立すべきだ。 5章 移行作戦: 社会(セーフティネット)再生論 ある社会から別の社会へ移行する(具体的には明治・戦後の続く近代第3の成功を収める)ために、意識改革(3章記載)、社会システム改革(4章記載)を実行することは容易なことではない。積み上げられてきた「常識」・既得権と激しく戦わなければならない。明治や戦後の時は、日本は外圧を感じ「有事」と認識して得た危機感をバネに、国家の明確な将来像を全体で共有して、「常識」・既得権と対抗する力を引き出した。したがって、現在も同様、いかに危機感・ビジョンを共有するかがキーだ。これこそ、今日政治に期待される最大のポイントだ。そして、企業・個人も含めて、前述の「海洋」時代に象徴される新時代の本質を深く理解し、かつ、「一様性から多様性」「集中から分散」「中央から地方」「物質から精神」「線形系から複雑系」「閉鎖形から開放系」等の時代の流れを念頭に置き、思い切った発想転換をして、かつ行動することが求められる。その上で、政治は、ある程度の短期的な混乱は承知の上で、4章記載のことに加えて、「1票の格差1政策(政治への参加意識の大幅向上)」「市内通話料金無料政策(ネットワーク利用の大幅向上・デジタルディバイド対策)」「教育費バウチャー制(教育の選択幅・質の大幅向上)」等のショック療法的な大胆な政策も実施して、社会をダイナミックにかき混ぜてみることだ。日本は、技術・資本・平均的な知的レベルの高さなどIT革命・ネットワーク革命成功のための条件には恵まれている。ややナショナリズム的だがあえて言うと、私は「最終的に日本が負けるはずがない」と確信している。勇気を持って、思い切った改革を実施すべきだ。 陸地生活の一般論として、「マーケットメカニズムは社会の活性化のためには避けられないし、一方で、マーケットメカニズムが強まれば強まるほど、所得格差・雇用の不安定化等に対応するセーフティネットを整備する必要がある。」と言われる。これに対する私の回答は、海洋生活では、1)社会を開放的にして、多くの選択肢・多様性を準備し、個人が選択の自由と結果責任を持ち、2)社会の中で経済的価値観とそれ以外の価値観のバランスがはかられ、3)経済的・精神的に助けを必要とする人を相当程度限定的にするというものだ。どんな人をどこまで助けるかという問いに対する明確な答えは難しい。しかし、海洋時代にあっても政治家は、少なくとも富の分散には十分に神経を使う必要がある。現在のアメリカのように、人口の1%が全体の40%の富を保有するのも、現在の日本のように、結果の平等を実践しすぎるのも、両方ともやや行き過ぎだ。最後に、改革成功後の社会をイメージしておきたい。競争という「活力軸」、共生という「安定軸」、そして、「厳しさ」と「優しさ」の二面性を併せ持つネットワーク等の「技術軸」がうまくからみ合い、個人が、この座標軸の中で、自主的な意思決定をして、自分の生き方を追求・変更し、自分をめぐるいろいろな事象を体系的に理解する機会を得て思索を深め、また、人間の根源的な孤独感を和らげる様な仕組みが備わるなど、「セーフティネット」をこの3つの座標軸の中に相当程度内蔵した、活力および深みのある社会だ。 |
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「ネットワーク時代の日本経済」
(99年9月に作成し東洋経済新報社に「高橋亀吉記念賞」懸賞論文として応募) 1.はじめに 今は時代の変わり目である。 私自身、この変化の度合いが、農業革命や工業革命と肩を並べるほどの情報革命と言い切れるものなのかどうか100%の確信はまだない。 しかし、時代が相当大きな波をかぶっていることにまったくの異論はない。 このような時は、自らの思考力を総動員して、キーとなることについて徹底的に考え貫き、その本質を自分の言葉で語れるぐらいにならないと時代を見失う。 私はこれまで37年間の人生のうち7年間をイギリスで過ごし今もロンドンにいる。 この間に養った、日本在住を続けていては得られなかったであろう世界観・歴史観・日本観・人生観等も取り入れて、本稿ではネットワーク時代の本質に迫り、その影響や乗り切り方を考えてみた。 また、海外在住であるため、日本の文献入手に限界があること、そして何よりも、ネットワークの実力、すなわち、個人に対するスピード感のある創造性刺激を、実証するために、本稿を書くにあたっては、 もっぱらいろいろなホームページを読むことによって、自らの発想の芽に光を当てた。 なお、私が何かを感じたホームページについては、末尾の参考ホームページにそのアドレスとタイトルを記した。 2. ネットワーク社会の本質と人類史上の意義 1) 万能のコミュニケーションメディア 「求めなさい。 そうすれば与えられます。 捜しなさい。 そうすれば見つかります。 たたきなさい。 そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」 これは聖書のマタイの福音書7章にある記述である。 これほど、ネットワーク社会(情報通信技術の飛躍的な発展によって可能になった双方向のグローバルな情報伝達網をもつ社会)の特徴を的確に表現した言葉は他にない。 ネットワーク社会にあっては、人がその気になれば、地球規模の情報空間の中で、瞬時にそして安価に情報にアクセスし、双方向のコミュニケーションを形成することが可能となった。 また、より積極的に、個人が出版社やテレビ局等のメディア同様に情報を発信して世界に打って出ることも容易だ。 従来の感覚からすると、時間的・空間的・経済的な制約条件が消滅したような、まさに「神様」のようなコミュニケーションメディアの登場である。 2)「厳しさ」と「優しさ」 その影響は、単に情報の伝達が便利になるとか、選択の幅が広がるということで簡単に片づけるレベルをはるかに超越しており、次の通り最終的には社会全般に深く及ぶ。 (1)情報伝達が情報処理とシステム的に結びつき人間活動の生産性が高まる。 産業界ではサービスセクターにこの傾向が特に強まる。 (2)従来の発想からは想像を絶する選択の幅の提示を通して、経済のダイナミズムが増大し、また、個人の生活が格段に創造的になる可能性が高まる。 (3)個人が共感を得る相手を容易に見つけコミュニケーションできるようになり、また、知識や知恵の共有度・複合度が高まり、人生の充実度が向上する。 (4)人々の意識・行動様式・価値観等社会システム全体にその影響が広がる。 特に(2)ついて補足説明する。 広い選択の幅により、マクロ的には経済学のいう完全市場に近い状態が作り出され、経済効率が高まり社会全体が豊かになる。 ただし、その裏返しとして、ミクロ的には競争が激烈になる。 また、勝者になっても油断して安住してしまえば新興勢力に瞬く間に駆逐される。 一方、時空を超えるコミュニケーションメディアは、個人に多くの職業選択肢を与える。 そして、人そのものが経営資源の一部として、好きで得意な分野に吸い寄せられるように、大規模に流通するようになる。 つまり、個人が天職や生きがいを見つけられる可能性が高まり、より多くの人が、プロの野球選手がよく言っているように、「自分の好きなことでお金をもらえるのだからこれ以上幸せなことはない。」と言えるようになる。 自分の仕事の性格が自分にぴったり適合している時にこそ人は至福を感じる。 個人主義・自己責任原則・市場原理・競争原理をベースにする資本主義の総仕上げとしての「厳しさ」、および、個人がその心の満足を得る可能性が高まるという「優しさ」、この二面性こそが、ネットワーク社会が人類に突きつけるものの本質である。 また、この「厳しさ」と「優しさ」のバランスを社会の中で如何に保つかがネットワーク社会での人類の課題である。 資本主義の論理をネットワークを梃子にさらに徹底的に推し進めれば、副作用として勝者と敗者の格差をさらに広げ、一握りの勝者と多くの敗者をつくり、「優しさ」は吹き飛ばされてしまう。「優しさ」は工夫しなければ得られない。 3)国家の衰退と個人の勃興 昨今、東西冷戦の終結等により、大きな流れとして、世界は民主化と市場の統合へと向かい、政治・経済・文化等、いろいろな分野において、ボーダレス化(国境・民族・業種・組織・性別・年齢等の線引きが消えてしまう現象)が進行している。 このような世界的なボーダレストレンドと情報通信技術革新(結果としてネットワーク社会の成立)の方向が合致し大きな流れができ、人々の意識の中に、個人と世界という線引きしか残らないような社会(まさに「地球村」や「宇宙船地球号」と言われるもの)が急速に出現しつつある。 人類はこれまである程度の同質性を前提に相互依存関係を形づくり、また、その相互依存の「輪」を少しずつ大きくしてきた。 そして、ついにネットワーク技術で世界というボーダーに達し、「天下統一」がなった。 つい最近までは国境が実質的には一番大きな「輪」であった。 近未来には世界が一番大きな「輪」であり、世界の中に国という従来の都道府県のような存在がある状態になる。 例えば、消費税は将来的には、「世界政府」が集めて、各国に「国家交付金」として配分することになるかもしれない。 今後は、脚光を浴びる関係が、国家間の戦争を含む外交から(今までは良きにつけ悪しきにつけ国境にエネルギーが蓄積されてきた)、個人と個人の関係へとなる。 言い換えれば、個人自らが主役になり、国家という枠組みや制約さえも簡単に超えながら、世界という舞台で、主体的・創造的・直接的に多様な出会いを持ち、多層な社会の中で幅広く活動し、相互依存関係を築くことが可能な社会、それがネットワーク社会である。 これからは、個人が主役である。 3.アングロサクソン文化と日本文化 過去数世紀の間、アングロサクソンに代表される西洋文明が世界をリードしてきた。一方、日本は過去1世紀の間に、キャッチアップに専念して、どうにかその目標を達した。 「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」(孫子)である。 この章では、アングロサクソン文化について、そして日本文化について改めて掘り下げてみたい。 実は、先月家族と共に一時帰国をして、2年半ぶりに日本の土を踏んだ。 ある日、関西の私鉄に乗った時に、表示してあった「ゆずりあってお座り下さい」という言葉がなぜか強く心に引っ掛かった。 その時はなぜ引っ掛かるのかわからなかったが、この言葉を核に久しぶりの日本で数日間思考をめぐらせた時、アングロサクソンと日本人の根本的な違いがはっきりと見えた。 また、話が大きくなるが、 気候や風土がそこに住む人のすべて(精神・宗教・言語・発想等)を規定することを改めて思い知った。 1)アングロサクソンの性格の核・最近の好調 イギリスでこのような奥ゆかしい表現に出会ったことはない。 アングロサクソン文化の底流には、生きるか死ぬか・力と力の対決のような闘争的な発想があり、譲り合いは発想として有り得ない。 西洋の土地の生産性は日本に比べて何分の一である(土地がやせている)。 歴史的に多くの飢餓死がでたことがそれを証明している。 また、陸続きに多くの民族がいたこともあって争いが多かった。 アングロサクソンの魂は海賊(略奪を業とする)の精神だと言われる。 確かに、現地の小学校の教材にもパイレーツ(海賊)に引っ掛けた教材をよく見かける。 つまり、西洋は食うことや生きることに困ることの多かった社会だった。 そのような苦しい環境ででてきたのが、自然征服技術としての科学技術であり、また、精神的支柱としての精密で体系的な哲学(プラトンやアリストテレスからカントやヘーゲル)であった。 また、仏教が宇宙の真理から個人の覚りを導く教え(演繹的)であるのに対して、キリスト教は日常の個々の行いを通じて至福に導く教え(帰納的)だと言われる。 つまり、目の前の厳しい日常生活、過酷な生存環境、突き詰めれば「死と隣り合せの自分」こそが、アングロサクソンの遺伝子に組み込まれた性格の核の部分だ。 また、ここ(生死の淵からたたき上げられた「攻撃性」)までさかのぼらないとアングロサクソンの個人主義や、英語のはっきりとストレートな表現の根の部分には触れられない。 また、話がそれるが、アングロサクソンの市場原理というと聞こえ良いが、略奪を近代化・ゲーム化して交換にしたものと考えることもできる。 そして今、「天下統一」という自らの偉業の前に、アングロサクソンは、我が世の春を謳歌し、絶大な盛り上がりを見せており、「盛者必衰の理」も通じないかに思えるほどである。 2)日本人の性格の核・最近の不調 一方、日本はどうか。 お互い様や、前述の譲り合いの発想を生む背景は何か。 倫理観や精神的風土と言ってしまえばそれまでだが、それを根づかせるに至った実生活に密着した事実があったに違いない。 日本の土地の生産性は高い(土地が肥えている)と言われるが、豊かな自然の恵みで比較的簡単に生活できたという事実だ。 時として自然が猛威を振るったが基本的には皆が共倒れならない生産力があった。 また、異民族の侵略も無きに等しく、争いが他民族に比べて相当程度少なかったと考えられる。 確かに、西洋でよく見かける城壁に囲まれた町を日本では見かけない。 闘争中でも「敵に塩(生活必需品)を贈る」こともあった。 また、村八分(葬式・火事以外の8つの冠婚葬祭を停止することであり交際完全停止ではない)は、相手を徹底的に倒そうとするアングロサクソンの世界では考えにくいことだ。 結果的に、日本人は、自己の存在や利益を生きるか死ぬかのぎりぎりの状況で考える機会が少なく、「和を以て尊しと為す」、簡単に言えれば、「まあまあ」といいながら何千年も生きてきた。 また、物事を突き詰めて考えるよりも、むしろ、四季の移り変わり等風流を感じたり、また、精神的なレベルを向上させることにエネルギーを費やしてきた。 簡単に言ってしまえば、形式はともかく俳句(17文字という短い言葉の中に季語や自然を詠んで人間の心情や世界観等を表現する形式)作りのようなことを一生懸命にしてきたということだ。 つまり、「死と隣り合せの自分」や「攻撃性」がアングロサクソンの根であるなら、「余裕」およびそこから派生してくる「優しさ」こそが日本人の遺伝子に組み込まれた性格の核の部分だ。 日本語の曖昧さもこのような背景から必然的に生まれてきた。 このような「余裕」のある育ちで、日本人の遺伝子には、礼節を尊び、人間関係を大切にし、親切で思いやりのある、優しい性格が組み込まれていると想像されるが、黒船来航以降はハングリー精神に満ち溢れ科学技術を大きく発展させたアングロサクソンに追いつこうとやや自らのペースが狂った。 とりわけ、戦後、全面自己否定を経験し軸足が大きくぶれたところに、個人主義(自分を中心とした権利主張)と言われるものが、アメリカ的生活様式(物質至上主義)とともに大規模に輸入された。 さすがに外国文化の消化吸収の得意な日本人も、廃虚からのキャッチアップに奔走して考える「余裕」がなかったこともあり、消化不良を起こしてしまったようだ。 ようやく最近、社会の変調を目の当たりにして、多くの日本人が「何かが根本的におかしい」と気が付き始めのではないか。 3)「和風ステーキ」・「和風スパゲティー」 ネットワーク社会の成立や「天下統一」(人類にとっての単一社会の成立)を契機として、世の中のパラダイムが、アングロサクソン流の個人主義や競争原理等「直線」・「外向き」・「ハード」・「略奪」的な発想(「剛」)から、日本人が本来得意とする「曲線」・「内向き」・「ソフト」・「育成」的な発想(「柔」)に、微妙にシフトしている(少なくともその潜在ニーズが高まっている)。 今の世界を、日本の歴史に例えると、戦国時代から江戸時代になった頃だ。 「天下統一」のためには「剛」が最重要であったが、「天下統一」のもとでは、「剛」・「柔」のバランスが求められる。 念のために付け加えるが、「柔」だけでも社会は維持できない。 徳川政権の崩壊は、組織をクローズ型(鎖国)にして、その内部で過度に「柔」に重きを置きすぎて弱体化したところを外部の「剛」に足元をすくわれたと説明することが可能だ。 また、今日の日本企業の苦境や共産主義の崩壊もこのロジックで説明できる。 これらの失敗事例は、その反省として、オープン型で「剛」・「柔」のバランスを保つことの大切さを示唆している。 現在進行中のパラダイム変化(「剛」のステータスダウンと「柔」のステータスアップ)の中では、「柔」が、「一定のセーフティーネット付き競争原理」や「個性・民族性の多様性の相互尊重および相互活用」等の形をとりながら社会のなかで存在感が高まり、一方、アングロサクソン流の「剛」は、「時代を切り開く鋭利なもの」から「社会の活力源」のような一歩下がったような位置付けになるはずだ。 しかし、実際には「天下統一」後も従来通り「剛」が力を持ち続けて世界が殺伐たるものになる可能性もゼロではない。 その可能性を完全に押え込むためにも、日本人は、ネットワーク社会に対応する新しいモデル(「剛柔モデル」)を早急に作成し、自ら実践するとともに、世界に提示すべきであるし、またそれができるはずだ。 ロンドンのチャイニーズレストランやインドレストランで、日本人の柔軟性について改めて感心させられることがある。 日本のラーメンやカレーが、元々の中国や印度のそれとは似て非なるものになっていることに気付く時である。 日本人が、外国から寛容に文化を受け入れるが、そのままではなく、独自のものに変質させることのまさに良い典型例だ。 他にも文字・宗教等いくらでも例がある。 世界の大勢は、異文化に対してはまず反発であるなかで、日本人は、「余裕」をもって自らを失わない形で外国文化を消化吸収し、逆にそれを勝ちパターンとしてきた。 今、日本人が行うべきなのは、個人主義や競争原理に代表されるアングロサクソン流(「剛」)を、自らの軸足(「柔」)をぶらさない形で消化吸収することである。 幸い、前述のように、「剛」のステータスダウンと「柔」のステータスアップという、日本人にとっては追い風が吹きはじめた。 今なら、時流を得て消化吸収しやすいはずだ。 そして、目指す「剛柔モデル」は、「個人が明るく大らかに全員参加型・機会均等型・敗者復活型・個性尊重型で競争する」ような社会だ。 また、世界も、柔軟な発想の「料理人」(ハイブリッドなものを作るには広い世界を見渡しても日本の厨房に優るものはない)により開発される、味わい深く元気の出る「和風ステーキ」や「和風スパゲティー」のレシピを欲しているはずだ。 日本人がこの作業に成功するとき、後世の歴史家は、「西洋文明は、細切れであった世界を数世紀をかけて最終的にはネットワーク技術で一つに統合する原動力となった。 そして、ネットワーク社会の真の使い方を世界に広めたのは日本人であった。」と評するであろう。 4.日本経済の舵取り 変化の時代を乗り切るためには、洞察力も必要だが、具体論がないと先に進めない面もある。 この章では、日本経済の舵取りについて、いくつかの具体的アイディアを提供したい。 前述の「個人が明るく大らかに全員参加型・機会均等型・敗者復活型・個性尊重型で競争する」社会のイメージを汲み取って頂きたい。 1)教育改革 イギリスに帰化した旧植民地人が、子弟の教育に相当熱心であるのを見て、改めて教育の大切さを感じる。 また、現地の小学校では、理解度の速い生徒にはレベルの高い教材が平然と渡されるのを見て、日本では人を平等に扱おうとするあまり個性を抑圧してしまったことを感じる。 ネットワーク社会(ホームページにその個人ができることを掲示しておけば仕事が舞い込んで社会と有機的なつながりを持てるような社会)では、 個人が社会の中でどのような分野(個人と社会との接点となりうる「好きこそ物の上手なれ」と言える分野)で貢献ができる可能性があるかを個人にはっきりと理解させて、それに磨きをかけることが教育の最重要課題となる。 さらに、人間形成や言葉を使った異質なものとのコミュニケーション能力向上にも相当重点が置かれるべきである。 特に、生身の人間と接することの大切さを幼少期から教え込み、人間がバーチャル(仮想)世界に溺れないような仕掛けを教育に施しておく必要がある。 また、いろいろな民族が育ってきた気候・風土・歴史を最終的には民族性をイメージできるまで教え込むことも必要だ。 日本は、教育手法を、工業規格品を大量生産するような知識詰め込み型から、このようなネットワーク社会対応型に早急に変更する必要がある。 ネットワーク社会では知識はネット上に山ほどあり、単に知識を多く持っていることの価値は急速に低下している。 また、より高度な分業社会では、まとめ役候補(実務的能力に加えて職務上人格まで求められる人)に対するエリート教育が必要かもしれない。 2)リスク・コスト分散システム 日本の銀行界は不良債権で苦悩している一方、消費者金融業界はうまくいっている。 個人が返済できなくなる可能性を統計的な数字として把握しており(個別審査よりも統計重視)、その場合の損失額を貸出金利に上乗せしていることが主因だ。 返済できない人が現れても想定割合に収まっていれば利益がでる。 同じようなことがビジネスの立ち上げ投資に応用できないか。 例えば、ある教育(前述のような教育であり今の教育ではない)を受けた人または一芸が認められた人は、自らのビジネスプランに無審査で一定額の投資が受けられるようにする。 ビジネスが成功すれば何倍かにして返さなければならないが、失敗した時には返済義務はなしとする。 ビジネス成功確率をコントロールできれば民間セクターでも行える。 いわば一種のベンチャーキャピタルである。 また、他人のビジネスを何度かアシストすれば2度目のチャンスを与える等敗者復活戦を用意することも必要だ。 このようなシステムは、リスク・コストを分散して社会が全体として繁栄を維持・発展する仕組みと言えないか。 個人にとっても、人生で一度は、ネットワーク社会の「優しさ」を自らにぐっと引き寄せる具体的なチャンスを持つことになる。 たとえ失敗しても、若い時にビジネスの当事者としての実践を経験でき、社会にとっても、また、個人にとっても大きな財産になろう。 3)職場の組織・意味 環境が変われば理想の組織も変わる。 ネットワーク社会では、効率的な情報伝達により、 今までのように重いピラミッド型職務構造を作る必要が無くなる。 物理的な居場所に関係なく、リーダーシップ・コーディネーション能力・ビジョン作成能力がある人(統率力という専門性を持つ人とも言える)の周りに、実務的専門性の高さで勝負するような人が集まりチームを組むことで充分である。 また、社会の変化スピードがますます速まる中にあって、臨機応変にチームを組み替えることも必要になり、抱え込み的・固定的・閉鎖的な組織運営は過去の遺物となる。 戦後半世紀、日本人はこの重いピラミッド型職務構造の職場で能力以外のものを問いすぎてきた。 その結果生まれた「仕事がすべて」という思想が、高度成長経済の中では吉とでたが、バブル経済・家庭教育では凶とでた。 一方、今後いっそう広まるであろう能力主義は、能力を問うシステムであるが、逆に能力以外は問わないシステムである。 このように、職場がその構造・目的においてよりシンプルなものになることは、個人が「余裕」を得ることを意味し、社会の中で幅広く活動するチャンス(副業・趣味・家庭的役割・社会的役割等)を正々堂々と得ることにつながる。 懐の深い強い個人はこのような土壌から生まれるのではないか。 また、このようなことが最近頻繁に言われる「個の確立」につながっていくはずだ。 この辺に、「剛柔モデル」の大切なキーが隠されているような気がしてならない。 個人の意識改革と実行が求められる。 5.おわりに 最後に、一つだけどうしても気になることを述べておきたい。 アングロサクソンは、生きるか死ぬかの発想からか、つまるところ危機管理(サバイバル)に長けている。 一方、日本人は、自然の大災害には手の打ちようがないと考えてきた血がそうさせるのか、危機管理という発想に弱い。 ネットワーク社会では危機に対して相当に備えを厚くしておかないと、問題発生時に収拾のつかない大混乱に陥る可能性がある。 一方、危機管理にも相当に留意しなければと言っても、自前ですべてする必要はなく、日本人は危機管理という発想に本質的に弱いと自覚するだけで事の90%は終わっている。 危機管理に関することはアングロサクソン(危機管理の「専門家」)を雇って確立し、自らはもっと得意な分野を掘り進めばよいのだ。 このような発想がネットワーク社会では可能であり求められる。 << 参考ホームページ >> www.eis.or.jp/muse/tamach/home_j.shtml インターネット・ミッション・クラブ(IMC)ホームページ www.pref.kanagawa.jp 神奈川県のホームページ www1.plala.or.jp/MUSASHI/Sun-Tzu/Sun-Tzu.htm 孫子を読む www.dnp.co.jp/museum/artcom_16/musenet_16/musenet_16.1.html アメリカのミュージアム、メディア、ネットワークについての最新レポート Muse-Net USA www.fhs.co.jp/consul/ext/yom75.htm 「連立家族」−六つの潮流− www.mpt.go.jp/pressrelease/japanese/tsusin/980310j501.html 3/10付:高度情報通信社会の新たな社会ルールの構築に向けて www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic012/zadan/summary_j.html ハイパーメディア社会における自己・視線・権力 www.cps.ne.jp/abc/fcb/seminar/re_9804.html ボーダレス時代を生き抜く中小企業への処方箋 sukenmac.u-shizuoka-ken.ac.jp/studyroom/memo/cooperation.html Why do nations cooperate? www2h.biglobe.ne.jp/~mrcisc/japan/column4/Information/chinese.htm 中国人から見た日本人 www.crc.co.jp/CRE/347/347mess_sjis.html 日本の戦後を担ったエンジニアのヒューマンドキュメント www.doyukai.or.jp/database/teigen/960704.htm 心豊かな情報社会をめざして−新しい社会の創造を支える情報化 www.valdes.titech.ac.jp/~nkoba/essay/keizai.html 世界経済の成長につい www.keieiken.co.jp/tech/saito/saito4.html グローバリゼーションの暴力 member.nifty.ne.jp/masada/manage/leader.htm 一流の現場、四流の経営 village.infoweb.ne.jp/~fwgf2942/LectureManager/MG.Kakumei.html マネージメント革命 member.nifty.ne.jp/puyohp/rinri.html 組織と個人 www.koseigaku.co.jp/top.html ムスビは「進歩」と「和」の哲学 www.mskj.or.jp/getsurei/kagoyama9904.html 天皇制についての考察 www2.nikkeibp.co.jp/NB/book/b_3satu/1118b_3satu.html 日本人と西洋人の共通点を探る www.cnet-ta.ne.jp/k/koyama/langu.htm 発想の違い www.ff-ff.com/haristique/koza/koza-1.html 東洋医学と西洋医学の違い |
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21世紀と日本 「企業人のあり方」 (99年3月に作成し日本経済新聞社に懸賞論文として応募/佳作) 1.はじめに 5幕構成の紙芝居をしよう。 1)喧嘩で傷ついた動物5匹が心ある医者に巡り合い傷を治してもらった。 2)その後、動物達は動物園に預けられたが、肉体的には肥満、精神的には怠惰になった。 3)医者は、決断の遅れを後悔しながらも、動物達を野生に返す決心をした。 4)動物達は、野生に再適応しようと必死に努力した。 5)動物達のうち3匹は再び眼光鋭く筋骨隆々となり野生を生きぬいたが、残りの2匹は間もなく死んだ。 日本企業は、この紙芝居の第4幕の中、第5幕に向かって突っ走っている。 教育界で今「生きるたくましさ」がテーマとなっているが、まさにこの局面を象徴している。 逆に言うと、今までは「生きるたくましさ」など意識せずに生きることができた。 思い起こせば、「サラリーマンは気楽な稼業」と軽口をたたいた時期もあった。 自然界には「慣性」の法則がある。 動物園の動物が野性化を迫られるとき、意識を改革してまずこの法則と決別しなければ生命の危機がすぐにでもくる。 物事を考えるベースは、前例・過去ではなく、仮説・未来でなければならない。 本稿2章では動物達の動物園時代(「旧」企業人)を、3・4章では再度野生化に成功した動物(「新」企業人・「新」企業)を論じこのテーマに関する私の考えを展開する。 2.「旧」企業人 日本の企業人は、能力・平等に対する意識・「世界観」について、次のような特徴を持っている。 教育は本来能力開発型であるべきだが、従来の日本の教育は知識詰め込み型であった。 加えて、職業教育も専門性を重視しなかったので、「これ」という才能を顕在化させている人が少なく、「そこそこ」レベルの人が大勢いる。 また、ピラミッド型職務構造と終身雇用・年功主義という本来両立が難しいものを両立させるため、富を比較的均一に配分するなど、「結果」の平等という仕掛けを多用してきた。 そのため、人々が平等と言っても、それは「生きるたくましさ」につながる「機会」の平等ではなく、社会主義的な「結果」の平等を一般的には意味している。 日本の集団主義やアングロサクソンの個人主義と言われるものを平易な言葉で言うと、個人が「点線」で集団が「実線」なのが日本、個人が「実線」で集団が「点線」なのがアングロサクソンとなる。 日本の場合は、終身雇用・年功主義を軸に、企業という集団に特に太い実線を引いた状態であり、企業人にとって所属企業が小宇宙になっている。 生きるというこは、本来、大変厳しい孤独な作業である。 大昔においては、食物を得ることが仕事であり、失敗すれば死を意味した。 今日の分業社会においても、本質は同じであり、社会に何らかの付加価値を提供しなければ自らの分け前はない。 この視点にたてば、これといった得意技もなく、社会主義的な「結果」の平等を夢見て、小宇宙に暮らしている日本の企業人は、現実離れしているといっても過言ではない。 確かに、日本はこのパターンで高度成長時代に成功体験を味わったのは事実だ。 企業という集団に特に太い「実線」を引いたような運命共同体運営は、戦後の貧しい状態の中で生活水準全体を底上げする手段であり、産業界でいうと不況カルテルのようなものだった。 しかし、特殊条件下での時限措置であったことを、高度成長という成功体験のなかで忘れてしまった。 日本をよく勉強したあるロシア人が、日本は世界で最も成功した社会主義の国であると感心したという。 日本の核心に迫るコメントである。 社会主義は、貧しい状態を一定レベルまで引き上げるには有効であっても必要以上に継続すると崩壊することは歴史が教えるところである。 成功体験は人に自信を与える一方で、その後「慣性」の法則(現状基点主義)に従い、刻々と変化する環境の分析及びその対応を怠ったとき、「人はその成功体験で滅びる」という事態を引き起こす。 役者の世界でも子役は大成しないと言われるがまさにこのことだろう。 昨今、金融バブルばかりが取りざたされているが、もっと長い波長でできあがったこのような「意識」バブルも認識される必要がある。 今の日本人は、豊富な知識・財物があっても、実は、心底幸福ではなく不充実感を味わい続けている。 所属する組織とのしがらみで個を殺す場面も多く、そこで思考が停止している。 その結果、自分と社会とのつながりなどを真剣に考え人生哲学を深める機会が乏しく内面が不完全燃焼している。 また、自らが得意技を持たないため、身震いするような充実感を得る経験が乏しく、経験的にも不完全燃焼である。 つまり軸足が定まっていない上に、スイングスピードが弱く、ヒットが打てない野球打者のようなものだ。 一方、強い「結果」の平等意識は嫉妬心という「ガス」を社会に充満させている。 さらに、日本人の3大地獄(受験・通勤・住宅ローン)が人生をより過酷にしている。 昨今の教育現場での混乱は、直接的には、個性無視・知識詰め込み主義への子供の反乱とも言えるが、大人の世界にこの不充実感が充満している中で「生きる意義」ということが、家庭や社会を通して、子供に伝わらないことに対する子供のいらだちが背景にある。 3.「新」企業人 一方、「慣性」の法則を打ち破らなければならないと心底思えば話は早い。 職場において、判断基準・行動・意識を次のように変え、無駄を省き集中力を発揮すれば道は自ずと開かれる。 企業内にあって、目の前仕事に全力を挙げて取り組みがちであるが、その仕事が会社にまた最終的に社会に付加価値を提供することになるかどうかという判断基準で仕事を見直して大胆に修正を加えながら進む。 深い充実感は、社会と自分のつながりを感じた時に生まれる。 この基準に照らして否と考えられる仕事は、時代の変革期の中にあって、早晩この世から消滅してしまうこの可能性が高い。 行動面では、視野を所属企業から人間社会全体ぐらいに広くして、生存技術としての「これ」といった得意技を磨くことが必要である。 その得意技を顕在化させる場所は今の所属企業に限定しなくてもよい。 また、個人が「実線」であること強く意識し、それに伴う孤独と自由を感じれば、必然的に「結果」の平等に甘えないスタンスができあがる。「新」企業人は、所属企業が「実線」で個人は「点線」あるという呪縛から自らを解き放ち、個人が「実線」という信念で、広い視野・深い思考力・大胆な実行力を取り戻し、「野生」を再獲得する必要がある。 また、人材の供給源としての教育にも次のような改革が必要である。 学校教育には、社会ルール・自己コントロール習得をはじめいろいろな役割があるが、能力開発こそがいつの時代でも核の部分でる。 今までは、能力が、「そこそこ」の人を大量生産するという目的のもと知識量と定義されてきた。 しかし、昨今はサッカーのように組織プレーを行いながらも高度な個人プレーを組み込んでいかないと点が入らないような時代であり、教育に求められる役割は、各個人がどんな個人プレーができる可能性があるかを各個人に理解させるということに重点がシフトしている。 要は、個人と社会との接点となりうる「好きこそ物の上手なれ」と言える分野を探す手伝いをするということだ。 一方、家庭教育も大切である。 同じメッセージでも学校教育よりさらにリアリティーのある演出で子供に「感動」を付加することができる。 また、親は、昨今の技術革新による社会の変化のスピード等も考慮して、将来の適材適所のための黒子役になる必要がある。 日本では、数年後に労働力人口が減り始める。 子供一人一人をより大切に育てる必要がある。 4.「新」企業 厳しい勝負の世界であるプロスポーツの組織は次のように運営されている。 監督が、有期限契約で自らの進退をかけてチームを組成・運営する。 監督は、理念を掲げてチームを統率するとともに、日常でも頻繁に具体的判断を下す。 監督は、個々の選手の能力・性格を見極めながら理想像実現のための選手の組み合わせ(役割分担)を考える。 練習段階では、多くの選手にチャンスを与える一方で、選ばれた特定の人にレギュラーとしてのポジションを与える。 一方、監督の理念のもと各ポジションに求められるものに対して、個々の選手は個々の得意技で勝負する。 報酬は業績次第だが、契約は単年ベースが基本である。 また、監督・選手の他に、経営者、コーチ等の専門家、選手の練習相手等技能的裏方、組織運営を担当の事務的裏方等が、役割分担して組織を支えている。 一方、監督及び選手マーケットが存在し、移籍を通してスポーツ界全体の中での人材の最適配分が可能である。 監督を執行役員、選手を部長・課長、ポジションを責任・権限、チャンスを「機会」の平等、移籍を転職マーケットと読み替えれば、厳しい「野生」を生きる「新」企業の具体的イメージができる。 この「新」企業のイメージから発想すれば、今の日本企業・経済には次の3つのことが不足していることがわかる。 1)トップダウン経営(脱「御神輿」経営)、2)個人の役割(仕事の定義)・責任・権限・報酬の明確化(脱「ドンブリ勘定」経営)、3)開放的労働市場(脱「企業太線」経営)である。 「新」企業には、経営者を含めて、多様な価値観・ライフスタイルを持つ自立した専門性の高い人(「新」企業人)が、比較的自由に出入りするようになる。 その結果、より意味のある競争社会の中で、個人が能力・精神を磨くより深みのある、また全体としてもバイタリティーのある社会が実現する。 昨今導入が盛んな能力主義であるが、このような環境整備なくしては根付くはずがないことを最後に付言しておきたい。 |