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 第3章 倭の実像を考える


 中国史書に登場する倭のいろいろ

 倭は一般に日本列島を指称するとされているが、それは、五世紀に入ってからのことで、中国や韓国の古文献、金石文にはしばしば、倭・倭人・倭地・倭種・倭王・倭国など「倭」という文字がみえ、後漢時代(二五〜二二〇年)の頃には北方オルドス地方の倭、揚子江南方の倭、朝鮮半島南部の倭、そして九州北部の倭、と四つの倭があり、晋時代(二六五〜四二〇年)の四世紀中頃には、オルドス地方の倭、朝鮮半島南部の倭、そして日本列島の倭、と三つの倭が登場する。
 倭の範囲が、時代を経るに従って、次第に日本列島に狭められていくということは、「倭」が日本列島に押しこまれていったということであり、オルドス地方や揚子江、朝鮮半島に残った「倭」は、その地を支配した種族に同化されて、消えて行ったということであろう。この場合、日本列島に居住する「倭」がオルドス地方や揚子江、朝鮮半島に進出したと見るのは無理があり、その反対で、オルドス地方や揚子江、朝鮮半島に居住していた倭が、新大陸の日本列島へ移ったと見るほうが自然である。
 紀元前六年頃の中国の古い地理誌である『山海経』には「蓋国は、鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。燕は、中国の春秋戦国時代(前七二二〜前二二一)の七雄の一国で、周・武王の弟「召公Q」を始祖とする。河北・東北南部と朝鮮半島北部を領していたとされ、薊(北京)を都にしていたが、秦始皇帝によって滅ぼされた。『山海経』の記事は、倭が燕と陸続きであるということであり、今の内蒙古東南部から遼寧省北部地域、すなわち檀君朝鮮の領域であったと見られる。一説に蓋はKに通じるという。
 後漢時代の王充(二七〜一〇〇年頃)が著した『論衡』という書物には、周の時代に倭人が毎年、鬯草(ちょうそう)を献じたとある。鬯草とは酒の醸造等に用いる芳香草のことで、揚子江南部の特産とされている。倭は揚子江以南の国と見られていたのである。周は、殷を崩落させて紀元前一一〇〇年から二五六年まで続いた国であるが、春秋戦国時代はあってなきがごときの存在であった。
 後漢の班固が建初年間(七六年〜八三年)に著わした『漢書〈地理志〉』には「楽浪海中に倭人あり、別れて百余国となる」との記載がある。楽浪は、紀元前一〇八年に前漢の武帝が設けた楽浪郡の楽浪とされるが、崔氏が建国した楽浪国との見方もある。いずれにしてもこの記事は、紀元前一世紀半ば頃の状況と見られ、現在の平壌付近の海中の島では「倭人」がたくさんの「国」をつくっていることを伝えている。この倭人は九州北部の倭人とすることは困難であり、平壌付近の海中の島に多くの倭人がいたことになる。
 西晋の陳寿(二三三〜二九七年)が撰述した『魏志〈倭人伝〉』には、倭・倭人・倭種のほか、倭国・倭王・大倭などの表現がある。『魏志〈韓伝〉』に「韓は帯方の南、東西は海を以て限りとなし、南は倭と接す」とある。帯方とは、二〇四年頃に遼東太守公孫度の子公孫康が、楽浪郡の南部に設置した帯方郡のことで、韓は馬韓のことである。韓は帯方の南で、東と西とは海をもって限りとし、南は倭と接続するとした倭であるから、この倭は朝鮮半島南部にあったことになる。『魏志〈弁辰伝〉』の「涜盧国倭と界を接す」「国、鉄を出す、韓・穢・倭皆従つて之を取る」の倭もそうである。

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 倭=穢=八=夜という等式

 南朝宋の范曄(三九八年〜四四五年)が編述した『後漢書』には「委奴国、奉貢朝賀す、使人みづから大夫と称す、倭の極南界なり、光武賜ふに印綬を以つてす」とあり、また同光武帝本紀にも「東夷の倭の奴国王、使を遣はして奉献す」とある。ともに建武中元二年(五七年)の出来事としている。さらに『後漢書』には「安帝の永初元年、倭国王帥升が生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とし、安帝本紀にも、安帝の永初元年に「倭国、使を遣はして奉献す」と記す。後漢の安帝永初元年は一〇七年に相当する。この場合の「倭の奴国」「倭国王」「倭国」はいずれも九州北部地域を中心とするものとされるが、光武帝が下賜した印綬は、揚子江以南の南方の諸国に下賜する印綬の様式をとっているのである。
 『後漢書〈鮮卑伝〉』には、一八〇年頃、鮮卑族の檀石槐が、「倭人善く網捕するを聞く。ここにおいて東して倭人国を撃ち、千余家を得、徒して秦水の上に置き、魚を捕え以て糧食を助けしむ」とあるが、この倭は、朝鮮半島北部の倭であろう。この記事のオリジナリティは『魏志〈鮮卑伝〉』であるとされているが、現在に伝わる版本には「汗人」「汗国」とある。
 もともとは「汗人」「汗国」であったと考えられており、「汗」を「倭」に改訂したのは後の人であるとされるが、「汗」が「倭」と表記され、現在「穢」と表記されているということである。『説文解字』によれば、「汗」は「穢(わい)」であり、穢人のことなのである。これは、倭と穢がイコールでつながるということである。
 余談になるが、鮮卑族の檀石槐の名称の「檀」は、檀君朝鮮の「檀」に由来するのではないかと思われる。遠い昔は、東夷族として同じ範疇に入る種族ではあったろうが、時代が経るに従い、言語や習俗も異なってきただろうと思われる。そうした中でも、「檀」は、今風にいえば、ブランド名、すなわち王族名として珍重されていたように思われる。
 漢代に楽浪郡の属県となってから後漢代に脱郡し、当時の魚の特産国として中国にも知られていた「邪頭昧」が「穢頭国」とも表記されていることから、「邪」とは「穢」のことであり、「穢」が「穢」であることは、後漢時代の許慎(三〇〜一二四年)が著した『説文解字』という字典に記されている通りである。
 「邪」が「穢」であるなら、邪馬台国の「邪」も「穢」を意味すると考えられる。「馬」は馬韓の「馬」と考えられるから、筆者は、邪馬台国は、朝鮮半島から渡来した穢族と韓(貊)族の連合体であると考えている。日本では、「穢」は「八」「夜」とも表記されたようである。

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 朝鮮半島の正史『三国史記』の倭

 『三国史記』のなかには、倭人・倭兵・倭国・倭王などと呼称され、その多くは日本列島内の倭を指称すると考えられるが、しかしそのすべてがそうでなく、朝鮮半島南部の倭をさすと思われるものもある。『三国遺事』には、新羅は北方で靺鞨につながり、「南は倭人と接す」とある。この倭人は朝鮮半島南部の倭人をさすと考えられる。また、広開土王碑の碑文に記す倭・倭寇も、はたして日本列島内の倭を表現したものかどうかは、はなはだ疑問である。
 ちなみに、『三国史記』に記録されている「倭」の記事で、西紀一〇〇年までの出来事をまとめてみると、新羅本紀に次のように記すだけで、百済本紀、高句麗本紀にはその時代の倭の記事はない。
 紀元前五〇年「倭人たちが兵をひきいて辺境を侵そうとしたが始祖に神徳があるということをきいてすぐ帰ってしまった」
 同じく前二〇年「・・・辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ・・・瓠公という人は、その族姓がつまびらかでないが、もと倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した」
 後一四年「倭人が兵船百余隻で海辺に侵入して民家を掠奪するので、王は六部の強兵をしてこれを防いだ」
 五七年「脱解尼師今が即位した。王はこの時、年が六二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千里の所にある。はじめその国の王が女人国の王女を娶って妻とした」
 五九年「夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った」
 七三年「倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして、羽鳥が戦死した」
 以上であるが、倭人が辺境を侵し、掠奪行為をしたという類の記事ばかりで、倭国から王が来たとか、文化的な文物がもたらされたという記事はない。

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 「倭」という文字の意味

 このように、倭の居住地は、穢にきわめて類似していることがわかる。それでは、「倭」という字にはいったいいかなる意味があったのであろうか。
 『説文解字』という字典によると、「倭」というのは、従順のさまをいうとある。すなわち「倭」というのは後漢王朝を攻めない種族という意味らしいが、「倭」の音は「穢」に通じ、汚穢、腐臭の意があるという。「穢=穢」の呉音は「エ」、漢音は「ワイ」であり、「倭」の呉音・漢音は「ワイ」となり、酷似音になり、倭=穢となるのである。
 ところで、スサノオが定住した「根の国」は黄泉の国、死後の世界の意でもあり、「根」は「ネ」と発音されている。『古事記』では神名の一部、「古泥」を「こね」、「知泥」を「ちね」というふうに「泥」を「ね」と読ませている。『日本書紀〈神代紀〉』では神名の一部、「泥土」を「ウイジ」と訓読みし、「泥」を「ウイ」と読ませている。ということから「根」と「泥」は同義であったろうと考えられる。その発音が、エまたはワイ(穢)、ワイ(倭)と酷似音であり、「ウイ」が「エ」「ワイ」に、「ネ」の古形は「ナ」であり通音であるから、その「ナ」が「ワ」に転訛するのは容易であろう。
 平安時代末期(西紀一一〇〇頃)の説話集である今昔物語集に「仏は清浄の直身に在す。汚穢塵垢には非ず」とあり、「汚穢」を「わえ」と読ませている。「汚穢」は読んで字のごとく、「きたないもの」であるが、「汚」を「わ」と読み、「穢」を「え」と読んでいる。「エ」と「ワイ」は通音である。

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 根の国は倭の国(根=泥=穢=倭)

 前述の『魏志〈鮮卑伝〉』からも「穢」が「汗」と表記され、その「汗」が「倭」と表記されたことは、この三つの字義が同じであるということに他ならない。穢は穢と同義であり、穢は「汚れ」であるから、「根」「泥」「穢」「倭」というこれら四つの字には共通して、「汚れ」という意が含まれていることを考えると、筆者は、根=泥=穢=倭の等式が成り立つと考える。
 すなわち、スサノオが定住した根の国は倭の国なのであり、それが、出雲の地とされている。しかし、筆者はそれに対して疑義を抱いている。根の国は、出雲ではなく、九州有明海の泥の海だと考えている。有明海の泥の海は、古代にあっては、海産物(食料)の宝庫であったろうし、生活するには最適の土地であったろう。
 当時の倭地は、鳥獣や禽獣のみが生息する地であり、汚穢の地であり、だからこそ「黄泉の国」「死後の世界」と認識されたのであろう。その「黄泉の国」にいるイザナミの姿を見て、その汚さにイザナギが腰を抜かすほどにびっくりしたという汚さであったのだ。換言すれば、鳥獣や禽獣の屍が腐乱するばかりで、人智の力が一切及んでいなかったという状況なのである。
 その地に、スサノオを降臨させるということは、「島流し」の刑以外にはありえないことだ。まして遡ること約二千年の紀元前後の倭地は、朝鮮半島の住民にとっては、二度と帰ってこれない最果ての地として認識されていたと、筆者は確信している。今でこそ、飛行機で一時間と非常に近くなったが、その当時は、帰るに帰れない遠い遠い距離であり、一六世紀のアメリカ大陸や一九世紀のオーストラリア大陸と同様、日本列島は新天地だったのである。
 穢は、穢、穢、T、とも表記されており、「穢」は漁労を生業とする種族、「穢」は稲作を生業とする種族、「穢」は牧畜を生業とする種族、「T」は狩猟を生業とする種族というふうに、編著者はそれぞれによってとらえたイメージで「穢」を叙述したのであろう。穢族は、弥生の時代から狩猟・漁労を生業とする種族であり、時代を経るに従って稲作や牧畜も生業にしたであろう。
 当時は、言葉が出来つつある時代であり、その表音文字は、いろいろな漢字が選択されたであろう。史書の編述者によるその漢字の選択によって、「根」とも表記され、「穢」とも表記され、「倭」とも表記されたのであろうし、「穢」とも「穢」とも「T」とも表記されたのであろう。

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 文身(入墨)する種族

 『魏志〈倭人伝〉』に「男子は大小となく、みな面に黥し文身す」とあり、『魏志〈弁辰伝〉』に「辰韓人は皆褊頭、男女は倭に近く亦文身す」とある。これは、九州北部の種族と朝鮮半島南部の種族が、共に文身をし、同じ種族であろうと、魏使が見聞していたのであろう。この文身した種族を、倭人の朝鮮半島における勢力分布圏とみなす論法も散見されるが、とんでもない誤解といわねばならない。
 文身とは入墨のことで、罪人にほどこされる場合も多いが、『魏志〈倭人伝〉』には、倭の海人が文身してサメなどの害をさけたと記していることから、文身を習慣とする種族があったのだろう。九州北部では海人族が文身していたとされ、穢族も漁労を生業とする種族であり、文身していたと思われる。敏達天皇二年条に、瀬戸内海を航行中の船が、櫂をクジラにかじられた、という記述があり、このクジラはサメのことと解される。瀬戸内海で海人がサメに襲われて死亡する痛ましい事故が発生しているのである。
 罪人に文身した例として、『日本書紀』履中天皇四月条に、住吉仲皇子に従った阿曇連浜子に入墨みをし、浜子の配下の野島海人らを大和の蒋代屯倉で使役した、という例が見られる。さらに同じ履中天皇五年条に、天皇が淡路島に行幸したところ、そこの神が、天皇に従う飼部らの、入墨の血のくささにたえられないと神託したために、馬飼の入墨をやめさせたという記事が見られる。当時の馬飼は奴婢同様の身分であり、その奴婢らに文身させる風習があったことが分かる。
 『魏志』には、周代の呉国の始祖「太伯」の長子が、荊蛮の地に行き、文身断髪してその俗にそまったと伝え、あるいは『漢書』が、「其の君は禹の後の帝少康の庶子というもの(越王句践のこと)、会稽に封ぜられ、文身・断髪し、以て蛟竜の害を避く」と記す。これは、その昔、周王朝の一族が南方に奔り、文身、断髪して、蛮人の君長となり、国を樹てたのが、「呉」という国であるということであり、文身は南方系の習俗と考えられている。

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