ささやきの小径は、アカシアの小径、サナトリウムレーン、恋人達の小径とも呼ばれる ひっそりとした道。
その小径からさらに奥へと歩いていくと幸福の谷とよばれる美しい場 所があります。
木々の緑が美しいこの季節、時間をかけてのんびりと散歩するのにぴった りな道です。


アカシアの香り漂うささやきの小径  

 「ささやきの小径」と呼ばれる小さな道をご存じでしょうか。軽井沢に生まれ育った地元の方でも、即座に場所をピタリとあてられる方はあまりいらっしゃらないかもしれません。

 矢ケ崎川のせせらぎと野鳥のさえずりが心地よい静かなこの道は、現在までにいろいろ な名前がつけられてきました。最初に名前をつけたのは、外国人宣教師たち。明治時代に 軽井沢に最初の別荘を建てたA.C.ショーらをはじめとする外国人宣教師たちは、ピク ニックにいくお気に入りの場所や、いつも散歩する道につぎつぎと英語の愛称をつけてい きました。昭和18年頃につくられた英文地図を見ると、この道を彼らが「サナトリウム レーン」と呼んでいたことがわかります。そう、ここにはかつて、あるサナトリウムがあ りました。

 大正10年に軽井沢避暑団(現在の軽井沢会)の要請で設立したこの療養所は「軽井沢 サナトリウム」という名称でしたが、病院長をニール・ゴードン・マンロー博士がつとめ ていたため「マンロー病院」とも呼ばれていました。マンロー博士とは、人類学者でもあ る英国人で、アイヌ研究の第一人者としても高名な方でした。特に肺結核治療が得意とい われ、堀辰雄や土井晩翠などが通院していたことでも知られています。堀辰雄の「美しい 村」でもこのサナトリウムはたびたび登場し、「レイノルズ先生」として登場するのが、実 はこのマンロー博士そのひとでした。この病院は残念ながら後に閉鎖され、現在は建物も 取り壊されてしまいましたが、六本辻近くにある外人墓地ではマンロー博士が今も静かに 眠っています。

 その堀辰雄の「美しい村」では、実際の婚約者だった矢野綾子との想い出が綴られてい ます。なかでも、サナトリウムのあった道を、ぎこちなく2人で腕を組んで散歩する場面 の描写は美しく、印象的です。堀辰雄はこの道に沿って並ぶアカシア並木を愛しました。 この小径のもう一つの名は「アカシアの小径」です。堀の頃にはまだ背丈ほどの高さのア カシアから漂う香りが初夏を思わせたようですが、現在はかなり背も伸び、アーチのような並木道となっています。

 現在のところ、この道の呼び名は「ささやきの小径」が一般的なようです。まれに、「恋 人達の小径」と呼ばれることもあります。この二つの名前の由来は不明ですが、この道 が堀辰雄の最も愛した場所であったこと、そして堀と綾子が静かにささやきながら散歩し た道であったことなどを考えると、おそらく堀 辰雄への敬愛の意味をこめて誰かが名付けた名前なのではないでしょうか。


外国人達の別荘地、幸福の谷

 ささやきの小径を矢ケ崎川の上流にむかって進み、万平ホテルの裏手へと進むと、「幸福の谷」と呼ばれる場所があります。浅間石を 敷き詰めた石畳のこの道は、静かな別荘地にゆれる木漏れ日と苔むした石垣が、なんとも 言えず美しい場所です。この場所を命名したのは、やはり外国人宣教師たちでした。

 英語で「ハッピーバレイ」と呼ばれるこの場所は、早くから外国人たちの別荘地として ひらかれていきました。谷の北側は「北幸の谷」(ノースハッピーバレイ)、南側は「南幸 の谷」(サウスハッピーバレイ)とも呼ばれています。19世紀の植民地時代、英国人達は 自分たちの居住する地域にしばしばこの名前をつけていたようです。アジア諸国でも、同 じ名前の地名は各地に見られます。

 彼らが命名する以前、もともとここは「桜の沢」と呼ばれる場所でした。「さくら」と聞 くと思わず桜の木を想像してしまいますが、その名前の由来はおそらく「さ」(狭い)「く ら」(谷)からきているのではないかと思われます。山と山が迫っている暗い谷。堀辰雄の 「風立ちぬ」でも、冬になって人影もなく寂しい谷は「死のかげの谷」と呼んだ方がよさ そうだ、と描かれています。確かに夏は美しい避暑地でも、冬は人影もなく寂しい厳寒の 谷です。しかも当時は冬になると水道もとまり、木造の建物は防寒対策もほとんどとられていませんでした。そんな谷で「風立ちぬ」を書き上げた堀辰雄が、はじめは「幸 福の谷」とする予定だった最終章の題を「死のかげの谷」として亡き綾子へのレクイエム としたのもなんだか納得してしまう話です。

 しかし冬には人を寄せつけない厳寒の谷だからこそ、その美しさもまた格別なのかもし れません。雪がつもって真っ白に続く道、冬の陽差しをうけて輝く雪をのせたモミの木な どの樹木、雪が音を吸収してしまうのか、しんと静まりかえった谷……。ときおり、「死の かげの谷」にも描かれたようにキジやリスたちの“得体のしれない足跡“をみることもできま す。


二人の作家が愛した、二つの別荘

 ささやきの小径から少し入った場所には、以前堀辰雄の4番目の別荘が佇んでいました。 向かいには、道をへだててオーストラリア公使館。この公使館は「美しい村」に もチェコスロバキア公使館として登場しています。作品中では水車の道のほとりとなっていますが、実際は堀辰雄の最も 愛したこのささやきの小径付近にありました。作品の中で公使館の中から聞こえてくるピ アノの音色、バッハのフーガは、公使自身が弾いていたものだといわれています。

 この別荘は、堀が昔から欲しがっていたものでした。昭和16年にイギリス人から実際 に購入する以前にも、季節はずれに訪れてはベランダで一人で過ごしたことがあったそう です。そんな別荘を手に入れてからは、彼は早春から秋遅くまでの長い期間を軽井沢で過 ごして楽しんだといいます。しかし、結核を患っていた堀がこの別荘を利用したのはわず か3年間でした。霧が多く湿度の高い旧軽井沢は療養に不向きだったこともあり、彼は追 分へと住まいをかえ、現在は堀辰雄文学記念館となっている場所に移り住んでその生涯を 終えました。

 この別荘は、のちに堀辰雄と親交のあった画家の深沢紅子夫妻が借りて利用していまし たが、現在は軽井沢高原文庫内に移築・保存され、一般に公開されています。

 一方それより以前、幸福の谷には川端康成の山荘がありました。昭和11年に「雪国」 で文芸懇話会の賞金を得た彼は、そのお金をそっくりつぎこんで外国人宣教師から山荘を 譲りうけます。この別荘は昭和16年に売却され、川端は隣接していたイギリス人宣教師 の山荘を買い求めて「秋風高原」などを執筆していきました。細くつらなる道を登りつい た丘のうえに建つ山小屋は「三方から見ると二階、もう一方の西から見ると三階というお もしろい姿」だったと「秋風高原」にも記されています。現在、最初の山荘はすでにあり ませんが、二番目の山荘は今でもレンガ色の煙突を当時のままに残しています。

 そしてこの川端の一番目の山荘では、前述の堀辰雄が書いた「風立ちぬ」の最終章が書 き上げられました。当時堀辰雄は追分の油屋旅館で執筆していましたが、昭和12年にその旅 館でおこった火事によって焼け出されてしまいます。執筆中の原稿も失った彼のために、 川端は自分の山荘を提供しました。そうして堀辰雄は、川端山荘にて「風立ちぬ」を書き あげることで婚約者だった綾子(作品中では節子)の死を乗りこえ、新しい人生を歩みは じめていったのでした。


 軽井沢駅から新道を経てささやきの小径、そして幸福の谷へは、のんびり歩いて1時間 ほどの散歩道です。





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