『キリスト新聞』一九九五年十月十四日号社説


イコンの理解

 ここ最近、グレゴリオ聖歌のブームとあいまって、イコンの人気が高まってきている。イコンとはギリシア語の「アイコーン」(像)という言葉に由来し、東方正教会の伝統で大切にされてきた板絵の聖画像を指す。和風の部屋にも調和し、静けさを好む日本人の感覚には西洋的なキリスト教芸術よりも馴染みがあるのかもしれない。

 宗教改革の時代に、カルヴァンは当時の教会の迷信的な信心のありかたに対して、純粋な福音的信仰を強調して、画像が偶像礼拝に導く危険を戒めた。『キリスト教綱要』第一編第十一章では、礼拝堂にいかなる像も置いてはならないと述べている。ここから、今日でもとくに改革派の流れをくむキリスト教会では、画像を用いることによって宗教的感性を育てるという伝統はあまりない。

 そもそも聖画像崇敬の是非をめぐっては、すでに七世紀末から九世紀半ばにかけて論争が繰り返され、流血にまで及んだ。七二六年に東ローマ皇帝レオ三世は画像破壊令を発布し、帝国内の礼拝堂からイコン、モザイク、フレスコ等を取り外した。これに対してダマスコのヨアンネスは聖画像崇敬を擁護し、神に対する「礼拝」と聖画像に対する「崇敬」とを区別した。ヨアンネスによれば、「いかなる像をも造ってはならない」(出エジプト20・4)という掟は旧約の民には必要だったが、神の子の受肉を通して止揚される。イエス・キリストこそは目に見えない神の本質の目に見えるアイコーンだからである。神の子キリストを神的本性に即して描くことはできないが、神的本性と結合している人間的本性に即して描くことはできる。

 このように聖画像崇敬の元になっているのは、受肉の信仰である。神の子が肉となったからには、肉なるものでも神の世界を写す道具になれるのだという確信があり、ギリシア的な精神主義と違って、世界内のもの、物質的、身体的なものへの肯定がある。他方、キリストのイコンはキリスト自身と同一ではなく、その写しである。礼拝されるのは決してイコンそのものではなく、イコンが写し、指し示しているものでなければならない。

 イコンは、東方教会では「永遠への窓」と呼ばれ、それを見る者が地上の現実を越えて神的な世界に目を注ぐように促すと言われている。それは単なる宗教芸術に尽きるものではない。修道者たちが毎日の祈りの中でこれを描く、いわば祈りの結晶である。一枚の絵をしあげるには長い月日を要する。遠近法を無視した画法は多くの象徴から成りたち、目の形、耳の形等の一つひとつに神学的意味をこめている。東方教会では、信者たちの日常生活の中で親しまれ、家の玄関や寝室に置かれる。そこで信者たちは祈るのだが、それはイコンそれ自体を礼拝しているのではなく、イコンを媒介として目に見えない神を礼拝しているのである。

 イコンには不思議な魅力があり、すぐに馴染めないものであっても、時のたつうちに味わいが出てくる。見る者に心の安らぎを感じさせる。「見る」ことを通じて神の神秘を「観想」させるという意味でも、「永遠への窓」と呼ばれるのであろう。

 本末転倒の危険があるからと言って、信仰生活から感性的な手段をすべて切り捨てることは、キリスト教をただ知性的にのみとらえ、貧しくしてしまうことにならないだろうか。とくに日本でのキリスト教の受容を考える上で、豊かな情緒を養うことを忘れてはならない。そのために、東方正教会のイコン崇敬に学ぶものは大きい。

(上智大教授百瀬神父執筆)


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