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別府カトリック教会 日本における信心 聖ドン・ボスコは、最初の宣教師たちにむかって次の方針を与えたのです、「助け手聖マリアとご聖体のイエズスに対する信心をいつもすすめなさい」と。日本におけるサレジオ会員たちもこの方針に従い、1964年富士山の二合目に扶助者聖母の立派なご像を立てて全日本を聖母のご保護に委ねました。 日本における |
聖母マリアの巡礼堂 別府カトリック教会 |
別府ではまた、先にのべた「ロザリオ会」も設立されました。この会は、家庭でのロザリオの信心をすすめるのに大いに役立ちました。1948年には、アロイジオ・デルコル神父によって、聖母月の毎日、聖母についての説教がおこなわれました。これは、別府の教会としてははじめてのことで、その結果、信者の信仰生活の程度が高められ求道者の数もふえてきました。 |
別府カトリック教会 |
当時のサレジオ会管区長であったクロドヴェオ・タシナリ神父は、1951年1月28日付けで、次のように書き残しています、「別府の人々は、町の中央に新しいお聖堂の堂々たる建物がたちまちにして聳えてくるのをみて、なにか超自然的な力が働きかけているという印象をうけて、注意をひかれるようになっていました」(">チマッティ神父箸「・・・年代記」)。 同じくタシナリ神父は、サレジオ会総会長レナト・ジジョッティ神父にあてた翌年の報告書のなかで、次のように記すことができました、「別府の聖母巡礼堂の活躍と重要性とは、日ましに高まっていきます。助けて聖マリアへの信心のよい影響も現れ、信者はより熱心となり、助けて聖マリアの美しいお聖堂と、聖母の御母としてのほおえみに魅せられて、求道者の数も日増しにふえてきます」(デルコル神父箸「1951〜1958年代の記録」)。 聖母聖年(1954年)の式典も、特に記録しなければなりません。大分地区のこの式典は、別府でさらに輝かしい表現をみせたのです。別府のお聖堂は、すでに大分地区の信者たちの巡礼地となっていましたが、1954年10月7日の日曜日、聖母巡礼堂から満鉄の明星学園までの市内の目抜き通りに、最高の壮厳な儀式にのっとった堂々たる聖母行列が繰広げられたのです。 この盛大な行列には、当時の教区長ドミニコ深堀司教、元教区長モンシニョル・チマッティ師、サレジオ会日本管区長クロドヴェオ・タシナリ神父、及び大分地区の全ての宣教師の指導のもとに、同地区の信者のほとんどが参加していました。参加者の数は、およそ1500名と推定され、大貞公園のドン・ボスコ学園のブラス・バンドも活躍していました(デルコル神父箸「1951〜1958年代の記録」)。 参考 「扶助者聖マリア」(デルコル神父著) |
カトリック教会のカテキズムによる主の祈り
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聖母マリアと祈り
Regina Martyrum- Auxilium Christianorum扶助者聖マリア目次
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AVE MARIA
聖マリアと共に |
2001/4/5up
マリアを通してイエズスへ[Ad Jesum
Per Mariam] by Gracy (Japan)
キリスト教・カトリック・聖母マリア
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