扶助者聖マリア
Santa Maria di Edo

江戸のサンタ・マリア巡礼堂
(碑文谷カトリック教会)


日本における信心

聖ドン・ボスコは、最初の宣教師たちにむかって次の方針を与えたのです、「助け手聖マリアとご聖体のイエズスに対する信心をいつもすすめなさい」と。日本におけるサレジオ会員たちもこの方針に従い、1964年富士山の二合目に扶助者聖母の立派なご像を立てて全日本を聖母のご保護に委ねました。

日本における

キリスト信者の助け手

聖マリア

扶助者聖マリア

扶助者聖マリア

7、江戸のサンタ・マリア巡礼堂
Santa Maria di Edo
(碑文谷カトリック教会)

8、下井草カトリック教会のおいたち

9、赤羽星美学園の聖母堂

江戸のサンタ・マリア・聖母マリア
Santa Maria di Edo
江戸のサンタ・マリア

 

7、江戸のサンタ・マリア巡礼堂

江戸のサンタ・マリア巡礼堂・碑文谷カトリック教会
碑文谷カトリック教会



 さて2番目は、江戸のサンタ・マリア聖堂です。東京の、人口の密な目黒区にたてられたもので、アロイジオ・ダルフィオル神父とアントニオ・コルッシ神父との尽力によってたてられたお聖堂です。壮厳な献堂式は、聖母聖年(1954年)の5月12日から22日にかけておこなわれました。
 1954年5月16日、三笠宮殿下、数人の大使、外交官、目黒区の主だった人物、おおぜいの司祭、修道者、修道女、おおぜいの女子サレジオ会員、信者、友人、恩人の参加のもとに、盛大な落成式がおこなわれました。
 ついで5月22日(土曜日)、教皇公使マクシミリアン・ド・フルステンベルグとパウロ田口大阪司教、ルカ荒井横浜司教の司式のもとに、新聖堂の聖別式がおこなわれ、江戸のサンタ・マリアに奉献されたのです。聖別式のあと、教皇公使閣下による壮厳な司教ミサがたてられました。
 あいにくの雨天にもかかわらず、おおくの信者が聖別式にあずかり、この壮厳司教ミサの聖体拝領をしました。
 5月23日(日曜日)、田口大阪司教は、壮厳な司教ミサをたて、集まったおおぜいの信者にむかって、聖母マリアのご光栄をうたったのです。
 江戸のサンタ・マリア新聖堂の献堂式の式典は、おもな新聞、ラジオ、テレビで報道され、一週間にわたって映画ニュースにもなりました。
 当時のサレジオ会管区長クロドヴェオ・タシナリ神父は、次のように書きのこしています、「日本のサレジオ会員はみな、この新しいお聖堂に満足していますが、・・・・・・いちばん満足なさったのは、聖母ご自身だと思います。この新しいお聖堂は、日本の首都にたてられ、聖母マリアの、救いをもたらす信心を四方にひろめる使命をもっているからです」(「1951〜1958年代の記録」)。

 

江戸のサンタ・マリア巡礼堂・碑文谷カトリック教会
碑文谷カトリック教会

 この銅版は、上野博物館に保存されているキリシタン関係のかずおおい史料のなかで、そのいわれの知られていなかったものですが、専門家たちの研究によって、シドッティ神父がもってきたあの「江戸のサンタ・マリア」と判定することができました。それはちょうど、目黒区碑文谷の新聖堂の建設中のことでした。
 これを知るようになったサレジオ会は、当局に手つづきをして、献堂式の式典にさいし、当分のあいだそのご絵を目黒の新聖堂に安置する許可をえました。
 こうして、この新聖堂は、江戸のサンタ・マリアにささげられることになりました。これは、この聖母ご絵をはじめて日本にもってきた、殉教者となった宣教師の夢の実現とはいえないでしょうか?じじつ、シドッティ神父のこの美しいご絵は、239年ぶりにかくれた所から取りだされて、完全なあかるみに出るようになったのでした。この歴史的な聖母のご絵は、サレジオ会によってささげられた目黒区碑文谷の美しいお聖堂で、あたらしい栄光をえるようになりました。

江戸のサンタ・マリア巡礼堂・碑文谷カトリック教会
江戸のサンタ・マリア巡礼堂
碑文谷カトリック教会

このお聖堂は、江戸のサンタ・マリアにささげられましたが、ことさら将軍時代の古い呼び名をとった理由は、この新しいお聖堂に、いわゆる「江戸のサンタ・マリア」と題する貴重な聖母ご絵の“うつし”が安置されているからです。
 「江戸のサンタ・マリア」は、ドルチ画伯(イタリア人で、1616年生まれ1686年没)の作とされている「かなしみの聖母」のご絵で、原画は、上野博物館に保存されています。
 30p×25cmの銅版にえがかれたこのご絵が日本にあるのは、迫害時代に、有名な殉教者ヨハネ・バプチスタ・シドッティ神父がもってきたからです。シドッティ神父は、江戸の名高い「キリシタン屋敷」(キリシタンをとじこめた“ろうや”)で、1715年帰天したため、神父のもっていた聖母のもっていた聖母ご絵も、「江戸のサンタ・マリア」と名づけられるようになりました。シドッティ神父の裁判官だった新井白石は、その著書「西洋記聞」のなかで、このご絵についてくわしく書きのこしています。

江戸のサンタ・マリア・聖母マリア
Santa Maria di Edo
江戸のサンタ・マリア


 



 このお聖堂は、のちに、サレジオ会修道士ジャコモ・フェラーリ師の筆によって装飾がほどこされました。
 東京調布のサレジオ会神学院の神学生たちは、聖母聖年にさいして数日にわたる聖母大会をおこないましたが、大会の開会式を壮厳にするために、1954年10月10日、ふかい信心を持って江戸のサンタ・マリア巡礼堂に巡礼したのでした。(「1951〜1958年代の記録」)
これは、最初の荘厳なな巡礼となり、これにつづく東京の東北地方にある「キリスト信者のたすけ」と「殉教者のきさき」聖マリアの熱愛者たちのさきがけとなったといわなければなりません。


参考 「扶助者聖マリア」(デルコル神父著)

1969年1月31日 聖ドン・ボスコ    初版発行
1995年5月24日 扶助者聖マリア    再版発行
「世のひかり社」出版


 

カトリック教会のカテキズムによる主の祈り 聖母マリアと祈り

 

扶助者聖マリア目次
Regina Martyrum
Auxilium Christianorum
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2001/3/13up

マリアを通してイエズスへ [Ad Jesum Per Mariam] by Gracy (Japan)
キリスト教・カトリック・聖母マリア

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