扶助者聖マリア

8、カトリック下井草教会のおいたち

9、赤羽星美学園の聖母堂

日本における信心

聖ドン・ボスコは、最初の宣教師たちにむかって次の方針を与えたのです、「助け手聖マリアとご聖体のイエズスに対する信心をいつもすすめなさい」と。日本におけるサレジオ会員たちもこの方針に従い、1964年富士山の二合目に扶助者聖母の立派なご像を立てて全日本を聖母のご保護に委ねました。

下井草カトリック教会の聖母マリアの御像
下井草カトリック教会の
聖母マリアの御像

日本における

キリスト信者の助け手

聖マリア

扶助者聖マリア

扶助者聖マリア

 

 8、カトリック下井草教会のおいたち

カトリック下井草教会
カトリック下井草教会


 東京の西方地方にも、聖母巡礼堂が立ちました。サレジオ会の東京育英工芸学校(今の、育英工業高等専門学校)と、もとサレジオ会神学院と修道院との所在地で、遠い1945年空襲の危険にさらされていたこのサレジオ会の事業の上に、キリスト信者の助けて聖マリアのおん母としてのご保護を願いもとめるために、同時の管区長ヴィンチェンツォ・チマッティ神父は、聖母にささげるべく新聖堂をたてる願をたてました。
 それから10年、主任司祭ヨハネ・マンテガッツァ神父の熱烈な、どんな防げにも屈しない努力の結晶として、この願も実現のはこびとなり、聖母の熱愛者チマッティ神父のひろい心に、大きなよろこびがあふれたのでした(「・・・1951〜1958年代の記録」)。

カトリック下井草教会
カトリック下井草教会


 
 定礎式をおこなったのは、折しも、日本サレジオ会を視察中のサレジオ会総会長レナト・ジジョッティ神父でした。ときに、1955年3月21日でした。献堂式は、翌年1956年10月21日、東京大司教ペトロ土井枢機郷によって荘厳におこなわれました。
かつて、この新聖堂をつくる願をたて、その建築に精魂をかたむけたモンシニョル・チマッティは、この式典にさいして、マテル・グラツィエ(めぐみのおん母)と題するすぐれた新しいミサ曲を作曲しました(Missa polyphonica Mater gratiae)。壮厳司教歌ミサのおり、作曲家自身の指揮でこの聖歌を合唱したのは、調布サレジオ神学院と下井草教会の両聖歌隊でした。

カトリック下井草教会の聖母の被昇天のミサ

2000/8/15  聖母の被昇天のミサ(カトリック下井草教会)

 

9、赤羽星美学園の聖母堂



 また、東京の北東地区にあたる赤羽台は、戦前から軍の兵舎があったところで、キリスト信者の助けて聖マリアは、ご自分の軍隊、いわゆる扶助者聖母修道女会(女子サレジオ会)の軍隊のために、総司令部を準備しておられたのです。
 女子サレジオ会は、それ以前からすでに東京でさいしょの事業をはじめていました。所在地は、サレジオ会にまかせられた三河島教会の近くでしたが、第二次世界大戦のおわりごろ、この事業は、空襲にあい灰と化してしまいました。
 しかし、終戦直後の1945年、赤羽台に新しい道がひらかれました。それは、かつて聖母が聖ドン・ボスコにあらわれて、トリノの新しい聖母大聖堂の建つべき場所をお示しになってから、ちょうど100年がすぎていました。
 そのとき、聖ドン・ボスコがまぼろしのなかでみた夢のお聖堂のおもてに、大きな字で、「ここは、私の家。ここから、私の栄光がひろがっていく」という、慰めと魅力にみちたことばが書かれていました。
 ここ赤羽台にも、キリスト信者の助けて聖マリアのために、美しい新聖堂がたたなければなりませんでした。こうして、ここにも、キリスト信者の助けて聖マリアにささげられた新巡礼堂がたち、1958年7月7日、荘厳に聖別されて、戦争のときのご守護への感謝のしるしとなったのでした。


参考 「扶助者聖マリア」(デルコル神父著)

1969年1月31日 聖ドン・ボスコ    初版発行
1995年5月24日 扶助者聖マリア    再版発行
「世のひかり社」出版


 

カトリック教会のカテキズムによる主の祈りカトリック教会のカテキズムによる主の祈り 聖母マリアと祈り聖母マリアと祈り

 

扶助者聖マリア目次
Regina Martyrum
Auxilium Christianorum
このページのトップ

2001/3/13up
マリアを通してイエズスへ [Ad Jesum Per Mariam] by Gracy (Japan)
キリスト教・カトリック・聖母マリア

Copyright(c) 2001 Gracy TOCK. All Rights Reserved.
情報提供は世のひかり社。及びAVE MARiA 聖マリアと共に。提供画面等権利はGracy TOCKに帰属します