10、神の御摂理のたわむれ
東京の地図をみると、男女のサレジオ会が東京にたてた聖母聖堂は、日本の首府、日本の“みやこ”をつつむ空間的な三角形の各頂点をしめていることがわかります。聖ドン・ボスコは、1885年の布教地に関するあの予言的な夢のなかで、この東京をながめたことがあります。かれは、これを“めあこ”(=みやこ、都)という古い名でよんでおり、この“みやこ”は“無限の海(=太平洋)のいりぐちに”あって、“高い山に面している”とのべています。この“高い山”とは、ほかでもなく日本の霊山、富士のことです(cfr Memorie Biografiche,vol,I,pag,554−555;“Con
Don Bosco ogni giorno”,pag,258)。
「高い山」という暗示は、なんでしょうか? たんに地理的な方向をさしているのでしょうか? むしろここにも、意味ぶかい予言的な暗示があるとみるべきでしょう。では、この暗示をさぐってみましょう。
1864年4月、トリノ市のヴァルドッコ(Valdocco)地区ーーーむかし Vallis occisorum「死刑された人々の谷」といわれたこの地区ーーーーに、聖ドン・ボスコが夢のなかで聖母マリアからたてるようにと命じられた、新しい聖母大聖堂の建築工事がはじめられました。そのおなじ年に、長崎では、「首塚」(死刑にされた人々の首つか)に、日本26聖人の新しい天主堂の建築工事がはじめられたのです。
翌年(1865年)3月17日、この26聖人の天主堂のなかで、聖フランシスコ・ザベリオの時代にさかのぼる古い信者の子孫にあたる、キリシタンの発見がありました。
発見のきっかけとなったのは、聖母のご像でした。「サンタ・マリアのご像は、どこ?」と、キリシタンたちはプチジャン神父にたずねたのでした。
この信者発見を記念し、聖母マリアに感謝をしめすために、1867年、プチジャン司教はーーーかれは、そのあいだにあらたに生まれた日本教会の初代の司教になっていましたがーーーフランスから送られてきた美しい聖母像を安置することにしました。そして、このご像を、天主堂のなかにではなく、入り口に面しただれにもよくみえる高いところに置くことにしました。このご像の台の正面には、「日本之聖母、慶応元年三月十七日、信者発見記念」と刻まれてあり、みぎひだりに、「殉教者のきさき」「キリスト信者のたすけ」ということばが記されていました。
(cfr Marnas,“La Relugion dejesus ressuscitee au japon”,tome premier,paris,1931,2
edition,pag.671)。
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注 1968年9月4日、たまたま長崎大浦天主堂をおとずれた筆者は、天主堂のまえにおかれた聖母像の台のおもてに、漢字で「日本之聖母、慶応元年三月十七日、信者発見記念」、うら側に、ラテン語でIn Memoriam diei 17 Martii 1865の文字が刻まれているのをみて深い感がいを覚えましたが、台のみぎひだりに、かねて聞いていた文字が見当たらないので不審に思いました。
さっそく大浦天主堂の西田忠神父にきいてみましたが、かれは長年長崎にいても、そのような文字をみたことはないということでした。そして、長い間に、いろいろ手がつけられたこともあるので、あるいは、そう書かれていたかもしれないと語りました。
私はそこで、台をたんねんに調べてみましたが、文字が彫まれていた形跡はありません。
しかし、はじめて長崎の天主堂についたとき、聖母の美しいご像の台に、「殉教者のきさき」と、「キリスト信者のたすけ」とあったと記しているのは、チマッティ神父です。
「日本サレジオ会事業初期の25年間の短い年代記」Breve Cronistoria dei primi 25 anni di lavoro salesiano in Giappone(東京、謄写版刷り、1951年発行、5ページ)と、同年代記の活字版であるNELL’IMPERO DEL SOL LEVANTE(Edizioni A.M.S.,Torino,1953年発行、2ページ)と題する本のなかに、チマッテイ神父は、つぎのようにかいています。
「日本とのさいしょの出あいーーー〔1926年〕2月8日、九州の門司港についた。同市の宣教師、パリ外国宣教会々員マルタン神父は兄弟的な歓迎をしめし、管轄司教コンパ閣下のあきらかなのぞみにより、私たちを長崎へともなわれた。
長崎は、殉教者の地である。この地で殉教者たちの子孫は、宣教師がふたたび訪れるのを待ちながら、りっぱに信仰をまもりぬいたのである。長崎は、司教座聖堂の入口のまえに立っているご像の台によまれるように、“殉教者のきさき”と“キリスト信者のたすけ”であるマリアに聖別された地である」。
この引用にもあるように、さいしょのサレジオ会の派遣団がチマッティ神父をかしらに、1926年2月8日、長崎の大浦天主堂についたとき、聖母像の台のおもてに、「日本之聖母、慶応元年三月十七日、信者発見記念」、うら側にラテン語でその文字と、他に、「殉教者のきさき」と「キリスト信者のたすけ」ということばもよまれたのです。チマッティ神父が後年(1951年)になってから年代記を発表したとはいえ、その年代記の史料はみな、当時の記録やおぼえ書きにももとづいたものでした。
では、聖母像のみぎひだりの「ことば」は、墨で書かれていたのでしょうか?もし、刻まれていたとすれば、その跡がかすかにしろ残っているはずです。跡がないからには、墨で、直接台の石の上に書かれていたのではないでしょうか?ーーーしかし、1967年にはじめて書かれたとして、1927年までには、60年のへだたりがあります。チマッティ神父が、それをよみ、記録にとどめたというにはあまりにも根拠がうすすぎます。おそらく、そのあいだに、何回も書きなおされたと解釈するのが妥当でしょう。そして、戦争のあいだに、書きなおされることもなく消えるにまかされたとも考えられます。
大浦天主堂のおもてに聖母像がたてられたのは、1867年(明治元年)6月2日でした。2年前(1865年3月17日)の信者発見を記念するためでした。
その日の様子は、目撃者であったクザン神父(Jules Alphonse Cousin)が、パリー外国宣教会本部にあてた12日後の手紙のなかで次のように書いています。
「・・・・・・日本の聖母〔のご像〕を安置するために、いちばん上の花壇の中央に台がつくられました。きっと神も、聖母も、『日本の聖母、われらのために祈りたまえ。1865年3月17日記念』と、ご像の台に書かれたことばを、お忘れにはならないでしょう。このinscription(=記された文字)のみぎひだりに、 Regina martyrum(=殉教者のきさき)と Auxiliun Christianorum(キリスト信者のたすけ)という二つの invocations(=願い)がよまれます。この二つは、全世界のどの国にとっても魅力のあるものですが、日本ではことさらです」。
この手紙を書いたクザン神父は、1885年長崎の第3代司教となり、16年の間長崎教区の布教に従事しました。かれが、1867年に書いたこの手紙は、パリー外国宣教会々員で、大阪司教名誉代理になってのち帰国しクレルモン市の司教となったマルナス師(Francis−pue Marnas)の著書、La Religion de Jesus ressuscitee au japon(Paris,2e edition,1931,tome premier,p.671)に引用されています。
このように実証される、聖母像の台のみぎひだりに、はじめから記されていた、「殉教者のきさき」と「キリスト信者のたすけ」ということばーーー1927年にまだよまれたこのことばーーーが、消えうせてしまったことは残念のきわみです。 (1968年11月10日)
(デルコル神父著)
参考 「扶助者聖マリア」(デルコル神父著)
1969年1月31日 聖ドン・ボスコ 初版発行 1995年5月24日 扶助者聖マリア 再版発行 「世のひかり社」出版
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