
| 2004/6/27(日) 年間第13主日 |
| 2001/7/1(日) 年間第13主日 |
年間第13主日C年の聖書朗読 列王記上 19,16b 年間第13主日C年の聖福音
聖福音(ルカ 9,51〜62)からノート イエスがエルサレムに向かい、十字架に架けられる時が近づいた時期のことです。その十字架のみ業の時を、天に上げられる時、イエスの時とも聖書では、よく記されています。その時が近づいた時、人々はだんだんとイエスから離れ去って行く事を、イエスご自身ご存知であったようです。 自分はイエスについて行こうと決意して、反対者を「主よ,お望みなら,天から火を降らせて,彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言っていた弟子にも、その言葉に対して戒めています。人の事はいいから、あなた自身がどうであるかと問われているかのようにも思えます。 それでもイエスは、「わたしに従いなさい」という言葉を人々にのこしてゆかれます。 まず、家族にいとまごいに行かせてください。それから、あなたに従います。と言う人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は,神の国にふさわしくない」とイエスは言われます。 私たちは誰しも、決心をしても、その決意がとおせそうにないと、いかにも正当に思える理由をつけて、決心を後回しにしようとすることがあるだろうと思います。そうした事にもイエスは言葉をのこしてゆかれます。 時が近づいた時、人々はだんだんとイエスから離れ去って行く事を、イエスご自身ご存知であったにもかかわらず、イエスは何かを残してゆかれます。 わたしたちの人生には、いろいろな時があります。順調な時、困難な時、楽しい時、悲しい時、若い時、年老いた時・・・それらすべてを含めて、一番大切な時や事柄の選択があるのを、さとされているようでもあります。時と選択に、何か深い関係を思わせてくれます。時間の中でいつも私達は何かを選択していきます。 どんな無神論者と自称したとしても、いつも何かを望み求めていると思います。心が何かを望み求めている事自体、祈っているということすらいえるかもしれません。しかし、自分の力や、人や科学の力では、どうにもならない時や事柄があるのも、イエスはさとされ、残してゆかれます。人は望んで求めるものを選び取る習性があると思います。その時や事柄において何を見つめ選択するのか、キリストの言葉は、どれほどわたしたち一人一人の存在を愛し、十字架上で選び取ったものは何かと、心にせまってくるようです。 |
文章の文責・著作権は開設者に帰属します。 |
Calendarium liturgicumカトリックの典礼暦
![]() |
AVE
MARIA 聖マリアと共に (BGM Ave Maria) |
2004/3/26up
マリアを通してイエズスへ[Ad Jesum Per
Mariam] by Gracy (Japan)
キリスト教・カトリック・聖母マリア
聖書引用は 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
文章の文責・著作権は開設者に帰属します。
このぺージの無断コピー・複製・転用は禁じます
Copyright(c) 2001 AVE MARIA
聖マリアと共に by Gracy. All
Rights Reserved.
Copyright(c) 2001 Gracy TOCK. All Rights Reserved.