
| 2002/11/3(日) 年間第31主日 |
年間第31主日A年の聖書朗読 マラキ書 1,14b-2,2b,8-10 年間第31主日A年の聖福音 〔そのとき〕、イエスは群衆と弟子たちにお話になった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 ノート ゲーテが言っている言葉に、人間は自然から遠ざかるほど、病気が近づいてくると言う言葉があるそうですが、現代において食生活や生活環境はますます自然から遠ざかっていっている現状でしょう。科学・文明の発展は確かにわたしたちの生活を便利にしてくれました。その便利さなしには、生活が困難であることは間違いないかと思います。文明無しの自然と共存する生活を強いられるとしたら、それは大変な事と思います。しかしながら大自然の空気や昔ながらの佇まいや、おふくろの味といったようなものに、懐かしさと安らぎを感じるというものでしょう。なぜでしょうか。自分が確かにそこに居るというような懐かしさと安らぎ感でしょうか。本来の自分の居場所を心のどこかで人間は捜しているのかもしれません。人の子は,失われたものを捜して救うために来たのである。・・・ザアカイ,急いで降りて来なさい。・・・背が低かろうが高かろうが、わがままであったり、怒りっぽかったり、親切でなかったり、自分の力だけでは変えられない自分の姿。わざわざ高いところに上らなくても、心の中のイエスの前では、そのままの自分の姿でよいのでしょう。そんな自然体の自分の居場所感を心の中に見出せない時、人間は自然から遠ざかるほど、周りの群衆という人の思惑が心配になって捕らわれ、安心した大地にしっかり立つことが出来なくて、不安定な木に登り、安心を捜しているのかもしれません。・・・ザアカイ,急いで降りて来なさい。心の中の大自然が呼んでいる声が聞こえてくるような気がしませんか。 |
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