
2004/2/15 年間第6主日C年 |
| 年間第6主日C年の聖書朗読 エレミヤ書 17,5〜8 年間第6主日C年の聖福音(ル カ 6,17 20〜26) イエスは彼らと一緒に山から下りて,平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから,またティルスやシドンの海岸地方から来ていた。さて,イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。 (日本聖書協会『聖書 新共同訳』ルカ 6,17・20〜26) ノート この日の聖福音は、山上の説教(マタイ)の至福八端のように長くはない。むしろ、山を下りて「平らな所」でされ、いはば、至福四端の形になっていて、四つのしあわせ、四つののろいがあげられている。 現実の生活の中では私たちが避けたいと思うような事を、キリストは幸いと言っているのでしょうか。神様は1人1人の幸せを望んでいるはずです。貧しい人々はというのは、霊において貧しい事を意味していて、現実に見えている事だけをいうのではありません。私たちは実際に見えている事に反応しやすいのかもしれません。それをキリストは教えさとされようとしているのではないでしょうか。人間の目から見た判断と、神様の見方はちがうようです。今自分の目で見えているものだけで判断しない様にとさとされているかのようです。見えているものを通して見えていないものにまなざしをそそぐようにと。 手引きしてくれるのは、この日のエレミヤ書 17,5〜8 ここで他者を信頼するなと言っているのではありません。人間同志が信頼を持てなかったら、健康な幸せな心とは言えないでしょう。神様にまなざしを向けてこそ人間同志の本当の信頼関係が生み出されるのではないでしょうか。むしろ、自分自身の中の人間的な、肉的な感情や思い、望みだけに信頼しないようにといっているのではないでしょうか。人からむりして自分が良く思われようとする事、自分がいつも正しく見られたいために何かをする事、認められたい、人と比較する事、楽をしたい、そういった思いは人を縛り付け奴隷状態にします。山を下りて「平らな所」で語られた四つのしあわせ、四つののろい。の、のろいとは、奴隷状態のままの事をいうのではないでしょうか。肉的な思いは、頼りにならないという事だろうと思います。頭で分かっていても、自分の奥深くにあるものと、絶えず戦っているのかもしれません。その中で、神に判断を任せ信頼しきって、行く事は、時には、自分自身の中で反発があったり、人間的な思いと神様を待ち望む思いのはざ間で、飢え乾いたり、泣いたり。それが人間という者だろうと思います。そんな人間一人一人を限りなく慈しみ愛しておられる御方を信頼いたしましょう。 生きているとは正にそうゆうことではないでしょうか。キリストはそれを幸いと言っておられるのです。その、生きた、あるがままの私を。 そして、神に信頼しきる人に大いなる希望をあたえてくださっています。 神は世を愛し、ひとり子を与えられた。子を信じる人が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。 |
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2004/3/26up
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