| ヨハネ八章のはじめに、姦通の女ののたとえ話ででてきます。
聖書では偶像崇拝を、姦通や姦淫の女にたとえています。
偶像崇拝というのは、愛である神を第一の基準に思い行動するよりも、他の基準で思い行動することだから、この世の地位や名誉欲、お金や知識欲、人の思惑など神の愛より先に選び、大事にする事も偶像崇拝になります。ピラトも群集を恐れ、彼等をよろこばせようとして、イエズスを引き渡し十字架にかけたのです。神よりも自分の考えが正しいと思いこみ、それに流されて思い行動する事も、神より自分を崇拝する偶像崇拝と言えるでしょう。
私たち人間は誰しも、気がつかないうちに過ちに陥りやすいのではないでしょうか。
神の憐れみがどれほど必要でしょう。そして神様は、どれほど神の愛に信頼することを私たちに求めておいででしょうか。
ヨハネ八章のところにもどりますが、
姦通の現場で捕らえられた女を律法学者やファリサイ派の人々がイエズスの所に連れてきて、こうゆう女は石打ちの刑に値するが、どう思われるかとイエズスを試して言った時、イエズスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエズスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そうしましたら、年長者から一人一人立ち去り、イエズスとその女だけが最後に残り、イエズスは女に言った「婦人よ、あの人達はどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が「主よ、だれも」と言うと、イエズスは言われた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
ここで、イエズスが見た目の判断にこだわらない、愛である神の基準にたっておられると思います。
イエズスさまが地面に何かを書き始めたのは、何を書いたのでしょうね。一説に十戒を書いたという説もありますが、そこにいる人の一人一人の犯した罪を書いたともいわれています。しかし、イエズスにとってそんな事は問題でなく、人間の弱さ、陥りやすい過ちにたいして、憐れみぶかく、人が人を見た目だけで判断しなくていい、むしろ慈しみと憐れみのほうがたいせつだ。といっているようでもあります。
イエズスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
言葉では言い表しきれない、おもむきの雰囲気を感じます。
反論もせず、何かを現わす姿。
指で書いたのだから、雨風でいつかすぐに自然に消えてしまう。
たとえ、ひとりひとりの罪をそこに書いたとしても、大自然の中で文字は消えてしまう。
一生懸命自分の罪をかき消そうとしなくとも。
大自然の中に神の愛の支配が現れているようです。
過ちを自分で認められないと、いつもそれを隠し、白く塗った墓石でなければならなくなります。
正しく、きれいであるように見せるために。
生きていると言う事は、汚れては洗い、ちらかしてはかたずけ、寝ては起きの連続です。
汚れっぱなしでも、おかしいし。いつも正しくきれいである事も生きていればありえませんよね。
イエズス様は誰をも責めず、教え諭されるようです。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
神様は、どれほど神の愛に信頼することを私たちに求めておいででしょうか。
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