11月の説教集

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11月の第1週

2001年 11月 4日
説教者 上村昌次牧師
説教題 「心の牧場」
聖 書  イザヤ書 65章8-12節

 シャロンキリストの教会が創立して15周年になりました。シャロンいう名称は地名です。シャーロム(平和、平安)とよく間違えられることがありますが、シャロンは地名です。そこは今日のテル・アビブ(ヨッパ)から北のハイフア(カルメル山)に至る地中海に面した平原で、肥沃の地で花が咲き、草木も生い茂る所です。私たち日本人にとっては珍しい土地ではありませんが、砂漠に生きた人にとっては「良い広い地、乳と蜜の流れる地」でした(出エジプト3章8節)。旧約聖書の地理的背景は殆どが砂漠でした。従って、シャロンのような肥沃な地はしばしば理想の地に思われたのです。イザヤ書65章10節に「シャロンは羊の群れの牧場と」なるようにと述べられています。
 イザヤ書65章8−12節において預言者は何を告知しようとするのですか。シャロンに入ることのできる者は誰ですか。8節「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるしのあるのを見るならば、『それを破るな、その中に祝福があるから』と」あります。この預言者の時代はイスラエルがバビロンに滅ぼされた時代、即ちエルサレム滅亡後の時代です(紀元前578年後)。イスラエル人にとって神なき時代と思われる程まで絶望した時代でした。そのために、多くの人は異教の神にすがるようになっていたのです。しかしその中にあって、「真実の神によっておのれの祝福を求め」る者が居たのです。「ぶどうのしるし」とは異郷の囚われの身であっても、イスラエルの「真実の神」を信じた者のことです。別の言い方をすれば、「わたしが選んだ者」即ち選ばれた者です。この選ばれた者がシャロンの牧場の群です。 選ばれた者は誰ですか。それはイエス・キリストを信じた者のことです。イエス・キリストの言葉を用いれば、ぶどうの木(キリスト)の枝につながって信仰の実を結んだ者のことです(ヨハネ福音書15章1−2節)。それ故に、選ばれた者とは特別な人のことではありません。シャロンの牧場に至る道はすべての人に開かれています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ福音書7章7節)、特に「すべて重荷を負うて苦労している者」(マタイ11章28節)が求めるとき、シャロンの牧場の道は広く開かれています。いや、イエス様が私たちを牧場へと招いて下さっているのです。その招きに応えることが牧場への門です。
 人は心の牧場の緑を求めています。しか多くの人はしシャロンの牧場が何処にあるのか、その道が何処にあるのか、分からないのです。シャロンキリストの教会は心の牧場を心の渇いた人に招くために立てられたのです。大事なことはシャロンキリストの教会はいつでも福音を伝えること怠らない教会であることです。シャロンキリストの教会の存在それ自体が福音です。シャロンキリストの教会の存在自体が神への感謝のしるしです。


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11月第2週

2001年 11月 11日
説教者 上村昌次牧師
説教題 「シャロンの花」
聖 書 使徒行伝2:44−47

 11月はシャロンのキリスト教会創立記念月です。来週の聖日、18日には創立15周年記念礼拝を守ります。私たちは教会歌をもっています。〈シャロンの花〉を毎週歌っています。(U192番)池田明良先生による別紙で〈シャロンの花〉を讃美しています。今日もそれを歌いました。それは雅歌2章1節に由来しています。〈シャロンの花〉とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストはシャロンの牧場の羊飼いであり、同時に麗しい花です。この讃美歌によれば、シャロンは私たちの心にあるのです。
 シャロンの教会とは何でしょうか。なによりもシャロンキリストの教会の中心はイエス・キリストです。「からだは一つ、御霊も一つ、あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である」とエペソ人への手紙4章4節にあるように、シャロンの教会は「からだは一つ、御霊も一つである」イエス・キリストによって成っているのです。イエス・キリストの体を中心にして私たちは集められた心の牧場としての教会です。私たちには所有すべき土地も建物も有りません。しかし私たち一人一人が心の中にシャロンの花を持ち咲かせるために集められているのです。
 エペソ人への手紙5章16節に、「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」とあります。「今は悪い時代」です。文字通り、今は世界にとって悪い時代です。20世紀は二つの世界戦争を経て、後半はいくらか安定していました。しかし21世紀の初頭である今年の9月11日の出来事はまさに悪い時代の象徴です。「悪い時代」とは終末を暗示しています。いつの時代にも、悪い時代には終末の悪い予感がします。平安時代の終わりに、大火、戦争が相次いで、そこで末世の思想が生まれたと言われています。今、日本にとって「悪い時代」です。失業者が増えているし、これからも増えることが予想されています。自殺する人が増えているし、心が病んでいる人が増えてきています。まさに希望が見えない終末時代になっています。そこで先程のエペソの手紙5章16節に於いて、パウロは「今の時を生かして用いなさい」と勧めています。今こそ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える時です。それはシャロンキリストの教会の一人一人が心に中にシャロンの花を咲かすこと、うるわしきかおりを放つことです。一人一人がシャロン教会です。建物や、土地ではないのです。
 パウロはさらに(5章19節)「詩とさんびと霊の詩とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい」と言います。シャロンキリストの教会は文字通りキリストの教会です。私たちはイエス・キリストを信じる者の集いです。一人一人が信仰の花を咲かせ、かおりを放ち、また語り合い、讃美の歌をうたいましょう。一人一人が伝道者です。〈シャロンの花〉2を読みましょう。

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11月第3週

2001年 11月18日
説教者 上村昌次牧師
説教題 「荒野に泉湧く」 15周年を顧みて
聖 書 マタイ福音書11章4-6節 イザヤ書35章1-10節

 シャロンキリストの教会創立15周年記念を迎えました。その歩みは遅々たるものでした。多くの人から、シャロンの教会はいつ倒れるかと危惧されてきました。しかし今日まで神様によって支えれられてきました。何もかも整えているならば、信仰はいらないし、福音もいらないのです。シャロン教会が存在することが福音であり、神の恵みの証です。それは強がりに思われるかもしれませんが、わたしは神の恵みと信じています。
 シャロンとは何ですか。たびたび申し上げていますが、地名です。地中海に面した平原です。そこは百花繚乱の沃地です。イザヤ書35章2節に「さかんに花咲く」とあります。しかしここは(イザヤ書35章1-10節)来るべきイスラエルの救われた姿を預言しています。「荒野と、かわいた地とは楽しみ」(1)とありますが、「荒野と渇いた地」とはイスラエルが外国に支配されていた絶望の時代を表しています。心が暗黒に陥っていることを暗示しています。どこにも救いがない状態を示しています。その「荒野に水がわきいで、さばくに川が流れる」(6)のようになるのです。それがシャロンです。マタイ福音書11章4-6節において、このイザヤ書が引用されています。このことからして、シャロンはイエス・キリストの福音を表しています。荒野は聖書の時代の出来事ではありません。今、私たちは心の荒野を彷徨してはいないでしょうか。人の心はシャロンを求めているのではないのですか。
 現代の多くの人は聖書の時代の人と同じように孤独で悩んでいます。もちろん、幸せに満ちた人も多くいるでしょう。しかし心が渇いている人がいます。イザヤを通して神は「心のおののくものに言え、『強くあれ、恐れてはならない』−−」(4)と私たちに告げました。生きる勇気を神は私たちに与えてくださっています。勇気の源泉は生ける神であるイエス・キリストです。その勇気は「目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる」(5)ほどです。それは文字通り「神の子イエス・キリストの福音」です。(マルコ福音書1章1節)。シャロンは福音そのものです。
 シャロンキリストの教会は救われた者の集いです。ひとりひとりの心にシャロンがあるのです。イエス・キリストを通して心の砂漠に泉が湧くのです。その湧き出た泉を私たちは分かち与えることが大切なことです。人はしばしば言います。「シャロンの教会はどうなるのか」と。シャロンの教会はひとりひとりが、サフランの花を咲かすところどこにでも存在するのです。

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11月第4週

2001年11月25日
説教者 野口良哉牧師
説教題 「十字架の再発見」
聖 書 ヨハネによる福音書 15章12−17節

 先日、立教大学の正門付近の地下約1メートルのところから巨大な十字架が発見された。80年前までチャペルの屋根に建っていたものだという。ミッション系の大学にとってはシンボル的なものだけに、なぜ大事な十字架が地中に埋められたか不思議がっている。
 ところで、私たちキリスト者にとっても十字架は重要なものである。ただ、その形や大きさが大事なのではなく、その意味が重要なのである。しかしながら、私たちは、はたしてその意味をどこまで理解しているだろうか。
 この箇所には、キリストの十字架を理解するふたつのポイントがある。第1のポイントは15節「わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」。僕(しもべ)と友の違いは何か。言うまでもなく、僕は主人に言いつけられたことをその理由を考えずにただ為すだけであるが、それに対して、友はその主人の思いを知らされた者なのである。それだけに、キリストの思いを知らされた私たちの、キリストの友としての責任も大きい。はたして私たちはキリストの友として、キリストの愛に十分こたえているであろうか。
 第2のポイントは13節「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。キリストは私たちをただ友呼ばわりするだけでなく、その友のために自分の命を捨てるという最大の愛を示してくださったのである。それこそ十字架の意味ではないだろうか。キリストの教会の伝道者であり、作家でもあるマックス・ルケードは、十字架に架かるキリストの私たちキリスト者に対する気持ちを、キリストのなり代わって、次のように表現している。「あなたのいない天国に行くよりは、わたしは地獄へ落ちることさえいとわない」。
 キリストは私たちキリスト者を友と呼び、その友のためにご自身の命をも捨ててくださった。ここにこそ、十字架の意味がある。私たちは今、その十字架の意味を再発見したい。
 

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11月第5週



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