12月の説教集

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12月の第1週

2004年 12月 5日
説教者 上村昌次牧師
説教題 「待降節」
聖 書 イザヤ書 7章 10-17節

 はじめに;12月に入り、イエス・キリストの誕生を祝う月、いわゆる待降節(アドベント)です。このアドベントの時に、私たちはイエス様の誕生を待つ預言の言葉を学びます。有名な個所はイザヤ書71017節、917節、1118節、ミカ書5章2−4節等です。今日はイザヤ書7章10‐17節から「待降節」について学びます。特に、イザヤが「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(14)、と予言したことは良く知られています。その彼の預言がイエスの誕生において成就したのです。インマヌエルとは「神われわれ共にいます」(マタイ123節)を意味します。

 T 神の実在;インマヌエルなる神の実在を、私たちは疑わず信じることが出来るでしょうか。何かにつけて、私たちは日常生活において神の存在を忘れ、思い煩うことが多いのではないでしょうか。教理は理解しても、神の実在を確信することが出来るでしょうか。イスラエルの預言者は神の言葉を直接聞いて伝えたのです。アモスという預言者は、「ししはほえる、だれが恐れないでいられようか。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられようか」と告げています(38節)。神の実在は神が語ることによってわかるのです。預言者イザヤも、神が語り、それを聞いて預言したのです。彼の時代はイスラエルが危機に陥った時です。シリヤ・エフライム戦争と呼ばれていた時(紀元前733年)です。その時のユダの王はアハズでした。彼は大国アッシリヤに助けを求めたのです。それに対して、イザヤはアッシリヤではなく、イスラエルの神に助けを求めることを勧めたのです。何故ならば、神は必ず救いの手を差し出して下さるからです。神は預言者の口を通して「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる」(14前半)と告げたのです。そのしるしがインマヌエル(神われわれと共にいます)です。神の言葉と神の実在は一つです。神の言葉を信じることは神の実在を信じることです。私たちにとって神の言葉は聖書です。聖書を通して神の実在を私たちは知って信じるのです。

 U 神の真実;神は預言者を通してインマヌエルの誕生を預言したのです。それがイエス・キリストの誕生です。イザヤが預言したのはイエスが現れる733年前です。しかし神は神の時が満ちたときに、インマヌエル・イエス・キリストを世に現したのです。それは人が忘れた時です。しかし神は預言者の口を通して約束された救いのしるしを成就されたのです。神は真実・誠実な方です。神は必ず語られた言葉を誠実に実行されます。

 V 神は愛です;神はイスラエルの人を愛したのです。神の愛は口先だけではありません。実際、神は愛を行なわれるために神の御一人子であるイエスを十字架におかけになったのです。そしてイエス自身、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」、と言われました(マルコ217節)。神は愛です。むすび;インマヌエル預言を通して、神は実在し、神は真実であり、神は愛であることを知り信じましょう。


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12月第2週

2004年 12月 12日
説教者 上村昌次牧師
説教題 「ベツレヘムよ」
聖 書 マタイによる福音書 2章 1-12節

はじめに;今日は1212日第二聖日であります。私たちはクリスマスを称える讃美礼拝を捧げています。クリスマスは言うまでもなく、イエス・キリストがお生まれになった出来事です。ところでマタイ福音書によれば、イエス様の誕生を最初に知ったのはいわゆる星占いの博士(天文学者)たちでした。この博士たちは東から来たのです。星に導かれベツレヘムに来て、生まれたばかりの幼子イエス様に見え拝したのです。博士たちは星占術の人たちですから、星や月を神として信じる異邦人でした。最初に、イエス・キリストに見えたのが異邦人博士たちでした。「ユダの地、ベツレヘムよ」、とメシヤの到来を約束されていたユダヤ人ではなく、神の約束を知らない異邦人がメシヤ・キリストに見えたのです。そこに私たちの思いを越えた深い神の摂理があったのです。

 T 博士たちの贈り物;ベツレヘムと言いますと、今日ではイエス様の生誕の地としてよく知られています。また今日パレスチナ問題と関係して、国際ニュースにおいてその地名がしばしば出てきます。しかし当時は全く無名の町でした。まして東方の博士たちがそのことを知るはずがなかったのです。彼らは星に導かれて来たのです。星は神の啓示であり、聖霊の働きであったのでしょう。彼らにとって、イエス・キリストを信じる事が出来たことは望外の喜びでした。彼らは最高の贈り物を携えてベツレヘムに来て、幼子イエス・キリストに出会ったのです(11)。そしてメシヤ・イエスを拝したのです。

 U 私の贈り物は何でしょうか;ところで私たちはクリスマスに何を携えて、ベツレヘムのイエス・キリストに見えることが出来るのでしょうか。私について言えば、イエス・キリストを知り、信じて以来、私はイエス様にどのような贈り物をおくって来たのでしょうか。情けないことですが、何一つ贈ったものはありません。反対に、ただ返済することの出来ない無限の借金をイエス様に負って戴いて来たのです。しかもイエス様が十字架の死という犠牲を払ってまで、私の人生の借金を支払って下さったのです。そのお陰で、私は死刑にもあわないし、無期懲役にあうこともなかったのです。それ以上にイエス様は多くの人を通して、私を今日まで伝道者として曲がりなりにも歩ませて下さいました。感謝あるのみです。皆様は如何ですか。

 V 私たちに出来るもの;博士たちの贈り物で最も大いなるものは星に従ったことではないでしょうか。即ち神に従ったことでしょう。私たちは何を携えてベツレヘムに来ることが出来るのでしょうか。キリストに借金を負わせたままである私たちが出来るものは何でしょうか。それはただキリストの言葉を聞いて従うことです。パウロの言葉によりますと、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしたちのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙220節)。むすび;クリスマスに、私たちはみ言葉を聞き、信じ、悔い改め、そして祈りましょう。それが私たちのなしうることではないでしょうか。そしてベツレヘムの馬小屋は私たちの心にあります。



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12月第3週

2004年 12月 19日
説教者 松山尚貴兄
説教題 「救い主が生まれた」
聖 書 ルカによる福音書 2章 8−20節

 とかくクリスチャンは、清貧を旨とし、この世の楽しみから離れて生きる人々であると思われているようです。しかし、伝道5:18−19は語ります。(新改訳)「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に、神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」要するに、働いて飲んで食べて生活を楽しむことが人生であるということでしょうか。

 数量的違いはあるでしょうが、誰にでも「富と財宝」が与えられていると聖書は語ります。そして、恵みを受け入れ、労苦を喜ぶようにされていると告げています。しかし、問題は、この恵みに気付けるかどうかです。これに気付くための必要十分条件が信仰です。

 今朝のテキストに登場する羊飼いは貧しく厳しい労働に従事する日々を送っていました。しかし、忠実に日々の営みに従事していたようです。その日も、彼らにとっては、いつもと変わらぬ普通の一日でした。神の栄光は、平凡な毎日の中で証されるのかも知れません。

 彼らの前に「主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照し」ました。かつて幕屋が建てられた時、主の栄光が幕屋に満ち、モーセが会見の天幕に入れませんでした(出エジプト40:34−35)。主にまみえてモーセが恐れたように羊飼いも恐れたのでしょう。今はキリストの仲介により私達は神に近付くことが出来ます。しかし、旧約時代は、特定の人を除いて神に近付くことは許されませんでした。それは死に到る体験でした。恐れおののく羊飼いは恵み深い神の言葉を耳にします。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2:10−11)。

 この出来事は、羊飼いの心の体験ではありません。誰もが見られる状況の中で起こった出来事です。しかし、実際にこの出来事を見たのは彼らだけでした。彼らは直ちにベツレヘムに行き、御使の言葉通り「飼葉おけに寝かしてある幼子」を確認しました。そして「見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんび」しました。神をあがめ、さんびできる人ほど人生を楽しめる人ではないでしょうか。

 私達に与えられる喜びの根拠は、観念的なもの、精神的なもの、形而上的なものではありません。それは実体であり事実です。それは「初めからあったもの」であり、クリスチャンが「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(1ヨハネ1:1)です。

 では、何故、この喜びの根拠を獲得できる人とできない人がいるのでしょう?ルカ2:18が暗示しています。「人々はみな、羊飼いたちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。」羊飼いは、事実を見なくとも神の言葉を聞いただけで行動しました。一方、人々は事実を聞いても行動しようとせず、不思議に思っただけです。ここに違いがあります。

 聖書は伝説ではありません。聖書を事実と認め行動し、喜べる人になりたいものです。


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12月第4週

2004年 12月 26日
説教者 松山尚貴兄
説教題 「契約の民」
聖 書 エペソ人への手紙 2章 11−13節

 日曜日毎にキリストを礼拝するのは、約4千年前の神とアブラハムとの契約が成就した姿です。創世記17:5には次のようにあります。(新改訳)「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」これは、それから約2千年後にキリストの十字架によって成就する教会の誕生を約束した言葉です。私達とアブラハムとの間には、もちろん血縁関係はありません。しかし、私達はキリストにあってアブラハムの子孫です。国籍や人種の違いがあっても、キリストを信じ、信仰を告白してバプテスマを受け、教会につながってキリストを礼拝しているだけで、誰でもキリストにあってアブラハムの子孫です。これは、キリストの血によって立てられた神と人との契約です。教会とは、キリストにあってアブラハムの子孫とされた人々が集まってイエス・キリストを礼拝する群れのことを言います。

 今から約2千年前、パウロの宣教によって悔い改めたエペソのキリスト信徒も、アブラハムとは血縁関係のない人々でした。エペソは、小アジア(現トルコ)西部のエーゲ海沿いにあった人口30万の大都市ですが、パウロの一行がやって来るまで人々は女神アルテミスを拝んでいました。そこにパウロ伝道隊がやって来てキリストを宣べ伝えるや、人々はこぞってアルテミス信仰を捨て、悔い改めてキリストを信仰するようになりました。

 一方、ユダヤ人は、アブラハム、イサク、ヤコブ以来の純潔を守って来た人々です。彼らには、自分達は神に愛され、選ばれ、契約によって神と結ばれている神の選民であるという誇りがありました。ユダヤ人にとって、エペソの人々のような、イスラエルの血統もなく、神との契約と無縁の割礼なき異邦人は、神の祝福の外に置かれた卑しい人々でした。

 イエスでさえ、地上の公生涯の中で異邦人を差別しています。たとえば、カナンの女との問答がマタイ15:21−28にあります。カナンの女が出て来て、イエスに叫び続けます。「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」イエスは彼女を冷たくあしらいます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。しかし、彼女は、イエスに食い下がります。「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。すると、イエスは言いました。「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。

 ローマ2:29は語ります。「。。。。。文字によらず、霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神からくるものである。」この御言葉の注解らしき聖句がヨハネ1:12−13ではないでしょうか。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によってのみ生まれたのである。」

 キリスト者は、キリストの血による神の契約の民です。それは、私達が神から生まれた神の子であるという意味です。私達はアブラハムと神の約束の恵みにあずかる者なのです。


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