EL VIAJE EN BOLIVIA

はじめに

 

 1997年3月、私のアルゼンチン暮らしも1年になりました。

 ちょうどその一ヶ月前の1月、以前より一度は見てみたいと思っていた「オルーロのカーニバル」に行くことを決め、2月3日にブエノスアイレスを出発して約ひと月ほどボリビアをひとり、旅行してきました。

 オルーロをはじめ各地で様々な人と出会い、また思いがけず色々な体験をすることも出来ました。

 今、その一ヶ月間を振り返って、これからお話ししたいと思います。

 

 では、フォルクローレの故郷に向かって出発です!

 

 

〈第一部〉めざすオルーロへ

 

 ブエノスアイレスから長距離バスでフフイを経由し国境の町ラ・キアカまではおよそ35時間、そしてボリビア側へ入ってビジャソンという町から列車でオルーロに到着するまで、通算3日かかりました。

 これはハッキリ言って「しんどかった!」の一言です。

 列車もこの時期、週一便の寝台車は全く空きが無く、故に予約もできなかったため、その日に来た便に乗るしかありませんでした。

しかも切符はバラック小屋同然の駅の窓口では販売しておらず、周辺に座り込んでいる、いわゆるダフ屋のおばちゃん達から買い求めることとなりました。値段を尋ねると、なんと通常の3倍の値段を言ってきたので、交渉してなんとか値下げしたものの、あらかじめ聞いていた金額よりはるかに多く支払う結果となって、旅の始めからツイてないなあとため息が出ました。

更に問題が発生。

買った切符には名前が記入されていて、車掌は、「その名前の本人しか乗れない」と言って突き返してきたのです。

慌てておばちゃんを探しました。標高が既に1800Mの高地です。小走りするのも大変な状況で、寝不足の頭がガンガンし始めましたが、それどころではなく、もうとにかく夢中で探しました。リュックを駅に置いていくわけにもいかず、しょったままで、です。

おばちゃんは家路の途中で、連れていた子供を道端でちょうど用足しさせているところでした。

私は大声で呼び止め、切符のことを伝えると、素知らぬ顔で「ああ」と一言。

それを聞いてむかっとしましたが、なるべく気持ちを抑えつつ、

「ねえ、頼むから一緒に駅に行って、車掌さんに説明してよ」

と言いました。

ところが彼女は

「イヤだよ。なんでそんなことしないといけないんだい?」

「・・・・・」

 言葉を失った私は思わず、

「来なさい!!じゃなければお金返して!返さないなら人を呼ぶわよ!」

 

 そうして半ば、おばちゃんの手を引っ張るようにして駅へ向かい、説明をしてもらって、ようやく遅れて到着してきたその列車に乗り込むことが出来たのでした。

 

たまたまその日の列車は超鈍行。しかも通路まで人が溢れているほどの大混雑!頭上にはカゴに入ったニワトリが鎮座し、通路には、置かれた荷物の上に人が座って更に手には荷物を持っているような状態です。

4人掛けのボックス席のはずが、なぜか6人座りと化していました。

 丸一昼夜トイレにも立てず食堂車両にも行けず・・・しかたなく窓の外で列車が止まる度にものを売りに来るチョリータたちからパンを買いヤギのチーズを買い(これがエラくしょっぱいのだ!)、夜を凌いでいました。なるべく水分は避けるようにして・・・。

 夜中の3時頃にウユニ(標高4000メートルの地点)に着いたときの寒いこと!!

せっかく寝袋を持っていったにも拘わらず、あまりに狭くて使えなかったのが悲しかったの何の。何しろボックス席に子供も含めて7人が座っているのですから広げられるはずもありません。

憧れの列車での旅は、もう(鈍行だけは絶対に)やめよう!という誓いに変わってしまいました。

 

 朝日が射してきて、寝不足の目をこすりながら窓の外を見ると、アンデスの山々の向こうから鳥の群が飛んできて列車の上を横切っていきました。

 太陽が高くなるにつれ車内の気温も上昇し、窓を開けると心地よい風が入ってきました。

 あと数時間で着くんだ、と思うともう気持ちはオルーロに飛んでいました。

 

 午後2時30分、オルーロ駅に到着。

 長時間同じ姿勢で座り続けたせいか体中が痛く、それでも我慢して、私にしては大きなリュックを背負いながらヨロヨロとした足どりでタクシーに乗り込み、行き先を告げました。

 今回は友人のハビエルの家にお世話になることになりました。

 昨年、ブエノスアイレスのボリビア人街で行われた La Virgen de la Copacabana(聖母コパカバーナ)の祭りを見に行った際、偶然知り合ったのですが、彼はオルーロの出身で大学を出た後ブエノスへ出てきて、今はシステム・アナリストとして働いているそうで、我がダンナ様とは仕事上共通するところもあり何やら話が合ってしまい、以来仲良しになりました。

 今年に入って「オルーロのカーニバルが見たい!」という思いが一気に高まり、彼にホテルの状況などを尋ねたところ、この時期は一年中で最も人が集まる時期だから今からの予約は難しい、と言う返事でした。が、即、自分は帰省しないけど、家族は皆帰っているから、家に滞在してもOKだよ、とあまりに突然で且つありがたいお誘いを受け、早速彼のお母さんに連絡し、一週間ほどの滞在をお願いしました。

 

 というわけで伺った住所を頼りにオルーロへと辿り着きました。

 

 さて、彼の家は書いて貰った地図どおり小高い丘の上にありました。

 タクシーはその下までしか行っては来れず、限りなく「崖」に近いその丘を仕方なく自分の足で登りましたが、空気の薄いことに我慢してきた高山病による頭痛が拍車をかけ、ゼーゼーと息を切らせつつ、ようやく玄関へ。 が、ブザーを何度押しても返事無し。

 よって外で待つことになりました。

 

それからおよそ2時間ほどして家族の一人が戻ってきて、驚いた様子で迎えてくれました。皆、私が翌日に到着すると思っていたのだそうです。正直、自分でもいつオルーロに着くのか、ブエノスを発つ時は全くわからなかったので、たどり着くまでの経緯を話すと、笑いながら

「それはラッキーだったね」

と答えが返ってきました。

「ラッキーねぇ・・・」

 と、内心ちょっと複雑な気分でしたが、とりあえず何とかやって来られたし、ま、いっかぁと思うことにしました。

 

 

〈第二部〉 思いがけぬ出来事

 

 その日のうちに私はとある人の家に電話をかけてみました。

 リディアという名のアルゼンチン女性で、彼女とはやはりブエノスのボリビア人の祭りで知り合い、その後も何度か一緒にイベントを訪れたりして親しくなり、今回も彼女はカーニバル参加のためにオルーロの知人宅に滞在すると言って「もし来るなら連絡を」と電話番号を置いていってくれたのです。

 電話をかけてみるとリディアのビックリしたような声が聞こえてきました。

 まさか本当に、しかも一人で来るとは想像していなかったそうで、でも同時に予想外の訪問を喜んでくれ、早速家にやって来てくれました。

 

久しぶりの再会に彼女も私も大いに話に花が咲いて、しばらくの間はお互いの出来事などが中心でしたが、話題がカーニバルに移ると、突然

「そうだ。今日は踊りの練習に連れていこうと思っていたのよ。踊るでしょう?」

と尋ねてきました。

私はびっくりして

「ええっっ?!今からで踊れるの?」

と聞き返すと、まずは一緒に行って、参加したい旨を伝えよう。きっと大丈夫だから、とウィンクをして見せるのです。

以前、彼女自身から聞いた話カーニバルに参加するためには遅くとも一ヶ月前にはオルーロ入りして準備などをしないと間に合わないという事だったし、本人も1月末にはブエノスを出発していたので、

「ほんとに出来るのかなぁ」

と、半信半疑なまま、でもちょっぴり期待を抱えて練習場所へ行ってみることになりました。

 

 2月のオルーロはちょうど雨期にあたり、一日に一度は雨が降るそうですが、今年は特にボリビア全土で雨量が多く、雹も珍しくないようでした。おまけに日中はともかく夕方からは急激に気温も下がり、この日も家を出ると昼間、外で家族を待っていた時とはうって変わって寒くなっていたので、二人共寒さに肩をすくめながら、電灯のまばらな暗い夜道を急ぎ足で歩きました。

 

 20分程歩いて、練習場所のある通りの一角に着きました。

 家の外ではすでに練習が始まっています。通りに向かって大きなスピーカーが並べられており、これまた凄いボリュームでシクリアーダのメロディーが流れていました。

 入り口でリディアの紹介を受けつつ挨拶を交わしながら中にはいると、ガランとした部屋の壁中に、ここ数年踊った際に写したらしき写真がいくつも貼られているのが目に飛び込んできました。そして中央に手書きで「LA HISTORIA DE NUESTRO GRUPO DE KANTUS"CHARSANI"」とありました。側の長椅子の上にはボンボなど数種類の打楽器をはじめ、長さ、管の本数の異なるサンポーニャが山積みされていて、それらを見ているだけでも、本番での力強いシクリアーダの大合奏がイメージできるというものでした。

 天井からは裸電球が一つ下がっているだけで、床も石畳もままで使われていて、非常に質素な印象を受けます。

 

 間もなくグループのプレジデンテ(代表者)が姿を現し、一旦練習は中断され、全員が中に入ってきました。手短に今日の練習についてと参加費用についての説明があり(去年より多少値上がりしたらしい)、その間じゅう一人一人全員にコカの葉が配られ、受け取る側は皆両手を差し出しているので、私もそれに倣いコカの葉を受け取りました。

 それを口に含みながら話に耳を傾けていると、

「日本から我々のグループに参加しに来た子がいる」

 と、唐突に自分の事が持ち出されたので、慌てて立ち上がり、簡単に自己紹介をして参加したい意志を伝えると、驚くほど気持ちよく了解してくれました。おそらく事前にリディアが話しておいてくれたのでしょうが、突然訪問してきた外国人の自分を受け入れてくれたことに懐の広さを感じ、ただただ感謝の気持ちを述べるばかりでした。

 

 

〈第三部〉オルーロの人々

 

 さて、踊ることが決まったので、翌日からは当日必要な物を揃えるためにメルカード(市場)を歩き回りました。オルーロの町は、家のある丘から見渡せてしまうほどの大きさですが、いざ歩いてみると、坂道などもあって結構これがタイヘンなのです!

 それに前日は嬉しくてすっかり忘れていた高山病の名残が急ぎたい気持ちにいつもブレーキを掛けるが如く邪魔をして、思うようにいきません。何しろ日にちがもう限られているのです。 

 家族の人達はそんな自分に「慌てない、慌てない」と一休さんのような言葉を掛け、必要なことがあれば何でも言いなさい、と気遣ってくれました。また、ちょうどスクレからお母さんの妹の家族がカーニバル見物に来ていたので、午前中は一緒にソカボン寺院に行ったり、メルカード(この時は食料品や電気製品などを見に)行ったりと、オルーロの人々の生活を肌で感じる良い機会をも持ちました。

 寺院について触れると、オルーロ一体に点在する鉱山全体の守護聖母であり引いてはオルーロの町の守り神でもある La Virgen del Socavo'n が奉られている場所で、1965年に現在の寺院が出来たといいます。一六世紀の中頃、この辺り一帯から大量の鉱物=富が見つかったのを機に古くからの言い伝え(伝説)が再確認され、階層を問わず全ての人々に信仰が広まったそうです。そして感謝の意を表す手段として「一年に一度何千何万もの人々が踊ることによって聖地を巡礼し、守護聖母のもとまでたどり着くこと」となりました。それがこのカーニバルのはじまりです。

 地下には実際に使用されていた鉱山への入り口とその付近が、現在は博物館として見学でき、突き当たりには鉱夫らの安全を守る「 ティオ」という名の神様 が置かれていました。紙テープで装飾され、口にタバコをくわえたティオの周囲は、コカの葉が堆く積まれ、いかに現在でも多くの鉱山労働に従事する人々がそこを訪れ、敬意を払うかがうかがえました。

 

 午後からは再びメルカードへ。

今度は帽子、アワーヨ(マントのように使用するインディヘナ独特の織物)などを探し求め、地元の女性に案内して貰いながら進みました。一人で歩いたら迷ってしまいそうなくらい入り組んでいて、それにスリも多いという話でしたので、極力荷物は持たず、気を抜かないように気を付けながらです。

 

 夜になって昨日の練習場所へ向かいました。

 9時半を廻ったところでほぼ全員が集まり、これから当日踊る距離の半分を実際進んでみる、ということに決まりました。昨夜のうちに基本のステップとフォームは教わっていたので(それ自体は比較的単純なものだった。要はいかにシクリアーダのリズムにのせてそれらしい雰囲気を出せるか、が大事)それぞれペアを組んで列を作り、音楽と共にスタートしました。

 他にもたくさんのグループが通りで練習に励んでいましたが、その多くが金管楽器を使用するバンダ(バンド)だったため音量も大きく、そのためそちらのリズムに思わず釣られてしまう、なんていうこともありました。

 KANTUS の踊りそのものはゆったりとして、他に比べて踊りやすいように感じます。が、やはりやってみると息は切れるし、ターンも多いので目も廻り、ついでに坂道を行くときといったら、もうついて行くだけで精一杯!

 ヘロヘロになった体を引きずっての帰り道、当日に幾ばくかの不安(心配)を覚えながらも、せっかくのチャンスだから、がんばらなくっちゃ!と思い直し、家路を急ぎました。

 

心配の一つが的中してしまったのは、その翌日。

朝から頭がぼーっとしていまひとつすっきりしないにも拘わらず、今日も又メルカードでアバルカ(古タイヤで作ったサンダル)と他にも幾つか探すものがあったため、歩き回らねばなりませんでした。

 アバルカはメルカードの中でも最もはずれに位置した、ひともあまりいないような所で売られており、数人のチョリータが地べたに木箱を並べ、古タイヤを削ってサンダルに仕立てていました。地面は数日来の大雨でぬかるんでいて歩きにくく、ようやくたどり着いたところで、リディアがそのうちのひとりにアバルカを注文しました。

 チョリータは私にサイズを尋ね、それに答えると積まれたアバルカの一組を差し出し、それがピッタリと合うまで何度も何度も釘を抜いては手直ししてくれるのです。

そして出来上がったところで値段を聞くと、4.50ボリビアーノスを、あなた(リディア)も買ってくれたから、と4ちょうどにしてくれるというのです。一ドルが約5ボリビアーノスで市販のサンダルが15から20することを考えても、いかに彼女がそれを安値で提供しようとしてくれているかがわかりました(たとえそれが古びたタイヤで作られているとわかっていても、です)。

それを聞いて、いわれるままの金額で本当にいいのだろうかと瞬間、考えましたが、傍らでそれを察したのか、リディアが私の方を向いてゆっくりとうなずきました。

「彼女の好意として受けていいのよ」と。

 

 言われるままに支払いを済ませ、お礼を述べ帰ろうとすると、

「お嬢さん、元気でね!」

と、そのチョリータは笑顔で見送ってくれました。私の中はなんだかもう、とにかく複雑な思いで一杯となってしまいました。

というのは、KANTUS などというアンデスの伝統曲でインディヘナの踊りを始めたせいか、現実を目の当たりにしたせいか一体このカーニバルは誰のためのものなのか、本来は彼らインディヘナ達のためにこそあるものなのではないか、などと今まで取り立てて考えてこなかった様なことが一気に頭を駆けめぐってしまったのです。殊にメルカードへ足を運ぶようになってから、常にそんな思いを抱き続けていました。

 

次第に空が暗くなり気温も下がって、今度は練習へ向かおう、という時に、朝方からの気だるさが寒気に変わり、急にゾクゾクとしてきて、立っていられないほど気分が悪くなってしまいました。

練習への参加を諦めて帰宅し、即、部屋に戻って横になると、とたんに涙が出てきて、自分でもどうしたらいいのかわからない状態でした。

心配して部屋を覗きに来てくれた家族の人達にも、寒気がするということの他に説明の仕様が無くじっとしていると、暫くして一番上のおねえさんを訪問先の友人宅から呼び戻し(彼女は小児科医)、自分達は薬とコカ茶を用意してくれ「心配しないで」と代わる代わる声を掛けてくれるのです。

こんなにしてくれる人達に迷惑を掛けて申し訳ない思いで

「ごめんなさい」

と、一言告げるとまた涙が出てきたので、ベッドに潜りこみ黙っていると、

「家族なんだからね」

という優しい響きが耳にそっと入ってきました。

 

 その晩は余りよく眠ることは出来ませんでしたが、不思議と気持ちは落ちついていました。優しい心にたくさん出会ったからでしょうか・・・。

 

 

 〈第四部〉パチャママへの祈り

 

翌朝は随分具合も良くなり、昼過ぎまでゆっくりした後、少し早めに練習場所へ行きました。明日が本番だったので、そこはもういても立ってもいられず・・。

それにこの日はグループのセレモニー(儀式)をすることになっていて、その準備を見たい気持ちもありました。

けれど別段、大げさな準備をすることもなく、皆で食べるシチューを作るからと、そちらの準備に廻ることになりました。

 

 シチューには、肉、野菜、豆類の他にアンデスの特産のチューニョやキヌア、一粒が親指の爪ほどの大きさもあるとうもろこしを使います。チューニョについては、家のお母さんから「とにかく良く洗うこと」と教わったので、言葉通りしっかりと水が濁らなくなるまでごしごしと洗いました。

 

 こうした作業は男性も皆参加し、手伝っていました。私の衣裳を作ってくれたのも実は男性で、家を訪ねると古い型のミシンを使って縫っていたのに驚きました。ここでは縫製業に従事している一家の主もめずらしくなく、むしろ大勢いるそうです。

 

 食事の支度も整い、人も揃ったところで、いよいよセレモニーの開始。

 まず、開会(?)の挨拶があり、ついでプレジデンテの言葉。これは半分以上言っていることが私には分からず、後で聞いた話では、インカの昔からの言い伝えや戒めの言葉を述べていたそうで、ケチュア語も混ざっていました。

 その後、メンバーのうちの二人によって何やら紙に乗せたものが大事そうに運ばれてきました。

 彼らはそれを古いアワーヨを下に敷く形で床の中央に置き、我々はそれを取り囲むように円を作りました。覗いてみると、紙の上には彫り物を施した薄くて白い石のようなものが一二個、円を描いて並んでおり、その中央部にリャマの毛、タバコ、紙吹雪、クラッカー、何か木の枝、カエルとリャマを型どった石二つ、何かの実などが置かれていました。

暫くしてプレジデンテによってコカの葉が一人一人に配られ、前に倣って両手のひらで受け取ると、その内数人が歩み出てコカの葉を白い石の上に置き始めました。

おそらく大地の神パチャママへの捧げものであろうと想像はするものの、それ以上に意味は分からずじっと見守っていると、小さな瓶を手にした男性が中央に近づき、跪いてその「捧げもの」の四隅に小瓶の中身を少しだけこぼし、最後に中央にこぼすとすっと立ち上がりました。

そして周囲をひと見渡しして

!Jallalla Pachamama,jallalla Tatainti,jallalla mis companeros!

と叫び、自らもその小瓶を口に含みました。

そうしてプレジデンテが呼ぶ名に応じて次の人間が歩み寄り、同じ行為を繰り返すのです。

自分はと言えば、何か太古の昔の儀式でも見ているような、とてつもなく不思議な空間に身を置いているような気持ちと、この様子をしっかりと脳に刻んでおきたいという二つの感覚の中でこれら一通りのセレモニーを見守っていた、そんな気がします。

 

やがて自分の名も呼ばれたので、中央に近づき、皆がしたように跪き、同じように四隅にこぼした後、「!     !」とだけ唱えて小瓶を口にしました。

が、瞬間、強烈な刺激が鼻と唇に伝わり、危うく瓶を落としそうになりました。この時初めて小瓶の中身がエチルアルコールであることを知ったのです。とても飲めたものではありませんでしたが、暗い鉱山の中で鉱夫達はきっと日々の労働の疲れをコカの葉と共にこれで癒しているのでしょう。

昨年ポトシの鉱山を訪れたときのことを思い浮かべ、鉱山の入り口近くの売店で売られていた粗末なプラスチック容器の中身が、まさしくこのアルコールだったのだと、その時身を持って知りました。

 

集まった全ての人によって一通りが終わると、最後にプレジデンテが近づき、置かれた一個の石に対して言葉をそれぞれ述べると、先ほど運んできたのと同じ人々が今度はそれを家の外に持ち出し、「誰も外へは出ないように」と静かに言い残して暗闇へ消えました。

その間、皆、談話はしても誰も言われた通り外へ行く者はいませんでした。

「今、外では何が行われているの?」

と、私が尋ねると、隣に座っていた少年が

「燃やしているのさ」

と、つぶやき、

「願いがとどくようにね」と一言付け足しました。

 

 10分くらい経って、外にいた人々が戻ってきました。

 そして無事、我々の祈りと願いをパチャママに伝えることが出来たと告げると、それまでのやや緊張した雰囲気が解け、安堵に似た表情がうかがえました。

 さてそこからは一転してフィエスタ(パーティー)のムード一色です。

前もって皆で用意したシチューを皿によそり、ちょっぴり辛いチキンを大きなボールから各自が一つづつ取って頬張り、BGMはやっぱりシクリアーダ・・・かと思ったらとんでもない!今、ボリビアで大流行のクンビア(熱帯カリブ系のテンポの早いダンス・ミュージック)がガンガン流れてくるではありませんか。

 普段は比較的ゆっくりと食事をする彼らが、このときばかりはあまり味わうふうでもなく、どちらかといえばかきこむかんじで食事を終えると「さあ、踊ろう!」ときたもんです。彼らはもうひとつチキンを食べたい私の気持ちをよそに、所狭しと踊る中に引き込んでいきました。

 面白いと思ったのは、延々とクンビアを踊るのかと思えば、ひっくり返したカセットのB面がモレナーダ(後述)だったりウァイニョ・ポトシーノ(ボリビアのポトシ地方独自のリズム)だったりで、しかもその度ちゃんと踊り方も変えるので、思わず感心してしまいました。(こののち幾つものフィエスタに行きましたが、みーんなこのパターンだったのにはビックリでした。このスタイルが今最もお洒落なのかも!)

 

 そうして次第に夜は更け、12時を少し回ったところでお開きとなりました。

 リディアと私は酔っぱらってふらふらになりながら、いつものように中央広場まで歩き、ベンチに腰掛けて一息つきました。

 見上げると夜空に星が無数に輝いていて、明日の晴天を約束しているかのようでした。

 

 オルーロに到着してこの日で4日目。けれどその間にいろんな事がありすぎて、もっと前からここにいるような錯覚がありました。

 ・・・明日はどんな日になるんだろう。

 夜が明けるといよいよカルナバル開始です。   

 

 

〈第五部〉カルナバル・エン・オルーロ (前編)

 

 2月8日土曜日。

 期待通り、朝から抜けるような青空が広がっていました。

 家の人達は普段から早起きですが、この日は更に早くから起きあがり、お昼のお弁当の支度に取りかかっていました。丸いパン、しょっぱいチーズ、ハム、茹でたとうもろこし、チュキサカ風鶏の唐揚げ、サラダなどなど盛りだくさんです。

 私も自分の衣裳一式と、その夜はリディアの家に泊まることになっていたので、簡単な着替えをリュックに詰め、それが終わってから食事の手伝いをしようと台所に行くと、

「あなたはいいから、踊りの練習をしなさい。ほら、ちょうどラジオからシクリアーダが流れているじゃない!」

と言って居間へ追いやられてしまいました。

そこでちょっとの間ステップの復習をし、あとはあの距離を何とか踊りきれるかな・・・と考えていると程なく支度を終えたとの合図があり、皆で朝食をとった後、広場へと向かいました。

その時の荷物の多いこと!まるでどこかへピクニックへでも行くかのようでした。

 大型のクーラーボックス(中身はビールとコカコーラ、それになぜか袋詰めの氷が入っていた)に大きな袋が二つ、ビニールシートとレインコート(?)、そしてカメラ。

 「何故レインコートなの?」と尋ねると、その答えが家を出て数分後に帰ってきました。

 

 なんとこの日は別名「水かけの日」と言うそうで、大人も子供もみなあちらこちらから水鉄砲やら水風船を相手構わず投げつけてくるのです。時には水の入ったバケツを窓から通りがかりの人に掛けたり、もう腹が立つと言うよりそれらを避けて歩くだけで精一杯!でした。

 

 広場近くの見物者用に並べられた階段状の座席はまだガランとしていて、6段あるうちの一番上とその下の両段に家族あわせて8人が座り、両脇に荷物を置いてしばらくはゆったりとしながら最初のグループの到着を待ちました。

 

 10時30分を回った頃、ディアブラーダ(悪魔の踊りと一般的に呼ばれる。ディアブロはアンデス独自の宗教観に基づいた地下の世界より現れ、鉱夫らに対し癒しと希望をもたらすものと考えられ、またソカボン神への敬意と畏怖を表す手段としてディアブロに扮し踊りを捧げると言われている。オルーロを代表するもの)の一団が広場へとやってきました。

 先頭の3人がグループの名を刻んだ大きな旗(というか幕?)を持ち、続いてディアブロの衣裳を身にまとい、恐ろしいと言うよりはややコミカルな表情の仮面を付けた総勢100人の踊り手が一斉にバンダに合わせて入場してくるその様子は圧巻でした。

 時には煙幕と共に行進し「おおーっ」と叫んでみたり、以前日本で見たカルナバルの映像と同じ姿がここに繰り広げられていました。

初めのうちはまばらに到着していたグループも次第に連続して行進するようになり、モレナーダ(かつて労働力としてアフリカから連れてこられた人々を模して作られたという踊りで、奴隷達が足に付けた鉄の鎖を引きずる音がそのリズムの基となっている。オルーロが発祥の地だと言う。)の300人近いグループが到着したときなどは、誰もが立ち上がってしまうほど熱気と興奮に包まれました。

その頃、見物席はもう満席で足の踏み場もないほど人、人、人でうめつくされ、持ってきた荷物は膝に乗せなくてはならない状態でした。

 また、反対側の席からはひっきりなしに水が飛んできて、1時間もすると全身ずぶぬれという有り様。負けじとこちらも水鉄砲と泡の出るスプレーを買い込み、必死で反撃!!

一時は見物どころではない大騒ぎとなったのでした。

 

 

お昼を過ぎた辺りで食事をとり、それからしばらくして私は準備のために移動することになりました。

一旦グループの人の家に行って着替え、髪を編んで貰い、その間白黒テレビでカルナバルの模様を中継していたので見ていると、アナウンスで六グループの出発が遅れていることを知りました。

我々の出発が大体7時で、その前にいつもの場所に集まり全員で移動、と言う話でしたが、案の定というか、2時間近い遅れが見込まれたため、全てが整ったところでその家の家族と4人でパンとお茶を飲んで待つことになりました。こんなことなら広場でもっと見ていたかったのに・・・といささか不満を感じましたが、引き返したとしても出発地点である鉄道駅は広場から遠く、また人もいつもに増して多いため、外が暗くなってからではグループを捜すのも厄介かな、と思い引き続き古ぼけたテレビから流れる映像を見続けました。

見物客は更に増えたようで、画面からは通りの両側に所狭しと人が各々のスタイルで座り、テーブルを持ってきてビールを飲んでいる姿が映し出され、この先何時間でも粘れるぞ、と聞こえてきそうなくつろいだ雰囲気でした。

 見物席は場所によって値段も様々で、広場から終点のソカボン寺院の少し手前までが比較的高めで立地も良く、反対に出発地点のあたりから線路沿いの未舗装で埃だらけの場所は安く、椅子も粗末なものでした。

 地元のインディヘナたちはそのどちらも持っておらず、自分の小さな店の前に椅子を出し座る者、地べたに敷物を敷いて座る者、ただ遠くからじっと見ている者、そして風船やアイスキャンディーを売り歩く者のどれかでした。

 

早起きしたためか眠気が襲ってきて、ベッドのはしに座って壁により掛かっていると、「そろそろ行きましょう!」と声がかかったので「いよいよだ!」とはりきって外へ出たのですが、なんと雨が降っているではありませんか!

しばし呆然と空を眺め、続いて妙に悔しい気がしてきてぶうっとしていた私に「大丈夫よ。踊り始める頃にはきっと止むから」と根拠のない天気予報で慰められ、小型の市内バスに乗ろうと道に出ました。

 

 ところが丘の上にあるその家の前は滝のように上から下へ向かって水が激しく流れ、バスの所まで行き着けないのです。仕方なく足下がびしょびしょになる覚悟で水の中をジャバジャバと進み、道の真ん中でバスを待ちました。履いていた羊毛の靴下は既にずぶぬれで、夕暮れと共に気温も下がるため段々と冷たくなってきました。

 待つこと15分、ようやくバスが来たので乗り込み、いつもの場所へは行かずそのまま出発地点へと向かいました。

 

 鉄道駅の周辺は人でごったがえしていて、誰が何処にいるのかわかりません。

 雨のせいで益々遅れているのが一目でわかり、丈の短いスカートを履いた女性達は寒さで震えていました。衣裳とはいえ、過酷にさえ思われる光景です。

 人をかき分けようやくグループを見つけました。しかし出発はまだまだ先のよう。

 こうも待たされると疲ればかり出て、誰もが雨の中うつむいて突っ立ったまま口数も少なでした。中には一心にコカの葉を噛み、ぶつぶつと何かを呟いている人もいました。

 楽器は雨露で濡れ、必死にビニールを掛けている姿が何とも言えず哀れに見えました。

 みな、出番を待ちながら何を考えていたのでしょうか。

 

 

〈第六部〉 カルナバル・エン・オルーロ (後編)

 

時計の針が9時半を回ったその時、突然ボンボの音が力強く響き渡り、ようやく我らがGrupo Charsaniの出発を告げました。

待つことおよそ6時間!!誰もが晴れやかな笑顔を取り戻し、腰を伸ばす格好を互いに見せながら、ぞろぞろ前に進みました。

 背を丸めていた少年たちもそれぞれサンポーニャを手に颯爽と歩み始め、先頭の一団を築きました。雨はまだ止む気配を見せず、道は泥濘が一層ひどくなり、それこそ文字どおり「前途多難」の状態。

 私はと言えば新調した衣裳はずぶ濡れ、帽子に前の晩徹夜して縫いつけたインカの旗を表す七色のリボンはよれよれになって額近くに垂れ下がり、何とも哀しい出発でしたがメゲてはいられません!

 

 やがてシクリアーダのリズムに合わせてゆっくり踊り進み始めました。

 初めは線路に沿って一列を成し、お互いの手を取って両手を伸ばし、頭を横に倒して膝を折り曲げ、低くなった格好でぐるぐる回ります。

そののちペアで踊る者は左右にそれぞれ離れ、一人で踊る者を囲むように横に広がっていきます。

時にはサンポーニャ部隊を取り囲み、時には彼らを一度追い越し、再び戻ってまた進む、といったような練習中は殆ど行わなかった動きをしばしばやったため、私は何だか素直に楽しくなってきて自ずと笑顔も出てきました。

今回ペアの相手をしてくれるオマル少年は21才の非常に踊りの上手なオルレーニョ(オルーロ生まれの子)で、笑顔のカワイイ男の子でしたから、そのこともあって(?)益々楽しくなってきたのでした。

 

 ところで周囲の反応はというと、あちらこちらから「チニータ!」と声を掛けられたものでした。言葉の意味としては「中国人(の少女)」を指しますが、ここでは東洋人女性を指す総称的なニュアンスで使われており(尤も彼らの中には日本と中国をはっきり区別できない人もたくさんいて、ついでに韓国も中国の一部と信じているようでした)、見慣れない顔立ちの女の子が踊っている、と物珍しく彼らの目には映ったことでしょう。

 聞くところによると、ここ数年は外国からも参加を希望する人がいて、カルナバルが近くなるとオルーロにやってくるそうで、今回も数人の日本人を見かけたものでしたが、何しろ町の人口が普段の何倍にも膨れ上がるこの時期、人捜しも容易ではありません。

 

そうこうしているうちに雨が一段と強くなってきました。

もう前進するにもやっとで、鉄道のレールを右に左にと跨ぎながら、なるべく泥濘(ぬかるみ)の少ないところを探して進んでいると、前の方では他のグループがやはり前に進めずに、その場で踊っていました。

 見ると、女性は艶かしくも寒そうにすらっとした両足を雨に打たれるままに笑顔で踊っているではありませんか!

 彼らの後ろに控えているバンダも、(おそらくは一張羅の)スーツがずぶぬれになるのも構わず、その手を止めようとはしませんでした。

 

 こうなると観客達も大声を張り上げて応援をせざるを得ません。というより酔っぱらった勢いもあってか、ぞろぞろと道に繰り出して一緒に踊り出すのです。

 

段々と寒さで爪先の感覚が無くなり、冷たい空気を吸って肺がじんじんする中、ようやく全行程のほぼ半分に当たる町の中央広場までたどり着きました。

ここにもまだまだ観客は大勢残っており、ビールやコカコーラを持ってきては行進中の我々に振る舞ってくれます。ある人はコカの葉を両手に山盛りくれました。

 

 大衆の中に家族を捜していると、後ろから私を呼ぶ声がしたので、振り返ると、行きの列車で一緒だった少年が手を振っているではありませんか。たった数日前のことなのに何だか懐かしくて、こちらも歩み寄り、無事に家族と会えたことなどを伝え、しばらく一緒に踊りながら前進しました。

 

1ブロックほど進むと、今度は家族のうち、お姉さんのロスメリーと従姉妹のバレリアが追ってきて

「随分と遅かったのね」

と心配そうに声を掛けてくれたので、

「大丈夫よ」

 とだけ言ってまた列に戻りました。

 こんなに遅くまで寒いのに待っていてくれたことに感謝しつつ。

 

 ここからはソカボン教会に通じる坂を上る一途です。

 幸いにも雨がやや小振りになり、さっきから振る舞われているアルコールも入って顔が熱くなって、アバルカ(サンダル)で踵がすり切れた痛みもあまり感じなくなってきました(後で見たらひどい傷でしたが)。

シクリアーダの響きも一段と力強く、人垣で狭くなった坂道をリズムに乗せて踊りながら登りつめると、一瞬目の前が大きく開けました。四方からのライトに照らされたカンチャ(競技場のような場所)があり、前のグループがそこで観客の見守る中、最後の踊りを披露していました。

テレビ局のカメラもそこに来ていて、どうやら実況中継をしている様子。靄がかった夜空がここだけはひときわ明るく浮かび上がり、その下で我々も最後のKantusを披露したのでした。

 

 やがてソカボン寺院に入場する時が我々にも訪れました。

 被っていた帽子を脱ぎ、今までと打って変わるような静寂の広がる寺院をゆっくりと進みました。真紅のカーペットの上を跪きながら、です。

 中では神父様によるミサが行われていました。

 また高い天井には賛美歌が反響し、厳かな感じを一層引き立てていました。

 やがてグループの楽団がシクリアーダ風に賛美歌を奏で始めると、そのあまりの音色の美しさと神秘さに私は鳥肌が立つほどの感動を覚えました。

我々のグループが無事ビルヘンに踊りを捧げ、ここまでたどり着いたとの報告が神父様によって告げられた後、一人一人ビルヘンの御前に傅き、それぞれの思いを伝えると、誰しもが涙を流し始めました。 

 こうしてもう何百年もの間祈り続けてきたオルーロの人々の今日という日を目の当たりにできた幸せを私自身もしみじみと感じ、今一度、守護聖母の姿を眺め、教会を去りました。

 

長かった一日は最後のセレモニーを経てようやく終わりを迎えたのでした。

外ではまだ興奮の冷めやらぬ若者達が踊ったり飲んだりの大宴会を繰り広げ、おそらくは朝が訪れるまで延々続くことでしょう。

 

 一仕事を終えたかのように、私とそしてリディアはほっとして肩を抱き合って高台に立つ教会の麓からまばらなネオンの広がるオルーロの町を見下ろし、そしてその晩は、リディアの家族が待つ家に向かったのでした。  

 

 

〈第七部〉オルーロ万歳!

 

 翌、日曜日は昨日の雨が嘘のように朝から晴天が広がっていました。

 でも空模様に反して、私の気分はどんよりしていました。

 というのも、夕べは帰宅後すっかりずぶ濡れになった衣裳を乾かし、温かいシャワーを浴びて・・・と思っていたら何と水が全く流れません。

「さっきまであんなに雨が降ったのに、なんでぇ・・・」

と、まさしく泣きたい気持ちでしたが、このままではまたしても風邪を引くと思い直し、即着替えてベッドに飛び込んだのでした。が、足が冷え切っていて、ちっとも温かくならないのです。

 結局、寒さに震えながら一睡もできずに夜を明かすことに・・・。

 

翌日は幸いにも朝から気温も上がって、干して置いた衣裳は朝食後見ると瞬く間に乾いていました。

今日はまた昨日と同じコースを踊らなければなりません。心の中で

「どうか雨が降る前に踊り終えられますように!」

と、願わずにはいられませんでした。

 

 約束の時間は朝9時、鉄道駅を出発。

 どうやら昨日とは反対の順番で始まるようです。したがって我々が先頭から5番目。

 私は家を出る前にリディアと話して、少し時間を遅らせていかないかと相談をすると、

「そうね。今行ってもきっと誰もいないでしょうからね」

との返事。

 

 30分してから家を出て、およそ10時前に駅に着くと、案の定一人の姿も無し。

 他のグループも徐々に人は集まってきているものの、まだまだまばらで、これじゃあ今日もいったい何時に始まるんだか見当が付かないというものでした。

 

 待つこと2時間。

 やっと6、7人が眠たそうに目をこすりつつ現れました。

 陽は高くじりじりと顔に照りつけ、したくもないのに日焼けを強いられているかのようで、額を手のひらで庇(ひさし)を作りつつメンバー全員が揃うのを待ちました。

 周囲には朝っぱらからお酒を飲んで陽気になっている人もいれば、親しいもの同士集まって写真を取り合う姿などが見られます。

 

 かくいう私も、物珍しさから随分多くの人に「写真を撮ろう」と声を掛けられました。そしてそのあとは決まって「何処から来た」「オルーロは(日本でも)有名なのか」「カルナバルは気に入ったか」と聞いてくるのです。その度に同じ事を答え、ぬるいビールを振る舞われ、いい加減ゲンナリしていると、昨日と同様、突然のボンボの響きでスタートとなりました。

 

 空はすっきりと晴れ上がり気温も上昇しているために、踊り始めるとまもなく暑くなってきて、この時ばかりはウール製の衣裳が身にまとわりついてイヤになりました。夕べとのあまりの違いに思わず苦笑してしまうほど。

 

 道の両側にはどんどんと人が集まってきて、昨日よりも更に熱狂的(?)なムードに包まれていました。前から後ろからバンダの繰り出す音色が聞こえ、先頭を踊る人のホイッスルが響きわたります。日本の祭りで御輿を担ぐときの様子ととても良く似ていました(バンダはもとより音楽はありませんが)。

 この日は子供達が大人に混じって踊っていました。

 子供のディアブロ達が声を張り上げながら行進する姿はとてもかわいらしくて、周囲から大きな拍手が起こりました。我々のグループにも数人の子供達が参加し、大人と同じ衣裳を身にまとい、一生懸命踊っていました。

 

 自分はと言えば、次々とやってくる飛び入りの観客を相手に数ブロックを踊り歩き、パートナーのオマル少年はこれまた次々と一般の女の子と踊っていて、忘れた頃に元に戻る、と言う具合です。それでもこちらは楽しみながら行進し、観客の中に顔見知りを見つけては(たった一週間でも数人の知り合いはできたのです)手を振ったり投げキッス(!)を交わしたりと、お祭り気分を満喫したのでした。

 

 どのくらい踊った頃だったか、ふと観客席のはずれ(空間になっている場所)に目をやると、いつかのチョリータが立ってこちらを見ているのに気がつきました。

 この日のためにサンダルを作ってくれた、あの女性でした。そして子供達も何人かその側にいるのが見えました。

 あの時の彼女の言葉とそして笑顔が忘れられず、私は感謝の気持ちをこめて彼女に大きく手を振りました。気がついてくれたのでしょうか、彼女はえんじ色のショールの下から手を出し、少し恥ずかしそうに小さく手を振り返してくれました。

 

それ以上言葉を交わすこともなく、パレードの流れに乗って我々は前進しましたが、瞼にはいつまでもあの一瞬の場面が焼き付いていて、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じました。心の中で

「ありがとう!」

と呟きながら・・・。

 

 そうしてソカボン寺院が目前に現れてきました。

 寺院の周囲と近くの丘の斜面には星の数とでも形容したくなるほどの人人人!が集まっていました。オルーロ中の人を集めても未だ足りない位。みな、最後の行進を見ようと朝からあるいは前日からそこにいたのでしょうか。

 砂埃を巻き上げて各グループが近づいてくると大きな歓声と共に拍手が沸き起こります。

 今年何十周年かを迎えたグループが到着したときなどはもっと凄い喝采が起こったに違いありません。

 

 最後の場所が近づくにつれ、ようやくたどり着いたという安堵感と、これでついにカルナバルが終わってしまうのだという寂しさをひどく感じました。

 オルーロの人達が長い時間を掛けて準備し、一年間働いて稼いできたものをこのたった2日間のために費やしてしまう潔いまでに感動的なカルナバル。

 時代と共にその姿も変わり、観光化されつつあるとはいえ、彼らにとっては家族、親戚、友人が遠方からやって来て集い、ソカボンに一年が無事に過ぎたことを感謝し、供物を捧げ、そして自分達も酒を飲み、一晩中歌い踊りあかす、一年に一度の大切な日であることには変らないのだと確信しました。

 と同時に、宴に加わりたくても加われぬ人々もそこには居て、そうした彼らを外国人の感傷的な見解だけで捉えるには及ばないのだという厳しい現実さえも目の当たりにしてきたように思います。

 この数日間をオルーロの人々と接し、同じ時間を過ごしながら色々なことを感じたり考えたりした自分を振り返りました。そしてまた、ずっとずっと昔から憧れていたアンデスの大地でこうして今踊っていることが不思議にも思え、人と人との出会いが自分をここまで導いてくれたことに心から感謝したい気持ちでした。

 

 シクリアーダの大合奏は、その余韻を残しつつ空に消えていきました。

そうして,

!Jallalla Pachamama,Jallalla Tatainti!(母なる大地パチャママ万歳、父なる太陽 タタインティ万歳!)」

の一言を最後に、我々Grupo Charsaniはカルナバルの舞台から去っていったのでした。

 

 

 私がオルーロを後にしたのはそれから一週間後の月曜日でした。

 その間、それまでゆっくり話すことのなかった家族と話をしたり、早起きして教会のミサに行ったり、大学や博物館を尋ねたりなどしました。

 

中でも思い出深いのが、動物園を訪れた際にそこでリャマに餌をやろうと近づくと、その途端リャマがくしゃみをし、噛んでいた草が飛び散って髪の毛や着ていた服にべっとりついたこと。これにはびっくりしたやらクサいやら・・・。一緒に行ったハビエルの兄嫁さんと大笑いをしてしまいました。(彼女もこれは初体験だったそうで。)

 

 それから、オルーロの伝説が形となって残っている場所へ連れていってもらったときのこと。それは東西南北に渡ってそれぞれカエル、あり、大蛇、コンドルが位置し、中央にそびえ立つCorazon de Jesus(キリストの御心)から一望できるようになっていました。

 その中でカエル(Sapo)を奉ってある場所へ行ってみました。ずっと昔からオルーロで信仰され続けている守り神なのだそうです。

民家の真ん中に大きなカエルの形をした石があり、その周りは紙テープや紙吹雪で飾り付けられ、人々がビール、酒を振りまきながら祈りを捧げている姿がありました。

良く見ると,すぐとなりには別の石があり、同じように(でもより何重にも)紙テープ、紙吹雪が施されています。

実はこちらが本物で、ある時酒に酔ったスペイン人兵士がこの石に向かって発砲し破壊してしまったのだそうです。しかし人々のSapoに寄せる厚い信仰心から再び、新たに作りなおされ今に至っているとのこと。

側では数日前にグループのパチャママに捧げる儀式で見たばかりの様々な形をした白い石、薬草、紙吹雪などなどが粗末な紙の上に並べて売られていました。

 ここではインディヘナのおばちゃんにお断りして写真を撮らせていただきました。

この様子は日本でいう巣鴨の刺抜き地蔵尊に良く似ており、線香の替わりに爆竹やある種の草を燃やして祈りを捧げていました。

 

 同じ様子がその反対側の方角(南)にある大蛇(Bibora)の丘でも見られました。

これは数百メートルに及ぶ一連の岩で、緑の山肌にくっきりを姿を残していました。その胴体は三等分されており、伝説では、オルーロの町を悪い大蛇が襲ってきたので、ソカボンは怒って大蛇を頭と胴と尻尾に分断し、二度と動けないように石に変えてしまった、というものです。そして人々は大蛇の心を鎮めるため、カルナバルの一週間後の日曜日に毎年頭の部分の岩の下で火を焚き、供物や花、酒を持ち寄り、カルナバルが無事終わったこを感謝し、大蛇の御前で踊りを捧げます。ただしこの風習は現在では限られたグループあるいは一部の人達(主にはこのあたり一帯に暮らすインディヘナ)しか行わないのだそうで、町の若者達の間では忘れ去られつつあるようです。

我々のようにアウトクトナ系の音楽と踊りを行うグループはむろんこの行事に参加し、集まった少数の古の信仰を守り続ける人々と共に火を焚き、祈りを捧げました。

有り難いことに、リディアと私は以前カルナバル前日に行われた儀式で見ることを許されなかったその瞬間に立ち会うことを許され、ケチュア語の祈りの言葉を聞きながらじっと燃えさかる炎を見つめ、感動に涙が出てしまったほどでした。

 

この日は悪天候で、儀式の後間もなく大雨が降り、辺り一面は膝まで水が溢れ、帰りの道は完全に失われてしまいました。

ひとまず山から降り、平地までたどり着くと今度は川が氾濫していて、先に降りた人々と後から降りてきた人々とがまっぷたつに別れてしまったのです。

私は後者の方にいて一人ではないものの、恐怖で顔が青ざめました。また川の水は氷のように冷たく、一度足を踏み入れると足先の感覚が無くなり、また深くてそれ以上進むことができません。

 

すると,後方にいた男の人達が

「一人ずつ女性を背負って向こうへ渡ろう!」

,叫んでいるではありませんか!

その時ほど「男の人って強いんだ」と感じたことはありません。

すぐさま彼らはズボンの裾を捲り上げ、近くにいる女性から一人一人順に背負うとジャバジャバと溢れる水の中を向こう岸へと渡りはじめ、引き返してはまた運び・・・延々と続きました。

雨は一向に降り止む気配を見せず、それどころか、どんどんひどくなっていくばかりです。そうした作業が1時間以上も続きました。

 そして全員で歩いて町へたどり着き、その日のためにフィエスタ(パーティー)を企画してくれた人の家に行くと、ようやくほっとして笑顔が出たものでした。

着替えがないのでみなそのままの格好でアツアツのシチューをすすり、すぐさまディスコ・タイムに突入。寒さを忘れようと躍起になって踊りました。もう何でもありで、フォルクローレもロックもクンビアもごちゃ混ぜです。

へとへとになるまで踊りに踊り、真夜中の3時を過ぎた頃、ようやく帰途につきました。

 雨も止んで、明日の出発日には晴れを約束してくれるかのようにすっきりとした夜空でした。      

 皆とは来年の再会を願いつつ、笑顔で別れを告げたのでした。

 

 

 翌日の午後2時、オルーロのバスターミナルからラ・パスに向かって出発。

 お世話になったデヘッサ家のおとうさん、おかあさん、リディアらに見送られ、二週間を過ごしたオルーロの町を後にしました。

あの大荷物を担いで息を切らせながら登った坂道。

何度となく通った市場。

水はいつも無かったけれど居心地の良かった家。

そしてオルーロで出会った心優しい人達。

 どれもこれも新鮮で暖かく、いつまでも大切にしまっておきたい数々の出来事。

 

 またいつの日か再び訪れることを祈って・・・。!Viva Oruro!

 

 

                               終わり

 

 

あとがき

 

 

「ボリビア紀行」を書きながら色々なことを思い出しておりました。

 

 「終わってしまえば皆良い思い出」とはその通りで、ボリビアン・タイムに辟易したことなどは実際それはそれはヒドイ出来事の一つだったにも拘わらず、「まあ、こんなもんかな」なんて書けてしまうのですから自分でも驚きです。(それにしてもカルナバルでは待ち時間の長さが凄かった!)

 食べ物のこと、市場で売られていたもの、あやしい場所、あやしい人(?)etc.まだまだ書きたいことは沢山ありましたが、今回はオルーロでの出来事におさめました。

その他、旅の続きであるラ・パスでのこと、スークレ、ポトシ、ビジャソンでのことも話は尽きないのですが、またの機会に・・・と思います。

 

1997年 8月                        

  

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