1996年、2年ぶりにボリビアに旅行に行きました。

今回は2週間の日程で、チチカカ湖、ラパス、ウユニ塩湖、ポトシのカーニバルを見てまわってきました。

 

チチカカ湖は8年前に行ったウロス島と、それから太陽の島に行きました。

太陽の島へのアクセスはボリビアのコパカバーナという街から小型船で行きます。

この間はせいぜい500メートルくらいしかありませんが、冬の夜の寒いときに祭りがあって、男達が泳いでわたるなんていっていました(水温0度近い)。

コパカバーナへはボリビアの(事実上の)首都ラパスから3時間ほどですが、8年前に行ったときと相変わらず途中のチチカカ湖を渡る部分には橋は架かっておらず、車ごとボートの上に乗せて向こう岸に渡していました。

 

COPACABANAの地名はコタカワーニャという元々のアイマラ語かなんかで「眺めのいい場所」という言葉がスペイン語化したものだそうです。

 

眺めは良くても街の中は結構ひどい。水道管工事(下水管?)をやるために水道管を道のあちこちに置きっぱなしにしており、さらに舗装されていない道路の真ん中をほじくりかえしてあって人々は脇をおっかなびっくり通っていました。

 

コパカバーナにはボリビアで最も立派ではないかと思われる巨大な教会が有ります。

これは17世紀中頃にスペイン人によって建てられたもので、イスラム建築の影響を受けています。教会の中心部分の聖堂はスペイン人自身のための礼拝場であり、一方聖堂前の広場の4隅にCapillaと呼ばれる小さな建物が、インディヘナの人々の信仰の場となっていました(逆に言えばインディヘナの人々は聖堂には入る事が出来なかった)。

教会内は採光の工夫がなされているため、昼間は電気が無くても非常に明るく、ステンドグラスも見事でした。

聖堂内部には数々の宗教画が掛かっていますが、それらの内聖人の服が比較的きらびやかなのはペルー式、絵は比較的暗いが額縁に金をふんだんに使い、見事な彫刻が施されているのはボリビア式だそうで、ペルーとボリビアはかつて1つの国ではありましたが2つの教会学派によって違う布教がなされていた事を示すものだそうです。

聖堂内を一段上がったキリスト像の裏手に、青い服を着て金のトトーラ(葦の船)に乗ったこの教会の象徴La Virgen de la Copacabana(聖母コパカバーナ)が祭られています。

特徴的なのは肌が褐色、髪が黒色、これは言うまでもなくインディヘナの母なる神である事を示しています。

聖コパカバーナは手にバスケットとスティックを持っていますが、何を意味しているかは分かりませんでした。

ペルー、ボリビア各地のインディヘナは、それぞれ聖コパカバーナの日(ペルー:8月5日、ボリビア:12月8日)にこの地を巡礼に訪れます。

教会内には博物館が有りましたが、ガイドを付けるためか何と4人以上集まらないと入れないといわれ、それは断念していましました。博物館のチケットを売る売店では聖水として500ミリリットルの聖母の絵のラベルを貼ったボトルが40円程度(2BS)で売っていました。それ以外にも結婚式や洗礼の費用が書いてあって、一番高いフルコースの結婚式が3000円弱でした。

 

翌朝(8月25日)8時、ホテルの人に勧められてボートを借りて太陽の島に行きましたが、小さいボートで非常に遅い。これではプーノに出発するお昼過ぎの1時(ホテルのおやじの最初の言い分。後でこれでもめる)に間に合わない。しかし島の北に着いたときには既に10時過ぎになっていて、2時間以上かかっている。このまま引き返さないととっても間に合わないはずだが、ボートの少年はここで2時間見学とかいっている。

あまりに話がおかしい。トイレだけ済ませてすぐに少年に言って何も見ずに引き返させた。ただ途中で小さな「太陽の神殿」と呼ばれる遺跡が島の南にみえたので、ここにだけ寄らせて10分でさっと見学して引き返した。女の子がなんかくれとせがむので、ホテルの朝食で出たビスケットを持っていたので渡した(ボリビアは必ず子供が何かをせがんでくるのでお金じゃなくこの手の朝食などを持ち歩くようにしている)。

船自体は天気も良くって気持ちよかったが、気はやきもきした。1時過ぎにコパカバーナに戻り、猛然とホテルのおやじに怒ると自分は1時に帰ってこいなんて言っていない、4時か5時に戻れば十分だった等と白を切る。始めレストランですごい剣幕で怒っていたのでおやじもきになったのか奥の部屋に案内されたがやっぱりレストランには聞こえていたらしい。あとでプーノ行きの車の中で運転手に聞いたら、10時くらいから待っていて、太陽の島に行った時いて変だと思っていたらしい。元々旅行社の案内にも時間こそ書いていなかったが午前となっているので変だと思っていた。やっぱりおやじが白を切っているだけだとプーノに行く途中で分かった。とりあえずその場ではボート代くらい返してもらおうと意気込んだが、払った金の6分の1しか帰ってこなかった。

この国では金を渡してしまったらもう戻らないのが常識なのである。

 

ボリビアからペルーへパスポートにスタンプをもらって国境を超え、未舗装の道路から一転舗装道路の快適な道のりになった。同乗していたガイドはペルー人で、先のトラブルの話をすると、ペルーでは大丈夫だと太鼓判。調子の良いおじさんだったがなかなかこれが親切で、フジモリ大統領絶賛は我々が日本人だからであろうか?

折りしもカーラジオから橋本総理が日本の総理大臣として初めて公式にペルーを訪問するというニュースが流れていた。

 

ウロス島は乾季の終わりだったせいもあり前回よりも水の量が減っていて(2メートル水位が下がっている)放牧までやっている(地面が干上がったのでやれるようになった)などずいぶん変わっていました。水量の減少は10年くらい前から始まったようで、ボリビアのもう一つの大きな湖ポーポ湖のように水量減少が激しくなり、その内消滅してしまわないかと心配してしまいました。

ウロス島にはフジモリ大統領の貧困政策で、なんと太陽電池式の電気まで供給されていた。観光客用のトイレまで設置されており、島も少しずつ変化しているよう。

プーノのボート乗り場は、水位が下がったせいもあってか青子が大量に発生していてさながら緑の絨毯の上にボートが泊っているようだった。

 

人口11万人のプーノですが日曜のせい出店はどこも休み。ボリビアとの違いない町並みでしたが、レトロな自転車タクシーが一杯走っていた。

最初の3、4日高山病で頭が痛かったので、アンデスの山脈がトレードマークの高山病の薬を買い求めた。「Sorojchi Pills」という名前の薬で、地球の歩き方にも出ていませんが、良く効きます(副作用があるかは分かりません)。1錠50円程度とここにしては大変高価な薬ですが1錠から売っています。

 

プーノからの帰りは今回ちょっと贅沢して外国人客用の観光船。さすがにすごいサービスで水上で昼食。バックミュージックはカルカス。昨日見られなかった太陽の島も一部見られて、月の島の傍らを通り過ぎながら太陽が傾いていくのをボーっと眺めていました。何でも太陽の島は昔女人禁制、月の島は男子禁制で太陽の処女(Virgen del Sol)とよばれるインカ皇帝に仕えていた女性たちが住んでいた島だとか。彼女らは皇帝の着る衣服などを織り、インカのために食事を運んでいたとのこと。その際に使われていた皿は一度きりで割られてしまっていたとか(もったいないこと)。

勇敢な男性は太陽の島から月の島へ泳いでわたって妻をめとった等といわれています。

一度男と一緒になると女性は月の島へは戻れないという御伽噺のようなお話、昔はあったんですねえ(日本では月に戻れないなんて言う話、有りますよね)。

 

ラパスで1日休養した後去年開通したばかりのポトシまでの飛行機(Aero Sur)で一路ポトシへ(8年前バス事故に有って入院するはめになったことがあるので今回は飛行機)。アエロスールの飛行機は19人乗りで、飛行機の旅が高価だった50年くらい前の飛行機を思い起こさせます。70分しかかかりませんが一応サンドイッチの食事もでて、ビスケットしか出ないアルゼンチン航空国内便より立派。

ポトシのSA AVENIDA空港は民家ぐらいの大きさしかなく、一際VIPルームと書いた看板が大きいところを見るとまだまだ飛行機の旅は一般化されていなくてVIPくらいしか乗らないのでしょう。

そのまま三菱のランドクルーザーにガイドと調理人、運転手と乗り込み、食料などを街で調達しながら一路ウユニ塩湖へ。

 

ポトシの街を抜けると一転して景色はアルティプラーノの赤茶色の山肌と化し、埃を巻き上げながら進んでいきます。滅多に対向車は来ませんが、来るとすごい埃なので開けていた窓を閉めなくてはなりません。ほとんど干からびてしまいそうな細い川の流れに、放し飼いにされたリャマが水を求めてやってきている光景が見えます。

また遺跡ともつかないような伝統的な工法で建てられたインディヘナの家がぽつぽつと見え、石で囲われた中に家畜のための場所と人の住む場所が分けられている様子が分かります。

ティカティカという村に差し掛かると、そこには先ほどよりも川幅の広い川があり、川岸には柳が風に吹かれてそよそよとしていて、SAUCE MAYU(川の柳)という曲を想い出しました。こんな乾燥した高地にも柳は元気に生育するものです。

昼食は道端に車を止めて運んできた食料を広げ皆で食べました。

サボテンの木陰は意外に涼しくて食後サボテンの刺を折って爪楊枝の代わりにしました。(毒ないよね?)

 

夕方になる頃、ウユニの街に入りました。人口1万1千人のウユニは鉄道と製塩の街で、通りの真ん中に車輪と鉄道員のモニュメントが建っています。ここはボリビアとチリをつなぐ交通の要所なのです。家のほとんどがアドベ煉瓦(日干し煉瓦)でモノクロな感じがしました。ここで水を調達し、車を進めると、突然あたりが真っ白になりました。

「VIENBENIDOS SALAR DE UYUNI!」(ウユニ塩湖へようこそ)とガイドがいいます。

 

そう、この日ウユニ塩湖でどこに泊るかは全く知りませんでしたが、実はほぼ塩だけでできた塩湖の真ん中のホテルに泊ったのです。ホテルの名前はその名も「HOTEL PLAYA BLANCA」(白浜ホテル?)。昼ご飯の時に目玉焼きが出て塩が足りなかったので柱を少し削って振り掛けたりしました(本当です!)。目の荒い岩塩なので、味はダイレクトです。塩を頼んでもビンにもう少し精製した塩が出てくるだけなので同じ事です。

Hotel Playa Blanca

だいたい煉瓦の大きさに切った塩の固まり(一応土の混じりかたが少しずつ違って地層のようになったもの)をつんで作っていますが、塩以外で出来ているのは入り口の扉、サンテラスの部分の屋根、窓ガラスと屋根の下の部分の骨組みのみ(トイレの便器とかはもちろん塩では有りませんので念のため)でベットまで塩で作られています。

水は全て近くの村からタンクで汲んできて使っているのでシャワーなどは無し。

昼間の暖かいときをねらって柄杓2杯程度の水で頭だけを洗いました。

トイレも自分で柄杓に水を汲んで流すんですが、水量が少ないからうまく流れません。

ベッドライトは蝋燭2本、食事も蝋燭と満月の月明かりと満天の星空が透明の天井越しに見えました。天頂はさそり座がくっきりでした。

一面真っ白なので南極点にいるような気分で、ちょうど太陽が塩の水平線に沈むと月が遠くの山から姿を見せる神秘的な光景の時期でした。他に客がいなくて、水平線の彼方まで全て自分たちだけのために時が進んでいるように感じる瞬間ってなかなか味わえない醍醐味です。

 

翌日塩の湖に浮かぶ(?)ISLA DE PEZ(島の形が魚みたい)というサボテンばかりが生えた島に行きました。こんな荒涼としたとことでも鳥はいるようで、サボテンをつついた跡が有ります。100歳くらいの老サボテンは刺も長くて密集しており鳥もつつけな

いので、比較的若いサボテンを狙うんだそうです。1年に10センチくらいしか伸びないのに6メートルとか非常に高いサボテンもあって圧巻でした。

島の一番高いところからチリの国境が見えるとガイドが教えてくれました。

その後OJO DE LAGUNAという地下から空気が湧き出して水がぶくぶくいっている塩の大地に目のようにあいた無数の穴見学。リュウマチに効くとかで手を突っ込んでみると冷たいの何の。

塩の工場にいったのですが、生憎の雨。湿気があると仕事にならないそうです。非常に古い機械を使っていて、1日に精製できる塩は2トン。これで一人当たりの給料は約400円/日くらいです。ここではこの塩を1キロの袋が50袋入りで6BS(120円)で販売しており、ポトシの町では1キロ50センターボ(10円)で売っていました。日本では1キロ100円くらいでしょうか。いずれも安いものなので生産性を向上するために新型の機械を入れるといっても、1日数千円の売り上げでは機械の代金が回収できないので無理だと塩工場で働いている人がため息交じりに話してくれました。

   

周りは1メートルくらい大きさの塩の結晶が永遠と続いているので、多分世界初(?)の世界一大きい「グリコ」をして、じゃんけんをしながらホテルに帰りました(あまり離れるとじゃんけんで何を出しているかわからなくなるし、更に離れると声を出しても聞こえなくなってきます)。

 

最終日に生憎の雨になって、屋根から雨漏りした場所だけ床にぽっかりと穴が空いていました(何個所も)。後でバケツなんかを持ってきて防衛していましたが・・

でも塩のブロックなんていくらでもとれるし1個10円くらいしかしないんだから穴が空いたら取り替えればいいのかもしれませんが、まだオープンしたのが5月の新しいホテルで雨季を経験していないのでこれから試練が待っているようです。

 

会社からは泊る各ホテルの電話番号を事前に提出するように言われましたが、こんなところだから電話なんかある訳が無い(上司はホテルというのは予約を取るんだから必ず電話とFAX、TELEXというのは完備しているものだといっていたんだけど、それは少なくとも人が集まっている集落、町での話。こんなところではそんな常識ぽぽいのぽい)。

 

ウユニからポトシに戻る途中、温泉に行きたい!ということでPOTOSIから30キロTARAPAYA温泉によりました。平日なので客はゼロ。ブエノスにはないので何と半年以上ぶりの温泉で、45度くらいとちょっと熱めのお湯で寒かった道中の疲れを癒しました。1人100円くらいでした。

 

雨は途中から雪に変わり、ポトシでは8年ぶりの行きに見舞われ、CERRO RICO(富の山)は真っ白となりました。寒さもひとしおに加え、坂の多いポトシの町にどんどん水が流れていくのと、せり出した屋根から水がしたたってくるのをよけながら歩くのは一苦労でした。

 

ポトシのお祭りはCHUTILLOといって、土曜日がポトシの各地中心でアウトクトナ(現地の祭り音楽)やティンク(けんか祭りの音楽)など、日曜日がボリビア各地でディアブラーダ(悪魔の踊り)、サヤ(黒人系)、カポラーレス(白人系)ドクトルシート(高い役職の人たちの踊りでタキシードに付け髭、ステッキを使用)、タラブコ、スリ・シクーリ、ネグリータ(顔を真っ黒に塗る黒人系)、ワカワカ(牛の張り子を腰に付けて踊る)など。

写真撮影料とかで20ドル(100BS)も取られてしまいました。

通常この祭りは8月24日前後の週末にやるものだそう(ポトシのホテルにあったイエローページによれば)。

この祭りはCARNAVALか、ときくとFIESTAだという。明確な違いを知らなかったのですがCARNAVALというのはキリスト教の宗教的な意味のある祭りのようです。

正確に辞書を引いてみると、CARNAVAL:キリスト教会暦で四旬節CUARESMA(復活祭前の40日間)・灰の水曜日MIERCOLES DE CENIZAの前の3日間の祝祭(謝肉祭)、つまりキリスト教の中で特定の祭りのみをCARNAVALというらしい。

実際にリャリャグア(北ポトシの村)のカルナバルはMIERCOLES DEL CARNAVAL(だったと思う)と呼ばれているとルーベン(Norte Potosi)が言っていました。

FIESTAは単なるお祭りで、大体12聖人(SAN PABLOなどSANがつくひと)やVIRGEN関係の祭りが多く、全く宗教に関係無いという事はないようです。

このCHUTILLOの祭りもSAN BARTOLOMEという聖人をPATRONとして祭ったものです。ただ大学の学祭みたいなもので町を上げて踊る事も有りますから、これはさすがに宗教とは関係無いのでしょう。VIRGEN(聖母)を祭る祭りは大地の神パチャママと関連付けているせいか、ボリビアの各地で見られ、チチカカ湖周辺では聖コパカバーナ(VIRGEN COPACABANA)と呼ばれている神への信仰と祭りがさかん(ブエノスアイレスでも盛ん)だし、各都市毎に違った名前のVIRGENを祭ってお祭りをするようです。

 

祭りでは地元の学生が中心となって踊っています。なんせポトシだけで大学生が7000人(大学の受講料がただだかららしい。法律勉強している学生が一番多い。

日本からの交換留学生もティンクを踊っていました。世界各国と毎年10名程度交換留学生を行っているようです)もいるらしいので、すごい人数の踊りが見られます。

組数もコスキンエンハポンに匹敵する1日目46組、2日目78組でそれぞれ夜中の4時くらいまで行列が続く。1組は10キロくらい行進して4〜5時間くらい30分後とに休みを取りながら踊り続けるというハードなもの。妻はネグリータを踊っていたお兄さんに誘われて踊った後ほおにBESO(キス)され、顔に墨がついて真っ黒になって観客の注目の的でした。

 

それからポトシではお決まりの鉱山見学とCASA DE LA MONEDA(造幣局)見学。

鉱山を見学するにあたって見せてもらうお礼のためのコカと黒タバコを購入しました。

それ以外にはダイナマイトや導火線なども売っており、作業を円滑に進めるために坑夫自ら購入するそうです。鉱山労働者の賃金は800ボリビアーノ(一日8ドル程度)に上昇していましたし事故も以前に比べて減っているような説明がありましたが、それでも毎年50人くらいが事故に合い、今まで一般より安く買えていた食料品とかの供給が無くなったりして、しかも10人とかの大家族で大変な事には違いないようです。

造幣局は昔奴隷同然にして働いていたインディヘナと黒人が押した地下の動力棒と、石畳を何度も何度も歩いた跡が凹んでいたのが歴史を物語っています。

 

その後ラパスに戻って町中散策。

ラパスで今回見た演奏グループは次の通り。

ルミリャフタ 調子に乗って2回も見に行ってしまった。しかし入場料が100円から300円では安すぎます。それなのに半分も客が入っていなくて7時半の時間通りえ22人しかいない、始まる頃になっても100人強くらい。いまヨーロッパで活動しているようですが、本当に旅費が出たんでしょうか?人数は全部で6人でした。ボーカル(サンポーニャ・ケーナ)、チャランゴ、ケーナ、ギターは8年前のまま。それにサンポーニャ(ケーナ)も多分同じ人。加えてドラムス(全てなめさない皮と木枠で作ったアンデスドラムスにエルナンポンセのようなおまけがいっぱいついているもの)のひとでした。

コジャワラ  コンセルティーナでしたっけ、バンドネオンの小さいのを弾いていた人が1人、ギター2名、バンドリン2名、ケーナ1名、ボンボ、サンポーニャ1名の7名。上記の通りエストゥディアンティーナばりばりでした。ナイラの少し上(20メートルくらい)に出来た新しいペーニャEL PARNASOで行われました。

ノルテ・ポトシ 何も変わっていません。我々の写真を見せながらあなたがたを手本にがんばっているんだよ、とかいってワンフレーズ歌ったりしたら、ルーベンが著作権料をもらわないとなあなんて冗談を言っていました。ペドロが予想通り事故でスークレに行ってしまいコルネリア、ルーベンとギターの3人になっていました。チャランゴや語りはペドロの方がうまかっただけにちょっとパワーダウンで残念。でも屋台でアンティクーチョを食いながら話した感じはとても素朴で良い人たちでした。今週末に単独コンサートがあって見に行きたかったのに、といったらルーベンがチャランゴケースからコンサートのポスターを取り出してくれました。新曲をばしばしやっていました。新しいレコードを発売したのですが、あいにく本人たちが持っていなくてレコード屋にも置いてなくて手に入れられませんでした。でも福岡さん経由などでまもなく日本でも発売されると思います。(ちなみにルーベンはブエノスから手紙をくれればテープを送るなんていってたけど本当に送ってくれるんだろうか?)

カブールとも一緒にアンティクーチョを屋台に食いに行きました。汚い屋台でしたがアンティクーチョを食べた後、彼のやっている博物館というのを夜中の2時頃見せてもらいました。

カブールの博物館は現在のサガルナガ通りから博物館の並ぶハエン通りに移動して、展示面積も5倍になるとのこと。

日本の琴なんかも置いて有りました。

その後彼はチリに行ってしまい会ったのは1日だけでしたが。

スルマ・ユガール勝手な個人的な意見では、ライブはさながら「美空ひばりオンステージ」でした。3部構成で、1部は地元のジャズなどのアーティストとのセッション2部は彼女の独り舞台で、南米の有名な女性5人(詩人アルフォンシーナ、ビオレタ・パラなど)を1人1人取り上げて彼女がその思いを語り、そして歌う、3部はヌエバス・ライセスをバックに自分の得意曲を歌いまくるといった構成でした。舞台構成のうまさや演出効果ではアルゼンチンの方がずっと進んでいるので、彼女が退場した後の間のつなぎがうまく行かず客席がざわめいたり、幕から幕への間がそれぞれ15分も空いて退屈なこと、マイクが時々ハウったり、胸に付けたコードレスマイクが彼女が歩くと服と刷れてズーズー音がしたりしていたのはちょっと興ざめでした。但しあまり年を取りすぎてからのコンサートでは「淡谷のりこオンステージ」のようになってしまうかもしれませんね・・。

共演したヌエバス・ライセスはどうだったかといえば、斜に構えたきざなところは2年前とあまり変わっていませんでしたが演奏自体は向上しているような気もします。歌は良くハモっていました。

8年前は確かナイラの前座みたいな事をしていたはずですが、その時はまだきっと16才くらいだったのでしょう。今はまあ一流アーティストの一つとしてみられているようです。(ただしルミリャフタの演奏の方が数段すごいけど)

本当はサビアアンディーナとの共演を期待していました。

ビデオではサビアアンディーナが一緒でしたけど。

グルーポ・コカ はげたリードボーカルのギター弾き(Victor Hugo Mena)は若い衆を連れて一人でがんばっていて健在でした。テープの声そのまんまのひとでした。ライブでは9月29日など涙の出るような懐かしい曲をやっていました。(因みにナイラで一番受けていてアンコールまでやりました。アンコールはHOJITA COCAという曲でしたがその前の語りがちょっと泣かせました・・・要約すれば欧米のコカイン蔓延で伝統的なコカの栽培が出来なくなりつつあるという自分のグループ名にかけたお話)

ハヤンキリス  テレビにも出ていたのには驚き!近日新譜発売予定。メンバー4人のうち1人代って黒人系の人になっていました。なまりがきついスペイン語で何を言っているか良く分からない場面もしばしば・・

ワラも見に行ったのですが予定に時間を1時間半過ぎても始まらないので諦めて帰ってきました。

 

ラパスから1日だけ今回初のユンガス・コロイコに行きました。3600メートルからどんどん山を下って1070メートルまで下がります。最初1時間は舗装道路だけど、その後2時間余りが未舗装の山道。何度も超大型トラックとすれ違い、「死の絶壁」と呼ばれているそうで年間200人が谷底に落ちているそうです。帰りがてらにも昨日トラックがここで落ちたとかいう現場で、木が剥げ落ちて谷に一直線の跡がつき、底の方に破片が散っていました。

コロイコは熱帯なので高地のラパスと違ってゴムの木やブーゲンビリアの花など南国しています。3年前にオープンしたばかりのRIO SERVA(これもイエローページで見つけた)というリゾートホテルで、各部屋は別棟の建物になっています。川下りが出来たりもしますが、今回はプールで泳いだり(ちゃんと水着は温泉用にもっていた)卓球、ビリヤードをしたりしてボリビアとは思えないリゾートを満喫してしまいました。

 

今回の旅行で日本人であったのはポトシで協力隊の人1人(コスキンにいつも出ているワイラさんを知っていた)とペーニャ・ナイラで2回学生らしき集団を目撃(彼らは無口なので我々がノルテポトシとかと話しているわきを通ってかえってしまったので正体不明)それからルミリャフタのコンサートで楽器を勉強に来ているという学生風(絶対サンポーニャに決まってるという風貌)くらい。買い物途中にも何人かすれ違った気がするけど、みんな学生風。最近は航空運賃も20万円以下も登場したので結構沢山の人がボリビアを訪れるようになったみたいです。でも8年前が行ったときは斎藤さん、長田さん、瀬木さん、けんたさん、みねさん、長岡さんなど、すれ違う人みんな何かしら知っていたり話したりしたもんですが、いまでは会っても誰も知らないのが少々寂しい。

 

「カポラーレスのはなし」

 

「サヤ」という名前のリズムはなくなって全て「カポラーレス」になってしまった様な気がしています。「サヤ」と「カポラーレス」の違いについてかなりいろんな人に質問しまくったのですが今一つ良く分かりません。

 

衣装としては「ネグリータ」と「モレナーダ」を含め女性の衣装はみんな同じ様にみえますが、「サヤ」に使う衣装は腕にブラジルのサンバのようなフリフリが派手についている以外は見分けがつきません。

 

踊りかた(ステップ)は違いがあって、基本ステップはほぼ同じリズムなので似たようなもんですが、構成の仕方、組み合わせが変わってきます。

音楽的にはカポラーレスで一般的に踊られている曲に「サヤ」という掛け声があったりするのでそんなに違いはないのでしょうけれども、「サヤ」のような強い後のりは姿を消して、もっと軽快になっている感じがするというのが個人的な印象です。

 

お祭りで2日目は70組以上有ったと書きましたが、およそ実感ではその内20組以上はカポラーレス(一番人気)、続いてモレナーダが10組以上ポトシ系も健闘していました。

 

因みに踊っているのは高校生、大学生ばかり。あまり年を取ってから踊る踊りではないようで、グループのオーナーという70才くらいのおばあさんが派手な衣装を着て一緒に行進していたのを除けば概してものすごく若い集団が踊っています。その性で男性は長髪を振り乱してきんきらの鞭を手に足を派手に上げて踊り、女性はミニスカートで日本人ではなかなかいないスタイルの良い足の綺麗なお姉様方が腰を振って踊るというスタイルが一般的です。

 

ラパスではカポラーレス大会などというのもやっているようで、さながらニューヨークのブラックダンス大会のようを呈して、派手な衣装で踊っています(テレビで見た限りかなりうまい)。

 

このブームの火付け役は誰だかは知りませんが、使われている曲はパチャのNegrita(途中の歌の歌詞にカポラーレスという言葉が出てくる)ばかり。

 

「ペルーテーマパーク計画」

 

久しぶりにアンデスに行ってずっと考えていた事は、ここの人たちの生活を向上させつつ文化や伝統を守るにはどうしたらいいのかでした。

荒れ地の続くチチカカ湖のわきの道をバスで走りながらボーっと思い付いた「ペルーにディズニーランドのようなテーマパークを作る」ことでした。

 

主題:ペルーテーマパーク計画

目的:1)ペルーに限らず南米の優れた地方文化・伝統を広く世界に紹介する事

   2)ペルー人の雇用機会を増大させる事

   3)ペルーの伝統文化のすばらしさをペルー人自身が認識すること

動機:日本にはディズニーランドを始めとして戦国時代村など地方公共団体とタイアップしたテーマパークが数多くあり、全部ではないが地方活性化や雇用確保によるUターン現象が起きるなど、かなり成功している例も出ている。日本の地方都市でも成功できるこの種のテーマパークが観光資源豊富な一国ができないわけがない。

   またディズニーランド以外何も無いといっても過言でない合衆国のオーランドでさえ日本人観光客を集める事が出来ている。

   一方南米にはこのような大型の施設が無い。ディズニーランドと同じではわざわざ南米まで見に来てくれる人はいないであろうが、南米独自の文化伝統をテーマとしたテーマパークであれば、現在南米を観光している観光客だけでなく、いままで南米に興味のなかった人まで取り込むこともできる。しかしこのような一般の人を取り込むためには次のような課題がある。

   1)飛行機などアクセスするルートを確保する事。

   2)十分なサービスが受けられるホテルを確保する事。

   3)ある程度低料金でも利用が可能となる事。

   4)移動時間を極力短縮して効率よく文化を紹介できる事

   以上の課題を満たすため下記のような施設を考えた。

 

場所:チチカカ湖湖畔

   立地が良い。チチカカ湖自体が観光資源である上、周辺の半分は未開発地帯。

   更にインカ時代の遺跡も多く残り、ラパス、プーノそれぞれから3〜6時間程度という距離にある。近くに飛行場が無いためなかなか貴重な観光資源を生かして観光客を集める事が出来なかった地域。

施設:1.テーマパーク部分

      遺跡館、プレコロンビア文化館、土器館、アンデス音楽館、アンデス舞踊館、民族衣装館、伝統料理館など、動きのある映像と音声、対話式機器や乗り物も用意して飽きさせないこと従業員は全て各地の民族衣装で出迎える。原則使用する音楽は南米各地の音楽かその楽器を使った現代音楽。

      建物は例えばチパヤ村の土の家に似せたりして南米にいる実感を与える。週末はパレード(各地のFIESTA)を行ってイベントにめりはりを付ける。展示は原則数ヶ月毎にどんどん変えてリピーターを狙う。

      ゴミはこまめに拾い清潔さを売り物とする。

   2.空港施設

      騒音が問題とならないようテーマパークから数キロの距離につくる。

      当初LA PAZ,LIMAからの直行便を想定。

      将来的にはMIAMI,LOS ANGELS,BUENOS AIRES,SAN PABLOなどからの便を増設してアクセスのよさをアピール

      税関などは政府と協力して不当な要求はしないよう金銭的に支援する。一方でトラブルの苦情も別の機関で受け付ける。

   3.ホテル

      5つ星で次の施設を完備(すべてこの中で完結するように設計)

      土産物屋(みやげもの、レコード・CD、衣装、ビデオ、酒)

      薬局、会議室、レストラン、旅行代理店、苦情受付、コンビニ

      カジノ(カジノの収益でホテル代を安くして泊りやすくする事を狙っている。ラスベガス方式)

      ペーニャ、両替所、医療施設

   4.周辺観光

      チチカカ湖クルーズ、ティワナク遺跡観光など遺跡ツアー(現地既存旅行社と提携する)

   5.教育施設

      近くに従業員教育施設(及び宿泊所)、また音楽や言語・文化などを学びたい人のための学校(及び宿泊所)も用意して将来的な南米文化に対する関心を深め、当施設への需要を喚起する。

      この宿泊所は一般旅行者にも解放し、ホテルでなく比較的低料金でテーマパークを見たいという人の需要にこたえる。

 

   演奏家はLA PAZなどから近いので比較的低料金で呼ぶ事ができる。

   従業員はペルー、ボリビアから募集する。周辺施設などを考えれば2000人規模以上の雇用が必要。

   資金調達は欧米各国の銀行・商社より10年程度の政府保証長期債券で調達。

      用地買収:2000ヘクタール 20百万ドル

      ホテル建設:500室規模   20百万ドル

      空港建設:滑走路1本     20百万ドル

      テーマパーク建設       10百万ドル

      周辺施設整備         10百万ドル

      その他            20百万ドル

      合計            100百万ドル(100億円)

 

   用地買収は住民とのトラブルが起きないよう充分説明を行う。

 

もっといろいろなことを考えていた気もしましたが忘れてしまいました。

意見や批判があったら是非お寄せ下さい。

  

…ということで、16日間いろんなことがありました。

10年前の初旅行と比べた感想は、少しづつでも国が良くなっているという事です。前は食堂のナプキンはわら半紙、壁は塗りがかなりくすんでいてみすぼらしい感じで、店もウィンドウショピング等というのは程遠い、昔ながらの売り方をしている店が多く、スーパーマーケットなども皆無でしたが、先進国はまだしもずいぶんブエノスアイレスなどに近づいた感じがしました。一方でチョリータなどの伝統的な衣装を着た人が減っているのも事実で、近代化と伝統保持の両立はむずかしいものだなあ、と考えさせられました。

こんな日本の裏側の国の、しかもチチカカ湖に浮かぶ小さな島にまで「コレ、イチドル」と日本語を耳にするなんて・・小さなショックでした。まだまだ地方では人々の生活も苦しく、塩の工場や鉱山の様子を目の当たりにして、胸が痛くなる事も有りましたが、彼らの生活の向上を願って止まないものです。また祭りという面では彼らの伝統を後世に伝える意味でも変わらぬ姿で続けていってほしいと感じました。

 

先頭へ