CHE GUEVARRA

 

あらゆる分野で中南米に関心のある人に「チェ・ゲバラ」の名前を知らない人は少ないでしょう。トレードマークのベレー帽、口髭をたくわえ、時にはキューバ葉巻を加えたその独特の風貌は、一度見るとなかなか忘れられない強烈な印象を与えます。日本でもチェはTシャツのデザインとなり、街角で見かけることもしばしばあるのではないでしょうか。けれど、彼がアルゼンチン人であることは意外と知られていないかもしれません。

2000年10月8日は、チェ・ゲバラの33回目の命日でした。

 

チェ・ゲバラは本名をエルネスト・ゲバラErnesto Guevarraといい、1928年にアルゼンチン・ロサリオで生まれました。「チェ」はアルゼンチン特有の表現で「おいっ」という呼びかけを表すのですが、後にゲバラが歴史的な活躍を果たす舞台となったキューバの人々には、彼の口から頻繁に聞こえる「チェ」がとても印象深かったために、敬愛を込めて「チェ・ゲバラ」と呼んでいたという有名な話があります。

当時としては比較的裕福な家に育ち頭脳も明晰、大学に進学すると医学を専攻したチェは、在学中、放浪の旅に出てラテンアメリカ諸国を訪ね歩いた経験のもとに、ラテンアメリカの現実や様々な世の中の矛盾に直面し、それが後の彼の思想に大きな影響をもたらしたと言われます。

そして数年後、メキシコに亡命中のフィデル・カストロとキューバ人革命家たちとの運命的な出会いが、当時アメリカの経済的支配を受け、かつ独裁政権のもとで大衆が喘いでいたキューバへとチェを駆り立て、歴史的な革命に参加、ゲリラ戦に従事し、多大な功績を残して一躍キューバ革命の英雄となりました。

ゲバラは純粋なまでに共産主義者で、軍人でありながらも時には普通の人々に混じって砂糖のプランテーション(農園)で汗を流し、自ら工場に赴いては労働者を励ますなど、いつも国民から厚い信頼と声援を受けていました。

しかし、時の流れと共に、常に現実路線のカストロとは革命後の方針について意見が合わなくなり、ゲバラはそののち更に共産主義革命を進めるためにアフリカへ赴きアンゴラに転戦しましたが、得意のゲリラ戦も思うような成果を挙げることなく、散々たる結果に終わります。

 

その後キューバに戻りますが、かつてのような活躍が望めなくなり、キューバ国民に惜しまれつつも、今度はボリビアの共産主義革命に参加、ゲリラ戦を半ば孤立無援で展開しますが、最後は政府側に身柄を拘束され、銃殺されてしまいます。1967年、若干39歳でした。

 

と、駆け足でチェ・ゲバラの歴史を追ってみましたが、彼のエピソードで非常に興味深いものがあるので紹介しましょう。

 

ゲバラには別離したアルゼンチン人の妻との間に子供がいました。

ある時、アルゼンチンにひょっこり現れたゲバラは妻の居所を探し当て、『一目でいいから娘に会いたい』と願い出ます。妻は『娘に会ってもいいが、あなたが彼女の父であることは伏せて欲しい』という条件付きでとあるレストランで娘をゲバラに会わせることになります。娘には「お父さんの古い友人が貴方に会いたがっている」と伝え、変装したゲバラと再会を果たすのですが、ゲバラのアルゼンチン訛りのあるスペイン語、ワインをソーダ割りして飲むアルゼンチン人ならではの仕草に『この人は私の父親に違いない』と確信を持ちます。しかし遂にその場で「おとうさん」と呼ぶことは叶わず、それが父との最後の出会いだった、ということでした。

 

ゲバラは、知らない人がキューバ人かと錯覚してしまうほどキューバ葉巻の似合う人だったと言いますが、それでも生まれ育ったアルゼンチンの習慣は彼の中に脈々と流れていたに違いありません。

 

彼の主張は純粋なまでの共産主義でしたが、率先して労働をいとわず、人々に共感を与えました。思想の内容は別にしても、未だにチェ・ゲバラの貫き通した「己の考えに真っ直ぐ忠実に生きる」生き方に感動する世界の人々は後を絶たず、キューバはもちろんのこと中南米諸国では今もってチェ・ゲバラは「英雄の中の英雄」として人々の中に生き続けているのです。

 

 

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