COSQUIN

 

1998年1月23日金曜日、会社から早目に帰宅し、沖連に急いだ。

 

沖連は沖縄移民の為に造られたビルで、沖縄県からも3億円に上る費用が寄付された、アルゼンチンで最も立派な日系の関連施設だ。

 

先週はここでちょっとしたフェスティバルがあった。

沖縄太鼓「夢海渡太鼓」のコスキン初出場が決まり、コスキンに行くための資金を作る為に企画されたものだった。

今年は日本とアルゼンチンが修交を開始して100周年。

その記念事業としての招待だった。

 

沖連は1階が立派な高校の体育館とそのステージのようになっており、ここで今日のフェスティバルが開催された。

席は500くらいあったと思うが、立ち見で入りきれずに立っている人の方がはるかに多かった。

上を見上げればホール中ぐるりと旗が掲げてある。真ん中の沖縄県の旗を取り囲むように県内の市町村のシンボル旗が飾られている。

市町村それぞれでもブエノスアイレスに集合施設を持っていると言う。

如何に沖縄県からの移民が多かったかが分かる。

 

私も彼らと共にステージに立つことになっていた。

アルゼンチンを象徴するガウチョの衣装を持っていたのが私だけだったからだった。

沖連の前は既に見送りの人で一杯だった。

大きなバスが出発してまもなく、見送りに来たお母さんが作ってくれたものであろう、おにぎりやとんかつなどがバスの中で沢山振る舞われた。

全く食べきれないほどの差入れがあったのだ。

 

太鼓のメンバーは約30人。

ほとんどが10代の三世で若い。

日本語の程度は漢字まで書ける人から全く話せない人まで様々、でも太鼓という沖縄の文化でつながっている。

アルゼンチン人もいる。大学で東洋文科を専攻する学生で、東洋に対する造けいは深い。

 

沖縄でない本土の人間の中には、沖縄の太鼓を沖縄の民族衣装を身につけ、それを日本の文化としてアルゼンチンの最も大きなフォルクローレフェスティバル「コスキン」で紹介することに抵抗を覚える人もいるかもしれない。

その感情は自然だと思うし、自分が見ていても「自分が慣れ親しんだ文化」とは正直感じなかった。

ただ、自分自身の中のアイデンティティーではない「沖縄の文化」もまた「日本の文化」であるのは事実であろうし、自分の慣れ親しんだものが即ち「日本の文化」の全てではないことに気づかされる。

 

バスが故障で途中7時間も停泊するというアクシデントもあった。

沖縄県出身の一家が、晴れ舞台の太鼓を一目見ようとコスキンに自分の車で向かう途中、バスに付いていた太鼓の旗を見て止まった。

バスが故障で動かないという事情を知ると、後ろ座席に座っていた老夫婦が車を降り、代わりにリーダー格の2人が乗って先に会場に向かった。

故障地点からコスキンまでは約300キロ。4時間かかる距離で、リハーサルに間に合うか微妙だったので、せめて会場くらい見学しなければ、という配慮だった。

暖かい日差しを浴び、老夫婦と我々はただ待つしかない時間を過ごしていた。

 

別のバスが引き継ぎ、コスキン市には20時間を要し、ようやく到着した。

バスの中は修学旅行のように賑やかだったが、故障で乗り換えの際、荷物積み替えの手際よさやごみを捨てないマナーに、ここで生まれ育っていても日本人の血を感じる。

(練習に参加したときは正直いって短い時間で手際よく密度の濃い練習とは思えなかったが)

 

既にコスキン市は今日からの大イベント「コスキンフェスティバル」を控え、町全体が祭りの雰囲気を醸し出していた。

普段1万7千人しかいない町に40万人以上が訪れる大イベントで、多くの屋台が立ち、わたあめやガラス細工など、日本の縁日と同じように並んでいる。

あちらこちらにはコスキンの舞台に立つ為に来たアーティストが出演するというレストランの広告が貼られ、ミニコンサートの宣伝カーがフォルクローレを奏でながら通り過ぎていた。

 

さすがに20時間もの旅で疲れていた。

ホテルでシャワーを浴びて気を取り直し、簡単に食事を済ませると、ガウチョの衣装に着替え、バスで一緒に会場に向かった。

既に夜の10時を回り、フェスティバルの初日は花火の打ち上げと共に始まっていた。

出演者用通用口から入ると、出演者控えの敷地にテントが並んでいる。

テントにはそれぞれ出演者の名前が書いてあり、どこかで見たような人たちが歩いている。

ラジオの取材を受けているアーティストも見えた。

出演は11時半の予定だったが、40分ほど遅れているらしい。

 

太鼓は極めて丁寧に毛布を敷いた上に置かれる。

直接叩くと音が大きいのでマットを載せて練習している。

緊張が高まってくると、リーダー格のタクが声を上げる。

「がんばろうぜ!」

みんなもそれに呼応する。

普段はスペイン語を話しているのに、掛け声を掛けるときはいつも日本語なのが面白い。

紫、黄色、色とりどりの大旗が用意される。

パラグアイから駆けつけたアルパ奏者のルシア塩満さんの顔も見える。

と思ったら「河野君、ガムテープとってきてくんない?」

 

控えのテントから会場は全く見えなかった。

ただ音だけが聞こえてきていた。

会場裏に入るときに警備員のチェックがあり、舞台裏でも再度、警備員が出演者の出番が来ていることをチェックしている。舞台裏にはテレビが置かれていてステージの様子が見られる。

いよいよ出演。

最初にルシア塩満さんのアルパがある。

続けて暗闇の中で大太鼓が響く。

 

徐々に照明が明るくなってくる。

総勢30名。

みんな真剣な眼差しだ。

舞台袖から出るタイミングを計っていると、スピーカーの反響音も加わって「聞いている」と言うよりも「震えている」感じになってくる。

 

Cosquin con okinawanses沖縄調のメロディーに載せて「よいやあ!」旗を持って出る。

ゆっくりと旗を掲げて歩いていき、音楽が鳴り止むタイミングと共に舞台の真ん中で自分も止まる。

舞台そのものは、演奏活動で何度も経験しているし、今回はチャランゴのように指先を使うといった繊細なことをするわけでもないから、別段、緊張はしない。

しかし、皆の真剣で真っ直ぐな緊張感が自ずと伝わってくる。

 

音楽がピタリと鳴り止む。

同時に、客席では人々が立ちあがり、大きな歓声と拍手がこちらに向かって送られてきた。

そしてまもなく、再び鳴り出した音楽にしたがって、ゆっくりゆっくりと退場した。

 

舞台袖に下がり、客席が見えなくなると、みな抱き合い、喜びをかみしめている。

二世に当たる親たちは涙ぐんでいた。

 

二世の親たちの感情は今まで複雑だった。

50歳にもなって、日本のことも、苦労した時代のこともろくに知らないと一世の親からは常に半人前扱いしかされてこなかった。

それでも「アルゼンチン人」として、「日系人」として沖縄県人会を支えてきた。

いま三世の子供たちが「日本人」として「アルゼンチン人」から賞賛の拍手を受けている。

「日系人」が「日本人」の親を離れ、親の文化である「沖縄」文化を仲介にアイデンティティーを確認した瞬間であったのだと思う。

 

「アルゼンチン人」が演奏する「沖縄」という地域のフォルクローレが、アルゼンチンのフォルクローレと同じ舞台に立っていた。

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 アルゼンチンの沖縄人は3万人足らず。

「沖縄」を先祖の文化に持ち、スペイン語を理解するという、周りから見れば極めて特殊な世界を形成している為に人々の結束も固い。

 

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(おまけ)

コスキンへの行き帰りのバスで日本の雑誌を読んでいた。

その中で「ナショナリズム」について特集し、日本では禁句になっているが、現実的に近代社会は国を単位に動いている、おおざっぱに言えばそんな内容だった。

 

確かにパスポートが無いと大好きな海外旅行もできないし、ワールドカップに日本が出場できれば素直に嬉しいと思う。

でも、世界がナショナリズムだけで纏まろうとしたとき、それだけでは割り切れない地域(ボスニアなど)や社会が生まれ、世間からはじき出され、問題が生じる。ナショナリズムを基調とする民主資本主義は、良く出来たイデオロギーであり、一見単一民族の日本には良く当てはまるように見えるけれども、「普遍的」なものとはいえない。

 

そんなことを考えながらこのイベントに臨んでいた。

 

日本に限らず、100年くらい前までは、どこの国でももっと小さな単位、つまり村単位で行動していたと思う。

せいぜい1000人くらいの集団の中で小さい頃から一緒に暮らし、結婚して、と成長していく。

昔は犯罪が少なかった、という声があるとすれば、小集団では盗みも殺しもすぐに誰の仕業か分かるし、周りに迷惑を掛ければ集団の中で生きていけないという不文律があったからで、自然と助け合いを行うようになったのだと思う。

しかし、都市化が進めば隣の人の顔は知らないし、その人が被害にあった場合の「痛み」も分かりづらい。直接声が聞こえないのだから、一般にいわれるような倫理教育を持って解決できる問題ばかりではない。

しかし人間は帰属意識が強い。

どこかに「自分と言う存在が見える組織」に属していたいと思う。

新興宗教が都市で信者を獲得できるのもたやすくなる。

宗教組織は自分の存在をいともたやすく認めてくれる場合が多いからだ。

だから都市化した社会の中でどこにも属さないで暮らしている人は不気味がられる。

金銭的に息詰まったり、精神的に破綻すれば、普通の人間が犯罪を起こしたりする要素になっている。

 

近世村社会は国家よりもより小さな単位だから一人一人の顔が見えるので、天皇などのイデオロギーがなくっても集団としてまとまっていられた。

一方重大な欠点は、自分では村を選べなかったことに合ったと思う。

その結果、村にしか通用しない理論がまかり通ることになったりした。

 

では国家民主主義に続く理想的な組織モデルとはなんだろうか。

 

流動的な「村社会」というのを考えてみた。

自分でどの「村」に属するかを決める。但し「村」はせいぜい大きくても数十人程度の集団でなければならない。それでなければ全員を把握できないし、個人一人一人の考え方が集団に反映されず、本当の民主主義ではなくなってしまう。リーダーがなんでも決めてしまう場合があるかもしれないが、その集団を変える自由が個人の意志の発露する機会を保証できる。考え方があわなければ、別の集団に変更するのは自由だけど、常にどこかに属していなければならない(これは国籍と同じ)。常にどこかの集団が個人を面倒見ることで孤立を廃す。

成人式とは即ち「親の属していた集団」から「自分が選んだ集団」に変更する(同じ場合もありうる)ことだから、感情的な条件が整わなければ20歳である必要もない。

別にメリットがあるわけではないが、モラトリアムが目に見えるようになり、年齢によって自動的・強制的に大人にさせられる形式化した二十歳の成人式とは意味合いが変わってくる。

 

どんなに小さな少数民族でも、集団は形成できる。

同じ価値観を共有する手段として「民族」「文化」「言語」だけでなく、「時代」「趣味」「思想」なども共有した「村」と、また「村」同士のつながりを通じてアメーバーのようなつながりを構成する社会構造。

「自然保護」を中心にした生活を共にする場合や特定の「宗教感」を共有している場合などもあるかもしれない。

 

よそ者が受け入れられるには、そのよそ者を印象づける儀式が必要だ。

大学のサークルなどでは新入生が仲間になるために一気飲みをしたり芸をして喜ばせたりするのはその典型だが、「村」では祭りがそういう機能を果たしていたのだろう。

「村」を盛り上げるのは「フォルクローレ的」なものだ。文化であったり独特の衣装や紋章であったり、おそろいのTシャツであったりする。

音楽や踊りがあったり、楽しむ素地を、時には競い合って、時には協力し合って作られていく。

 

人間の価値観は「自分」、「家族」、「近隣」、「国家」「世界」どれを最も大切にするか、それは「自分」である。

 

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