−ブームの火付け役と先駆者たちを追う−

 

日本でその愛好者の先駈けともいえる人達は、どのようにしてフォルクローレの楽器を演奏するに至ったのだろうか。そもそもボリビアペルーといったアンデスの地は遠く、当時日本人には音楽同様、文化や生活習慣など知らぬことばかりの地だった。そこへ先駆者達は足を踏み入れ、彼の地でフォルクローレを実際に学ぶしかなかった。初めて生で演奏を聞き、楽器を手にした時感動はどれほどのものだっただろう。いくら当時国内でフォルクローレが廃れていたとは言え、南米の地に留まり地道に演奏を続けていた音楽家はかなりいたという話だ。そして地元の演奏家達と生活を共にしながら、演奏法やリズムの種類、楽器の作り方などを覚えた。日本へ帰国後は自ら楽器を製作、演奏し、持ち帰った曲の数々を広めようと活動を開始した。

そんな草分け的存在の一人である福岡稔氏は初めてフォルクローレに接する者にいつも暖かいまなざしを注いでくれる。御自身は今も楽器を制作し、主にボリビアから輸入したレコードやCDの販売を日本でやっておられるが、愛好者を集めての普及活動も同時に行っている。日本でフォルクローレがブームになる以前に単身南米に渡り、その後今日の愛好者を支える基盤を創られた功績は大きい。福岡氏の演奏グループである「ロス・コージャス」は、日本人で初めてコンフント(アンサンブル)形式によるフォルクローレ演奏をしたことで愛好者の間では今も伝説的な存在となっている。福島県川俣町で「コスキン・エン・ハポン」というフォルクローレ祭が初めて開催された時も、その記念すべき第一回目に出場された。当時(遡ること20数年)は出場者も極めて少なかったが、それ以降徐々に、だが確実に出場仲間を増やし続けた。「ロス・コージャス」とはちなみにアンデス地方の古い部族である「コージャ族」のことで、彼らの言葉で「誇り高き者」という意味を持つ。

 

そうして「コンドルは飛んでいく」ブームから25年あまり経って今、日本のフォルクローレ愛好者は老いも若きも相当な数となった。アンデスの伝統音楽から新しい音楽まで様々なフォルクローレが、80年代の後半ごろからは気軽に耳にすることができるようになったのだ。また、南米各地からアーティストが頻繁に来日するようにもなった。これはかつてちょっぴりの情報とラジオだけが頼りだった世代には羨ましいことだろう。

そう書くといかにも時代がかったふうに聞こえてしまうが、今日の情報量や正確さは半端ではない。ラテン音楽雑誌に始まり、インターネットにはフォルクローレ専門のホームページやフォーラム(談話室)があり、世代を超えた人達がフォルクローレを題材にあれこれと意見、情報交換を交わしている。そして何より、この10年の間に南米を訪れる日本人が急激に増えたことが、フォルクローレの新しい情報の交換を活発化させ、土地の音楽に対する愛着、親密感を深めている。

中にはフォルクローレに心底惚れ込み、日本に飽き足らず現地で演奏活動をしている人もいるのだ。彼らが地元の音楽家たちと交流を深めることで益々フォルクローレは我々に身近になりつつあるような気がする。

次回は、日本で演奏活動を行う人たちの話題をお伝えしよう。

 

 

−年に一度、夢中人達が集う場所−

 

日本の中南米音楽雑誌やインターネットのフォルクローレ・ホームページに目を通していると、近頃あちこちでアマチュアによるフォルクローレの自主コンサートが行われているのがわかる。それは例えば市町の公民館を借りて行われたり、中南米料理店での演奏だったり、あるいは何かのイベントの一幕に出演などと色々だが、それでも確実にアマチュア演奏家の活動が活発になっているのだ。演奏する側は利益追求ではなく、どちらかと言えば一人でも多くの人に自分達の演奏を聞いてもらいたいという思いから出演を希望する場合が多い。フォルクローレに限った事ではないが、こうした傾向は愛好家の「すそ野」を広げる意味でも積極的にどんどん行われていって欲しいと思う。

 

ところで、個々の活動とは別に、日本全国から愛好家が一同に集まってワイワイするようなイベントはあるだろうか?現在日本の愛好家の間で最も知られているフォルクローレのイベントは、毎年秋深まる季節に福島県川俣町で開催されており、その名も「コスキン・エン・ハポン」。あれ?どこかで聞いたような、と思われた方も多いのでは? アルゼンチンはコルドバ州コスキン市で毎年1月に開催される国内最大のフォルクローレ祭にちなんで(無論、コスキン市の許可を得てだが)その名が付けられ、もう30年近くも続いているのだ。アルゼンチンのコスキン祭が2000年で第40回目であったから、日本のコスキンもよく頑張っている。ただし日本のコスキンはアルゼンチンのとは違って出場者が「プロ」ではない。あくまでアマチュアが対象である。が、もちろんプロの演奏家の参加も大歓迎だ。毎年誰かしらプロの演奏家をゲストに招くというのがここ数年の恒例となっている。はるばるボリビアからも招いたりもしている。

 

福島の川俣町が開催地となった理由は、長年フォルクローレを愛好し、この企画に当初から携わっておられる長沼氏が、出身地である地元の町の風景や気候がコスキン市と似ていることを挙げ決まったと言われる。もっとも、第一回目が開催されたときの出場人数はわずか5グループで、内輪では「芋煮会」と呼ばれていた。要するにわずかな数のフォルクローレ好きが集まって鍋を囲みつつ一晩中語り合ったわけだ。

この時の顔ぶれは今ではフォルクローレ界の重鎮?的な存在、前出の福岡氏をはじめ現在はプロとして活動しておられる人もいる。この内輪の雰囲気は、この後数年続いたというが、徐々に愛好家が増え、全国からの参加者も増えるにつれ、イベント自体も少しずつ大きくなりステージ演奏を中心とした形式に変わった。現在会場となっている川俣文化会館も新たに建てかえられるなど、川俣町の重要なイベントとなったようである。その活動が認められてか、マスコミでもコスキン・エン・ハポンが紹介され、のちに「サントリー地域文化賞」を受賞するに至った。

そうして現在、出場グループ数はざっと300、約1800人もの愛好者が集うまでになった。参加者は長沼氏が指導した地元の子供たち、大学生のグループ、社会人のグループ、親子で演奏、半プロの人たちと様々、北は北海道から南は四国まで実にあちらこちらから愛好者がやって来る一大イベントとなっている。

開催日も2日間に延び夜を徹して演奏は行われる。開催スタッフに混じり大学生が中心となって裏方を手伝い、地元の主婦たちがお弁当や豚汁をボランティアで用意するなど、まだわずかだが「芋煮会」の名残も感じられる。演奏曲は比較的若い世代を中心に変化してきた。それまで好んで演奏されてきたアタウワルパ・ユパンキの曲や各地の古い伝統曲のみならず、若いアーティスト達の新しい曲や特定の国の地方色に「こだわり」を持つ演奏者も出てきた。例えばペルー海岸部の伝統的なマリネーラ、エクアドルのサンファニート、アルゼンチンのサンティアゴ・デ・エステーロのチャカレーラ、ボリビアはポトシ地方の曲といった特徴ある音楽を好んで演奏するなど個性的な面も多く見られるようになった。

また、演奏曲に合わせてコスチューム(衣装)も現地で調達してくる「超こだわり派」が珍しくなくなった。それは、愛好家の意識が単に音楽だけではなく、現地の文化にも向けられてきた事を物語っているのかもしれない。

 

秋深まりゆく季節の川俣の町は、年を追う毎に華やかに、そして賑やかになっていくことだろう。

 

 

−夢中人の音楽生活とは?−

 

さて、日本のフォルクローレ愛好家は日頃どのような形で音楽に接しているのだろうか。

「愛好家」と一口に言っても、中にはただ聞くのが好きだという人もいれば、実際に演奏を始めてしまう人、更には楽器まで作ってしまう人と色々といる。評論好きなんていうのもいるかもしれない。

 

私事をお話すると、私はフォルクローレを聞くのも好きだが演奏するも好きで、大学時代、中南米音楽のサークルに入ったのを機に益々この音楽にハマってしまったのだった。本当を言えば、大学そのものの選択も「フォルクローレの出来るところ」という不純な動機が微妙に働いていたのである。専攻はそれとは全く関係の無い英文学だったが、一日のうちで教室にいる時間よりサークルの部室にいる時間の方が長い、なんてことも珍しくなかった。とにかくその頃の私は少しでも長くフォルクローレに触れていたかったし、それに纏わる知識が欲しかった。サークルの部室にあったありったけのカセットテープを隅々まで聞き、行き帰りの電車の中でも聞いて歌詞を口ずさんでいた。スペイン語も知らないでよくもまあと、今考えると恥ずかしいのだけれど。

ところで、あまりメジャーとは言えないフォルクローレのサークル又は愛好会が存在する大学というのがそもそも少なかったので、関東近郊の大学間では「学生フォルクローレ交流会」なるものが存在し、ことあるごとに共同で活動していた。当時の参加数は8大学。年に2回の定期演奏会をベースに集まり、他にも合同練習会や地方のイベントに参加する際の演奏曲の練習(多い時は40人で合奏)、そして冬休み前には合同合宿も行った。交流会の活動は自分たちも呆れてしまうくらい発表会と演奏の練習が中心で(当たり前なのだけれど)それ以外の遊びが極端に少ない集まりだったと思う。それゆえか「フォルクローレ・バカ」がうじゃうじゃしていて、合宿ともなれば夜を徹して楽器を弾いたり、うんちくを語ってウンウン頷きあったり、かなりマニアな状態だったような気がする。逆に言うと、そこでかなり色々なフォルクローレ・バカと付き合ったお陰で、社会人となった今も気の合った仲間と音楽を続け密接でいられるし、イベントに顔を出せば必ず知り合いがいて懐かしい話とフォルクローレ話に何時間でも花が咲く。

これは結構幸せな事だ。なぜなら学生を卒業した時点において諸々の理由で音楽とは離れてしまう仲間が多い中、グループでの音楽活動を何年もやっていられるのは奇跡に近いからだ。それに東京に住んでいたこともあって情報も集まりやすく、その後のフォルクローレ界の動きも見やすかったのも有難かった。更に縁あって今こうしてアルゼンチンというフォルクローレの本場に居られるなんて、なんて不思議な巡り合わせなのだろうか。

そんなわけで、自分はこの音楽に関して、素質はともかく、かなり恵まれた人なのかもしれない。

 

フォルクローレの演奏はやはり一人よりは数人が集まってわいわいとやる方が絶対に楽しいし長続きする。かつては独学でやってきたという人も、最近は仲間を集い情報交換し、イベントへの参加も積極的にやっていると知って嬉しく思った。公民館や小ホールを借りて演奏会を開いたり、小学校や老人ホームへの慰問演奏も多い。親しみやすいフォルクローレの音色が持つ最大の利点を生かして、これから先もどんどん活動の範囲が広がって行けばと願うのであった。

 

 

−踊りに身を捧げた夢中人達の軌跡とは−

 

 先だって耳よりなニュースがあった。

 「Ballet Nacional Folklorico Argentino(アルゼンチン国立フォルクローレ舞踊団)」が日本に初来日し公演を行ったというものだ。そしてそれがまさに日本のどこか空の下で繰り広げられた!勇ましいガウチョに扮した男達と華麗な衣装に身を包んだ女達がチャカレーラやサンバのリズムに乗せて踊る姿を、フォルクローレ・ファンに限らず大勢の日本人が目にしたことだろう。なんだか羨ましい光景だ。

 

 日本のフォルクローレ界では、今でこそ「音楽」と「舞踊」が切っても切り離せない関係であると認識し始め、ボリビアペルーなど南米各地のフォルクローレ舞踊に関心が寄せられているが、それはまだ最近のことと言える。まして、本格的に活動している舞踊グループは演奏グループと比べても僅かに数えるほどだ。今回はその中でも我々にとって特に身近な「舞踊」をやっているグループを紹介しよう。

 

 「ダンサ・エレンシア」は、日本で唯一のアルゼンチン・フォルクローレ舞踊のグループで、15年前に創設された。創設者の山口勝弘氏は、今から16,7年前の80年代前半にアルゼンチンを単身放浪し、北部サルタ州を訪れた際、運命的にこの踊りと出会ったのだという。そして、素朴さの中に力強さを持つフォルクローレ舞踊の魅力に惹きつけられ、およそ一年間に渡ってサルタのとある田舎町に滞在しながら、サンバやチャカレーラ、マランボなどあらゆる舞踊を習得した。その後、日本へ帰国し、自ら習い覚えたフォルクローレを日本でも広めようと創設したのがこのグループというわけだ。

 この頃の日本では、音楽的には「アルゼンチン・フォルクローレ」がアルゼンチン・タンゴと共に知られていたものの、踊りに関しては全くと言ってよいほど知られていなかったので、山口氏はこの新しい分野の開拓に大いに貢献されたことになる。

 初期の頃のグループは、山口夫妻(奥さんは山口氏を追いかけサルタへ行き、共に踊りを学んだ後結婚したということだ)を中心に、当時すでにフォルクローレを演奏していた社会人や、前出の「学生フォルクローレ交流会」からの大学生の参加者で構成されていた。サルタから持ち帰った数本のフォルクローレのカセットテープと一台のボンボを従え、夫妻は自分達が実際に踊って見せる他に、男女それぞれのパートに分かれて、基本的なリズム・コレオグラフィア(構成)・サパテオ(足技)などを熱心に一つ一つ教えた。また、踊ることの楽しさについても、事ある毎に熱く語った。その熱意が伝わったのか、メンバーの殆どが週に一度の稽古に欠かさず出席していたということだ。

 そうした地道な積み重ねののち、いよいよ福島県の「コスキン・エン・ハポン」で初舞台を踏むことになった。女性の衣装はすべて手作りで、靴はスペイン舞踊用のものを代用し、男性のボンバチャ(ガウチョの作業ズボン)とボタ(ブーツ)だけは山口氏がサルタから持ち帰ったものをありったけ使っての出場だった。

 さて、これまで「フォルクローレ」も音楽演奏一辺倒だった「コスキン・エン・ハポン」のステージに新たに踊りが加わり、観客の反応はどのようなものだっただろう。会場にいた多くの人が初めて目にするアルゼンチンのフォルクローレ舞踊は、さぞや新鮮に映ったに違いない。タンゴにも演奏(歌)と踊りがあるように、フォルクローレにも両者があるというごく自然の事に、あらためて気づかされたのではなかっただろうか。

 

 「ダンサ・エレンシア」はその数年後、山口氏から踊りの魅力を感じ取り、同じようにアルゼンチンでフォルクローレを学び帰国した長野太郎氏がグループのリーダーを引き継ぎ、更なる活動が続けられた。80年代後半、巷では折しも「エスニック・ブーム」に乗って、あちこちで中南米料理のレストランが開店し、サルサ、ソン、スカなどのカリビアン・ミュージックが大流行するなど、ラテン音楽が再び日本で盛り上がった時期だった。日本各地で行われる地方自治体あるいはNGO主催のラテン音楽系のイベントに「ダンサ・エレンシア」が積極的に参加するようになり、「アルゼンチン・フォルクローレ舞踊」の存在もフォルクローレ愛好家の間に限らず、少しずつではあるが世に知られるようになっていった。長野氏は「踊りには生の演奏が不可欠」という原点に立ち返り、のちに「プロジェクシオン・エレンシア」という演奏グループを養成し、本場のフォルクローレにより近い臨場感を舞台の上で実現させることに力を注いだ。

 

そしてこの数年、日本において何度目かの「タンゴ・ブーム」である。1998年はご存知の通り、日亜修好100周年という記念すべき年であったし、日本では「アルゼンチン」の存在がより身近に感じられたはずだ。そうした中で「ダンサ・エレンシア」はアルゼンチン文化を伝えるべく、今後も広くその舞踊を披露し続ける使命を担っていくことだろう。

いつか、故郷・アルゼンチンで踊る日を夢見ながら・・・。

 

 

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