Vamos a las islas de garapagos

 

1部 グアヤキルの熱い夜

 

23時、ブエノスアイレスからサンチアゴを経由して、エクアドル第2の都市グアヤキルへ向かった。到着したのは朝の4時。赤道直下特有の若干ムシムシした空気が、飛行機のタラップを一歩降りようとした途端襲ってきた。乗客は自分達を含め30人にも満たない。しかもその殆どがサンチアゴから乗ってきた出稼ぎエクアドル人とおぼしき男性ばかりだった。

空港では暇を持て余していた係員が待っていましたとばかりに、通過しようとする我々に向かって荷物を開けるようにと指示してきた。これまで何度も南米を旅行しているが、スーツケースを開けさせられたのは初めてブエノスに到着した時以来2度目だ。これから2週間を過ごすにあたって持ちこんだ、やや大きめのスーツケースが目立ってしまったのだろうか。

ブエノスの空港では、係員が中身を見るだけ見て蓋を閉める時は手伝ってもくれず、出口を目前にして焦った思い出があり、そのことを思い返すと何だかとてもイヤな気分になった。案の定、今回もそのパターンで、めぼしい物が無いとわかった途端、実にそっけない身振りで追い払われた。旅の始まりだというのにまったくなんてこった。しかし、これが世界に名だたる観光地・ガラパゴス諸島のある国の玄関だなんて・・・と考えるまもなく今度はタクシーの運転手達が次々と音もなく忍び寄ってきた・・・。

こんなことを言っては失礼だが、彼らの陽に焼けた顔は夜明け前の闇と同化して両目だけが暗い中に光っているという感じで、声を掛けられると恐ろしくて逃げ出したくなった。これは早いところ「彼」を探さなくては・・・。

「彼」とは、出発前からコンタクトを取っていたグアヤキル在住の日本人、鳥居氏のことだ。早朝の到着と言うことで迎えに来てくれているはずが見当たらない。キョロキョロしていると更にまた暗闇から2つの目が近づいてきた。また来た!と目を伏せる私に「お待たせしました!」と日本語が聞こえてきた。

「あれ?鳥居さんですか?」と顔を見ると、どう見ても現地の人としか思えない、やはり陽に焼けて真っ黒になったニコニコ顔がそこにあった。身に付けた白いシャツが対照的に暗闇にくっきりと浮かんでいるのが異様な感じだ。ともあれ、まずは荷物と共に車に乗りこみ、改めて挨拶を交わした。思わず緊張が解けてふうとため息が出た。

 

都市部にしては珍しく、(小さいながらも)国際空港なのに街の中に位置しているあたりはブエノスの国内線空港アエロパルケに近い。けれど、周辺の雰囲気は程遠いものがあった。徐々に夜が明けてきたが、道行く車の数もまばらで人影も少ない。大型のトラックが時折、地響きを立てて通過する。荷台の横に大きなバナナの絵が描かれていて、ここが一大生産地であることを主張しているかのように見えた。

中心地に近づくに従って複雑に交差した道路の脇にはパンや果物を売る屋台が増えてきた。メインストリート沿いのジューススタンドは立ち飲みの人で賑わっている。車内はクーラーが入って涼しいが、外は段々と気温が上昇し、ホテルに着いた時は東京の初夏を彷彿させる湿気を帯びた空気が肌に纏わりついてきた。

冬のブエノスからやって来た身には嬉しいような、ちょっと困るようなこの陽気を、鳥居サンは「今日はだいぶ涼しいですよ。ボクなんか肌寒いくらい」とおっしゃる。赤道直下のエクアドルにも微妙な季節の変化があることなんて全く考えていなかった。

 

 ところでグアヤキルはエクアドル最大の商業都市で、人口は首都であるキトよりもおよそ70万人も多いらしい。日中は人通りが多く、街は活気づいている。

またコーヒー、カカオ、バナナなど熱帯の農産物を諸外国に輸出している重要な貿易港でもある。かつてイギリスからやって来た海賊たちの侵入を食い止めるべく、太平洋にそそぐグアヤス河の上流に建設された街で、訪れた高台には2台の大砲が下流を向く形で残されていた。

我々にもっと馴染み深いところでは、日本の野口英世博士がこのグアヤキルで黄熱病の研究を行い、その功績を称えるべく、今も街の広場には博士の胸像があり、「ノグチ通り」という住所まで残っている。

などなど、鳥居サンのガイドで街を廻りながら、歴史に名を残す名所から人々の生活を支える市場に至るまでを見学した。

市場と言えば、ここは南米でも有数の漁港だそうで、太平洋とグアヤス河の両方から捕れる豊富な魚が至るところに山積みされていた。エクアドルは意外と知られていない「エビの輸出国」でもある。東京の「帝国ホテル」にも高級品として新鮮なエビが空輸されているとはオドロいてしまった。

ぷりぷりと歯ごたえの良い身の部分だけで15センチはあり、ほのかな甘みがあってバツグンに美味しい!昼食時に食べた魚のムニエルも素材を活かしたなかなかの逸品で感心してしまった。マグロも後日、刺身にしたものをいただいたが、エビ同様にアルゼンチンではもちろん、日本でもなかなか出会えない美味しさだった。

ここでは肉より魚の方が断然、食欲を駆り立てる。

やはりスーパーマーケットではなく魚市場に足を運ばないといい魚は求められないそうだ。そういう鳥居サンも魚には薀蓄があって、ちゃんと行きつけの漁港があり、いつもそこで漁師から直接買い求めるという。

鳥居サンは20年近くもグアヤキルに暮らしている数少ない日本人の1人で、現在は旅行社を経営しておられるが、慢性的なエクアドルの経済状態の悪さに辟易しつつも、この街を離れることなく、訪れる観光客を常に温かく迎えてくださっている。どこへ行っても声を掛けられる様子から、地元に深く根ざした生活がうかがわれ、こちらもすっかり安心してしまって、今朝がたの緊張はどこへ行ったという感じになっていた。

 

グアヤキルを1周して戻るとだいぶ日も暮れていた。河に夕日が映えてなんとも美しい。相変わらず湿度は高く、公園で放し飼いになっているグリーンイグアナたちも人々と共に夕涼みを楽しんでいる。夜はグアヤキル名物のマングローブ蟹を食べに行くことを決め、レストランへ向かった。

大阪の蟹道楽そっくりの看板。茹で上がった真っ赤なマングローブ蟹の甲羅は予想以上に堅くて、強化ガラスの上で木槌を使ってガンガン叩き割って食べる流儀もかなりハード。家族連れや恋人同士が皆揃って蟹を叩き割っているのが可笑しかった。鳥居サンが悠々と甲羅を割っている傍らでこちらが蟹と格闘していると、見かねて「僕が割って上げましょう!」と鳥居サンは言うが早いが、目の前の蟹をひょいと持ち上げ、あっという間に身をはずしてくれた。それをお勧めのニンニクソースで食べてみると、淡泊な蟹肉にはちょっと刺激が強い感じがした。レモネードの爽やかさがニンニクを程良く解消してくれた。

格闘も一段落し、ほっとしたところに、流しのギター弾きがやって来た。各テーブルを廻っては1曲披露している。我々の前で、彼はエクアドルの民謡であるパサカージェのリズムに乗せて唄ってくれたが、それがなんだかとても哀しげで、このグアヤキルの熱気を帯びた空気を和ませてくれている気がした。

明日からはいよいよガラパゴスに向けて旅が始まる。

 

 

 

第2部 アンバサダー号での生活

 

エクアドル入りした2日後、グアヤキルの街を一旦離れ、国内線でバルトラ島へ向かう。いよいよ念願のガラパゴス諸島へ。それにしても空がどんよりとして何だか冴えない。赤道直下のカラッとした青空を想像していたのに、ものの見事に裏切られたような気がしてしまった。

旅先の空模様はその土地に対するイメージさえ変えてしまう。されど、徐々に眼下に広がってくるコバルト・ブルーの海は「心配御無用!」と語りかけてくれているようで、何はともあれココロは自然とウキウキしてくる。

 

当然のことながら、ガラパゴスへ向かう人々の目的は皆同じだ。それでも、重たそうなスーツケースをいくつも携え、100%リゾート気分の人もいれば、年に1度の家族旅行と称する一家、老若男女バックパッカー風の人もいて、国籍も交わす言葉も様々。これからの数日間、過ごし方は人それぞれだけれど、願いは1つ。

「ガラパゴスを満喫したい!」

と、これだけなのであった。

 

Frontera entre Venezuela y Brasilさて、バルトラ島の空港に到着すると、まず最初に我々観光客を待ち受けているのが「ガラパゴス国立公園入場料」と称した、1人当たり100ドルの徴収だ。物価の安いエクアドル本土からすると、これはかなりの大金だというのに、空港の職員達はもうそんなこと慣れっこと言わんばかりに右から左へ100ドル札をさっさと渡し、代わりに「入場許可証」と書かれた小さな半券を返してきた。疑うわけではないけれど、この100ドルの行方にどこか胡散臭さ感じるのは自分だけだろうか。本当にこのお金が自然保護に使用されればいいのだけど・・・と心の中で願いつつ空港を後にする。

 

そこから港までの1本道の両側は、赤茶色の乾ききった土地が延々と続いていた。

送迎バスはオンボロで今にも破壊寸前、先ほど徴収された入場料は、どうやら観光客の運搬には全く還元されていないらしい。窓から容赦無く土煙が入って来た。運転手はラテン系ノリノリ・ミュージックを聞き、鼻歌を歌っているが顔はちっとも楽しそうではなかった。ここまでの個人的な印象を言うと「エクアドル人は根っから陽気な人々ではない」。

 

まもなく海に浮かんだ数隻の船が姿を現し、桟橋にはボートが待機していて、それぞれ乗客は事前に予約した船ごとに別れてボートに乗り込んだ。海風が心地良く感じられ、カモメが飛び交っている。目指す船は・・・あった!1番遠くにある、1番大きな客船、その名は「アンバサダー号」。想像以上に船が立派なので驚いてしまった。

ガラパゴス・クルーズには大小様々な船があり、目的や予算、快適性などで選ぶ。船上での滞在日数が長ければ、やはり大型船の方が楽だし、大勢の宿泊客らと接する機会があるので、話し相手には困らない。逆に、大勢と居るのは苦手で、こじんまりと過ごしたい、行きたいところを比較的自由に廻ってみたいし釣りもしたい、なんていう人は小型船を選ぶといいだろう。但し、波で相当揺れることは覚悟がいりそうだ。幸い、船酔いは全くしない性質なので、いずれを選ぶことも可能だったが、せっかく1週間も滞在するのだからと、ここは迷わず大型船を選んだ。

アンバサダー号は160人乗りで、船室はデラックスから普通の部屋まである。160人乗りだが、国立公園の規定によりクルー68名を含む154人(従って宿泊客は86人)までが乗船可能。医師も常時乗り合わせている。これで万が一、不覚にも船酔いしたって大丈夫!

 

早速、船内を探検。まず1番上のデッキ部分に上がると、小さいながらプール(海水を使用)とカクテル・バーが付いていた。クルー達がデッキの床をモップで磨きながら「やあ!」とこちらに向かって手を振った。外階段で降りると、下は広いレストランで窓からの見晴らしは上々!(あとは食事が美味しいことを祈るばかり?!)うん、なかなか快適そう。肝心の部屋は、壁の小さな丸窓から海が見えるし、シャワーもトイレも付いていて引き出しとクロゼットもある。運び入れてもらった荷物を簡単に仕分けした頃、全館に「サロンへ集合せよ」との放送が入った。

 

サロンでのウェルカム・パーティーではまずカクテルが配られ、キャプテンを筆頭にメイン・クルーの紹介があった。今回のネイチャー・ガイドは4人で、皆、自然保護とガラパゴスについて教育を受け、特別な資格を持ったスペシャリストであり、この資格が無いと島でのガイドは出来ないそうだ。

続いて、旅の無事を願って乾杯した後、我々は全員、英語・スペイン語・フランス語のグループに分かれ、今日から数日間の過ごし方などについて説明を受けた。我々としては、こういう場合は英語とスペイン語の両方で解説があると1番ありがたいのだけれど、どちらかを選べと言われてスペイン語を選んだ。集まった8人の内訳はスペイン人とコロンビア人と日本人(我々)。あとになってイタリア人が参加して更にイタリア語の解説が付いたが、こちらにはちっとも有り難くなかった。というわけで、1週間このメンバーで「ドルフィン」チームを結成して過ごすこととなったのだった。

 

 

 

第3部 島で出逢った動物たち(1)

 

乗船を果たしたその日の午後、いよいよ待望の「ガラパゴス諸島探検」は始まった。

1度上陸するとツアーが終了するまで船に戻ってこられないので、準備を万全にして集合場所へ赴く。

我々ドルフィン・チームは4グループの最後に出発(A-Albatrossカモメ、B-Boobyカツオドリ、C-Cormorant鵜、D-Dolphin イルカの順にまずは出発したのだが)、アンバサダー号から島にアクセスするために小型モーターボートに乗りこんだ。めいめい救命具を身につけ、甲板にいたクルー達の見送りを受けながら、ボートは海原を一直線に突き進んだ。海風がさっきよりも更に強く頬をかすめる。すでに3時だったが日差しはまだまだ強烈に照りつけている。やはりここは赤道直下だ。額の辺りがジリジリと焼けるのを感じ、もっと日焼け止めを塗るんだった!とちょっぴり後悔したがもう遅い。

飛沫をあげながら目指すノースセイモア島に向かって進むうち、空高く飛び交う鳥の群と早速出逢った。昔流行ったゲイラカイトという凧に似たシルエットを持つその鳥の正体は、ガイドの指示に従って島に降り立った途端すぐ判った。

ごつごつとした岩場のあちらこちらで羽を休めているその鳥はオオグンカンドリといい、真っ黒な羽を広げるとかなりの大きさがある。と、目の前をふわりと音も立てずに通過し、その瞬間、オオグンカンドリの喉元に真っ赤な袋がついているのに気が付いた。

すぐに取り出せるようにとあらかじめ用意しておいたカメラをさっと鳥に向けるが、シャッターチャンスがうまく掴めない。なんとか赤い袋を真っ正面から撮れないものかなー。同じグループの人々もこぞってパシャパシャとシャッターを切る。すると、そんなこちらの思惑を鳥の方も心得ているのか、今度はゆっくりと風に身を任せるかのようにふわっと正面から近づいてきてくれた。赤い袋をゆらゆらと揺らし、堂々とした様子で頭の上を通過して、島の奥へと去っていった。

オオグンカンドリのオスはこうして喉元の赤い袋を膨らませてメスが来るのを待っているのだという。きっとみな、空の高いところからとびきり美人(美鳥?)のメスを探しているに違いない。空に向かってパシャ。目前の通行人(鳥)にパシャとシャッターを切る。

 

Iguanaところで、この最初に降り立った島は、緑が極端に少なく岩ばかりが目に付く場所だった。世界でも有数の「動物達の楽園」がこんな状態でいいのか?なんて疑問に思わせるくらい、荒涼とした風景だった。

船上の話だと、ガラパゴス諸島はおよそ5万年前の火山活動によって海面に浮上した大地で、その後も火山は何度となく活動し続けた故、島の多くは溶岩の流れ出た痕が今も生々しく、樹木が生い茂る要素はほとんど残されていないということだった。したがって「楽園=緑が豊か」という、私の中の無意識で漠然としたイメージは見事にうち砕かれ、目の前に広がる光景はその事実を更に決定づけるものとなった。そっかあ、とがっかりしたわけではなかったが、正直なところ何か腑に落ちない感じがした。でもまあ、この島だけで「ガラパゴス」を語るわけにはいかないし、心外だと決めつけることもしたくない。実際、私はこの最初の島の入り口だけで既にフィルムを一本使ってしまったではないか!旅にはそんな気持ちの切り替えもきっと大事なのだ。そうでなければ楽しみだって半減してしまう。

 

とかなんとか考えを巡らしつつ、島をずんずんと進む。各島には上陸できる人数が決まっているので、それをクルーザー同士がトランシーバーで連絡を取り合って順番に行う。島では杭の打たれた細い道らしきものから人間がそれて歩くことは禁止されている。写真を撮ろうとうっかり大きく外れるとガイドから注意され、その姿は幼稚園か小学校の遠足に限りなく近い。ガラパゴス諸島ではとにかくそこに生息する動物たちが守られ優先され、観光客はそれに従わなくてはならないのだ。例えば歩いていると突然、足元に鳥が現れる。まったく人を警戒した様子がないので、こちらも近づく。でも決して触れたり脅かしたり餌をやってはいけない。そもそも食料の持ち込みはもってのほかで、人間はゴミ捨てはおろかトイレだって我慢なのだ。こうして動物たちは守られ、人を恐れない自然な状態で生き生きと暮らしている。これこそが「楽園」と呼ばれる故なのだろうと妙に納得したのだった。

 

島の内陸からは奇妙な声が聞こえてきた。ヒューヒュー、ヒューヒュー。誰かの吹く下手な口笛にも聞こえる。それが段々近づいてきた。ふと見下ろすと、道にちょこんとアヒルくらいの大きさをした鳥が、とんがった嘴を空に向け鳴いているのだった。その足は他で見たことのないセルロイド・ブルーをしていて三角形の水掻きがついており、目はまん丸でひょうきんな顔立ち、薄茶の羽毛はしっかりと生え揃っている。その名もアオアシカツオドリ。

Pata Azul口笛を吹いていたのはオスで、鳴きながら両方の翼を直角に立ち上げ、しかも器用にゆっくりと片足ずつ持ち上げ足踏みを繰り返しているのだ。その愛嬌たっぷりの仕草と鳴き声に「かわいい!」とあちこちで歓声があがった。私も思わず目の前の「彼」にパシャ。ところが、そこに登場したメスといえば、オス同様に翼を広げてはいるものの、「グェーッ!」と、かすれ気味のかわいくもなんともない鳴き声の持ち主だった。2羽は互いに仲良さそうに鳴き声を確かめ合い、いつまでも求愛のダンスを踊り続けていた。人間などまるで目には入っていないかのように・・・。

 

島はとにかく鳥だらけ。風に乗って飛んでくる羽毛がふわふわと鼻をくすぐり、鼻炎持ちにはちょっとしんどい気がした。この島だけで生息数が10万羽は軽く越えるだろう。鷹に似たするどい目のガラパゴスノスリは遠くからこちらをじっと見つめている。オオサギたちは細い足で木にひょいと止まったり岩から岩へ歩いて渡ったりと芸人のように軽やかだ。

繁殖期のまっただ中、恋愛中の鳥、低木に築かれた巣の中で卵を温める鳥、そして周囲からそれを守る鳥がいる。波の音と無数の鳥たちの鳴き声以外には風の音しか聞こえない不思議な島。自分もいつの間にかカメラをおき、はしゃぐことを忘れ沈黙していた。太陽は次第に傾き、水平線の上にもうあと数センチで消えてしまいそうなところで燃えていた。

 

船に戻り甲板に出ると、一足先に戻ってきた乗客達が既にくつろいだ雰囲気で話に花を咲かせていた。「いやー、参ったわねえ、島中どこも臭くって・・・」と、そんな会話が耳に入ってくる。白い月がうっすらと天を飾っている。さっきまであんなに賑やかだった鳥の群れも自分たちの寝床に帰ったらしい。

船はその場に停泊し、夜のうちに少しだけ移動するという。波にまかせて静かに揺れる船のデッキで、今日の「訪問」を再び思い返し、これから先どんな出会いがあるのだろうとちょっぴり楽しくなってきた。でも今回の旅の間、私はきっと鶏肉だけは口に出来ないだろうなあ・・・。

 

 

第4部 島で出逢った動物たち(2)

 

7時。目覚まし時計の替わりに艦内放送が一斉に流れる。女性の声で「ブエノスディアス。皆様、良くお休みになれましたか?・・・」。しかし昨夜は初めての船中泊ということもあり、どうにも寝付けないまま朝を迎えてしまった。波の小刻みな揺れが船底を伝って、ベッドに横たわる私の眠いはずの脳を刺激するのである。早いところ船上生活に慣れないと先が思いやられそうだ。

 

洗面を済ませ食堂に行くと1番乗りだった。朝日の差し込む窓際のテーブルに座って、明るい外の光景を見つめた。

船は夜の内にほんの少し移動したらしく、昨日と眺めが変わっていたが、相変わらず世間から隔離されたかのような穏やか過ぎる空気が自分を取り巻いていて、お腹の底からほっとため息をつく。

 

8時半。今日は2日目の上陸だ。班ごとに分かれて船からボートに乗り込むのは昨日と同じ。これから訪れるサン・クリストバル島は動物学者チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島の中で最初に上陸した島と言われている。白い小さな砂浜にボートは横付けとなり、手荷物を持って我々は靴を脱ぎ、裸足で上陸したが、ふと海水に足先が触れると、予想外の冷たさにみな叫び声をあげた。このあと島を一巡りしたら、砂浜で自由時間があるのだけれど、こんなに水温が低いのではおちおち泳いでもいられなさそうである。徐々に水温が上昇してくれるのを祈った(実際はほとんど上がらなかったが)。

 

さて、島は昨日にも増して岩がごつごつとしており、しかも踏むと簡単に砕けてしまうほど脆い。これは日中と夜間の気温差が激しいために起こる現象だという。岩の間をちょろちょろと小さな可愛らしいトカゲが走っている。ヨウガントカゲといって、ガラパゴス中のどの島にも生息し、しばしばイグアナの頭にちょこんと乗って日向ぼっこする姿も見かけた。セットで「美女(トカゲ)と野獣(イグアナ)」なんて名付けたくなってしまう。

 

この島は比較的大きいため、全行程の4分の1ほどを歩くことになった。島の奥の林ではアカアシカツオドリが営巣しており、先だってのアオアシカツオドリとは対照的に真っ赤な水掻きの付いた足で器用に枝に止まっている。アオアシの方は地面に座り込んで卵を温めるが、こちらは木の上だ。両者を比べて、なんとなく愛嬌の点で言ってもアオアシの方がポイント的に高い。

 

Lobo Marinoしばらくすると広い砂浜が見え、そこに無数のアシカが所狭しと横たわっていた。近寄ってもズーズーと気持ちよさそうに寝息を立てているか、片目をちょっと開けてこちらを見たあと、また何事もなかったようにゴロリンと寝返りを打つので、撫でても大丈夫そうな気さえする。ところがちょうどその時、雄(オス)が海から戻ってきた。身体の大きさは雌(メス)の3倍はあり、濡れた巨体がキラキラと黒光りしている。大きな雄叫びを挙げながら、自分のハーレムにのさばる他の雄を威嚇しているようだ。あっという間にもう1頭を追い出してしまった。

 

Iguanaこの日の午後、我々はエスパニョーラ島を目指した。ピンと切り立ったスワレス岬が見え、周囲をオブジェのような奇岩が囲んでいる。押し寄せる波がこのような造形を生んだのかもしれない。低い岩場に、この島固有のウミイグアナが折り重なりながら日向ぼっこをしていた。表皮に黒と赤のコントラストがはっきりとしたイグアナで、じっとしたまま、ほとんど動かず、時折、鼻から潮を勢いよく海に向かって噴き出す。その姿は小型恐竜そのものだ。岩の至る所にいるので、気を付けないとうっかり踏んでしまう。小さな蟹が折り重なる彼らの上を平然と横切っていった。

 

島の奥は、全てのガラパゴスアホウドリの営巣地だという。潮の臭いに混じって鳥の独特な臭いも漂ってくる。慣れたつもりでいても、やはり鼻を突いてくる。目に飛び込んできたその数は確かに凄かった。軽く1万羽はいるだろうか。面白いことに、アホウドリの大半が既に「つがい」になっており、互いの嘴をコツコツと叩き合って愛を確かめているのだ。また、ふわふわした体毛を風になびかせながら親鳥に餌をねだる雛の姿もあった。訪れた人間などには見向きもしないでいる。

自分たちの愛をはぐくみ、生活を守る必死な様子は純粋そのものだ。アホウドリの優しく、おっとりとした顔立ちを見ていると、なぜかこちらの気持ちが次第に和んでゆくから不思議。それにしてもなぜ彼らは「アホウドリ」なのだろう。

 

今日もまた一日が終わってゆく。日々、動物たちと戯れながら。

 

 

第5部 「チェ、ビステ!」が意味するもの

 

船の生活は日を追うごとに慣れて快適度が増し、"勝手知ったる空間"と化してきた。というのは、上陸後は常に班ごとに行動、そして集合時間に関しては「厳守」が大前提の毎日だが、それ以外はまったくのんびりとしたものだからだ。朝早く起きて夜も10時過ぎに寝る規則正しい生活も身に付いてきた。なにかと宵っ張りなブエノスアイレスの日々とはエラい違いである。

船のスタッフも気さくに話しかけてくるが干渉は無く、1人で居てもホテルと違って孤独を感じることがないので、こちらの好きなように過ごせるのが何より良かった。お気に入りはオープンスペースの小さな図書室(と言っても、乗客が置いていった単行本の類がざっくばらんに並べてあるようなものだが)の長細いソファーに座って窓の外を眺めつつ、傍らに設置されたコーヒー、紅茶コーナーから好きなものを取ってきて、飲みながらボーっと過ごすことだった。そんなふうにしていると、すぐ傍の階段をつたって人が出入りするので、少なからず挨拶を交わし、そのまま話し込むこともあれば、相変わらず自分たちだけでゆっくりとしていることもあった。

ある時、デッキのテーブルで、ブエノスから持参したクレヨンを使って絵はがきの裏にガラパゴスの動物たちを思いつくまま描いていたら、スタッフや数人の乗客が集まってきて、「これはよく似ているぞ」「こっちはちょっと不思議な顔をしてないか」だの何だのと品評会もどきとなったりした。絵を描くのは好きだが、毎日間近で動物たちを見ているスタッフにいざ見られると、いささか緊張してしまう。特にイグアナの顔は、描いた自分が見ても不細工なのだけれど、スッタフの一人は「確かにこんな顔をする場合もある」と、よくわらないフォローを入れてくれたのが嬉しかった。

 

彼らの中には、我々が日本からではなくアルゼンチンからやって来たことに興味を持つ人もいて、アルゼンチンのことが度々話題にあがったが、南米の他の国からやって来た人たちは決まって「チェ、ビステ!」を連発する。

このアルゼンチン人独特、と言えば頷けるようなフレーズ"Che, viste!"(英語の"you know"に当たる表現)を外国人から言われるのは、これが初めてではない。実はこれまでにも幾度かあり、以前、マイアミ行きの飛行機の中で、席が隣り合ったイタリア人にも同じことを言われた。皆、その言葉が余程耳についたのだろうか。考えてみれば自分もアルゼンチンに来た当初は、その語感に「はあ?」と思ったものだが、いつの間にか耳慣れてしまったばかりか、今では時折、自分も使っていたりする(ただし相手に対して「チェ」と呼びかけることには未だ抵抗があるけれど。そういえば、キューバ革命の英雄でアルゼンチン人のチェ・ゲバラが、本当は名前をエルネストと言うにも拘わらず、この「チェ!」を連発するために、こう呼ばれるようになったのは有名な話だ)。

 

私も他の南米各国へ出向くと、そこで常用している語句を新鮮に感じることが度々ある。船ではスタッフが皆、TU(二人称単数で「君」)で話す。コロンビア人の夫婦もエクアドル人の女性2人もお互い話すときはTUと呼び合い、自分はといえば、昔むかし習ったスペイン語会話を思い出しつつ必死でTUの動詞活用を思い浮かべながら冷や汗をかく始末だ。なぜなら、アルゼンチン、ことブエノスアイレスでは文法がちょっとばかり異なるからである。

もちろん彼らは私がVOSと言ったところで十分理解はしてくれるけれど、なんだか彼らと違う言語を話しているようで居心地が少しだけ悪い。外国人の「チェ、ビステ!」連発も、皮肉を込めて言っているような気がして、自分はアルゼンチン人ではないけれど、どこかいい気分はしなかった。この感覚はとても奇妙で、自分のことながらよくわからない感情である。

また、自分の発した一言から「あなた、アルゼンチンから来たんでしょ?」と判断され、「そうだけど、なぜわかるの?」と尋ねると「その尻上がりの語調は絶対アルゼンチンよ!」と断言されてしまうこともしばしばあって、その時も何とも言えず複雑な心境に陥る。いったい、彼らの中のアルゼンチン人像って・・・と思いを巡らすほどに、それじゃあ私自身はアルゼンチン人をどう思っているのか?が、ふと疑問に思えてきてしまうのだ。

 

話は変わるが、アンバサダー号のスタッフに言わせると、年間にガラパゴスを訪れる外国人はアメリカ人が最も多く、次いでヨーロッパ、日本だそうで、アルゼンチン人をはじめとする南米諸国の人々は本当に数えるほどしか来ないとのことだった。地元・エクアドル人に関しては、他国との経済格差の理由から(ガラパゴス旅行は世界的にも高い旅行と見なされているため)特別の料金設定がされているが、それでもなかなか訪れるのは難しいらしい。

首都であるキト出身の女性乗客2人も、動物園以外でゾウガメやペンギンを見るのはこれが初めてだ、と話してくれた。実際、我々のグループがイサベラ島に上陸する直前にガラパゴスペンギンがヨチヨチと現れた瞬間、立ち上がってもっとも興奮していたのは他でもない、彼女たちだった。

ペンギン好きの私ももちろん興奮気味だったが、2年前に訪れたアルゼンチンのバルデス半島では、野生のペンギンが手の届きそうなところに何千匹といたし、どちらかと言えば「久々の再会」的な気持ちが強かった。ガラパゴスペンギンは、その昔フンボルト海流に乗って遠く南極から渡ってきて、そのまま島に棲み着いたというから、私はすでに彼らの「縁者」にアルゼンチンで会っていたことになる。そう考えると、アルゼンチン人がわざわざガラパゴスへやって来てペンギン達に会うことは無いのかもしれない。

やや強引かもしれないが、アルゼンチンにはガラパゴスに匹敵する動物たちの楽園が存在し、それは大いなる観光資源であり国民の誇るべき財産として既に確立しているから、案外そのあたりでアルゼンチン人の足がガラパゴスに向かないような気がするのだ。

それに、自然保護に関心の高い国の人々と比べると、やはり関心度の点から言っても低いのだろう。だが、それはアルゼンチンだけのことではなくて、南米諸国全体に共通して言えることでもあるのだ。せめてガラパゴスの所有者であるエクアドル国民には、自国のかけがいのない自然を守るためにも、一人でも多く島を訪れ、その目で大切さを知る必要があるのかもしれない・・・。

 

ところで今回の我々のガラパゴス訪問は、果たして日本にカウントされるのか、あるいはアルゼンチンにカウントされるのか、いったいどちらなのだろう?

 

 

第6部 旅が与えてくれたもの

 

 

いよいよ8日間に及ぶ船の旅も終盤に近づいてきた。

1日に2度のガラパゴス諸島上陸で、様々な動物や植物と出会い、自然の圧倒的な生命力に驚かされた。島のあちこちに見られる溶岩流の作り出した造形美、それを当たり前にように住処(すみか)とするアザラシの群れ、遙か彼方からの訪問者・ペンギン、太古の住人・イグアナ、空を自由自在に駆けめぐる鳥たち・・・そして忘れてはならないのが、この島を「ガラパゴス」と言わしめたものーゾウガメたちだ。

 

ゾウガメ島にある「ダーヴィン研究所」を訪れた。そこはダーヴィン財団が「島固有の生物の個体数を復活させる」ことを目的に1964年に活動を始め、今はガラパゴス諸島の重要かつ中枢的役割を担う機関となっている。中でもゾウガメの個体数の管理に力を入れており、現在は研究所内で卵をふ化し、5歳まで育てた後、ゾウガメの生息地であるエスパニョーラ島などへ戻しているのだった。

かつて最初の航海者達は、島に生息する無数のゾウガメを見て「ガラパゴ(ゾウガメ)のいる島」と呼び、その名が定着したという。そして上陸と共にゾウガメの乱獲が始まり、あっという間にその数は激減してしまった。今では研究所内にいる「ロンサム・ジョージ」と名付けられた、年老いた雄のゾウガメがビンタ島でたった1匹発見されただけで、もうこの世に彼の仲間はいない。

研究所はアメリカが中心となって活動しているので、島の環境保護に関しても非常に厳しく取り締まっているようだ。例えば、ゾウガメのいる島へは普通の観光客は立ち入ることが出来ない。島の奥地で遠いこともあるが、それ以上になるべくゾウガメを自然のままにしておきたいからであろう。

 

さて、そのゾウガメ達は研究所の中庭で日向ぼっこをしていた。体重およそ200キロ、環境に適応するため長く延びた4本の足、盛り上がった甲羅とそこに刻まれた年輪、眠たそうな眼・・・。巨体をゆっくりゆっくり引きずるようにして動く姿は、やはり「島の主」だった。外敵を怖れず、その力強い甲羅で我が身を守りつつも、上陸してきた人間達を前にただじっとしているしかなかった運命を、さぞ哀しく思っていることだろう。でも、この先誰も彼らのサンクチュアリー(聖域)を犯すことは無いと信じたい。

 

研究所のあるサンタ・クルス島は、ガラパゴスで唯一住民がいる島だ。島には民宿や土産物屋、食堂が軒を連ね、米ドルも流通している。船旅をしない人はここを拠点にして各島にアクセスすることが出来る。また、島民のための小中学校や病院、スーパーマーケットなどもある。

思い出したことがあった。数日前、我々のガイドが「島民が生活汚水を海に垂れ流ししている。深刻な環境汚染に繋がる」と語っていたのだ。島のすぐ近くにもアザラシは泳いでいるし、魚も沢山いる。自分たちの大切な観光資源を自分たちで傷つけていることに気づいているのだろうか。島の子供達は底抜けに明るいけれど、島の将来は・・・と、心配になってしまった。

 

ガラパゴス諸島へは遡ること数百年、ヨーロッパを中心に様々な国籍の航海士らが訪れた。それを物語るように、幾つかの足跡が島には残されている。その1つに、航海時代に使用された「ポスト」があった。長い航海の間、故郷の家族へ思いを馳せた男達が手紙を書き、それを「ポスト」へ投函すると、次にそこを通過した誰かがその手紙を自国に持ち帰り、そこから宛先の住所へ改めて投函したという。その習慣は今も残されていて、我々が立ち寄った際にポストの蓋を開けてみると、過去に訪れた観光客らが書いた厚い手紙の束が出てきた。その中から私は「アルゼンチン行き」の手紙を探し、もし見つかれば持ち帰って投函しようと思ったが、残念ながら1通も無かった。自分自身も友人に向けて1通の手紙を書いたが、いったいいつ手元に届くことやら。その朽ちかけた手作りの木製ポストは、終わりのない役割をこれからもずっと続けていくのだ。そこだけ時が止まっているかのように。

 

ガラパゴス諸島の夕焼けさて、すべてのツアーが終わり、船旅の最後の夜、シェフが腕を振るった料理の数々がテーブルを飾った。船長の挨拶があり、乗客全員で旅の終わりとスタッフへの感謝を込めて「サルー!」と乾杯。料理の中にはアザラシやペンギンを象ったものもあり、食事の間はこの8日間の思い出話で乗客同士の会話が尽きなかった。食事について言えば、毎日繰り返し出てくる、クミンの香りのきついスープやエクアドル料理に少々胃が疲れていた感はあって、「早くみそ汁が飲みたい!」などと、普段ブエノスにいても口にしないワガママが出てしまうほどだった。それでも、さすがに海の幸は美味しく、これらがもう食べられないのかと思うと本当に寂しかった。

 

食事が済むと、大広間で乗客、スタッフすべてを集め「お別れ会」が行われた。各国の乗客がそれぞれチームを作り、お国芸を披露しようと言うもので、ハテ我々はどうしたものか?と考えた。我々の他に途中から乗り合わせた日本人が2名いたので、声を掛け一緒に何か出来ないかと尋ねたが、2人は首を横に振って何もやりたがらない(こういうことを好まない国民は他にもいたから無理強いは出来ないとは思ったけれど・・・)。それで迷った挙げ句、何もやらないのはイマイチと思い、我々は「アルゼンチンを代表」して、私がギター、夫が踊るという構成でアルゼンチン・カウボーイの踊りである「マランボ」をやることに。初めてマランボをみる乗客も多かったのだろう、ぶっつけ本番にも拘わらず、ありがたくも拍手喝采だったけれど、終わってから冷や汗が出た。アメリカ人らによる「埴生の宿」の合唱やスタッフら(エクアドル人)の国歌斉唱が続き、後でコロンビア人夫妻による本場の「クンビア」ダンスのなどもあって、会は大変盛りあがった。終了後、それまで話すことの無かった乗客から「アルゼンチン、ベリーグッド!」と肩を叩かれ、まあいちおう国際(文化?)交流になったかな、と苦笑しつつ、南米生活で身についた度胸と愛嬌がちょっとは役に立ったことを誇りに思ったりした。

 

アルゼンチンを拠点にあちこち駆け回って、自分が気づかぬ間に少しずつ鍛えられていくのを感じる。ガラパゴスの旅は、そんな自分自身をどこか再認識し、自然観や人生観(と言ったら大袈裟だろうか?)を今一度見つめ直す、貴重な機会を与えてくれたのだった。

 

  第7部: キト〜バニョス、そして再びグアヤキルへ

 

エクアドルの首都・キトはアンデス山中の標高2800メートルに位置する。

 

ガラパゴスのクルーズで海抜ゼロメートルに居続けた我が身は、この突然の標高差にすぐに反応してしまった。脳天がじんじんする。口がぱくぱく小刻みに開いてしまう。生あくびが頻発する。などなど。

これはまさしく「高山病」の症状に他ならない、が、幸いにも致命傷には至っていなかった。ボリビアのラ・パス(標高3500メートル)では、飛行機を降りて程なくより頭痛に耐えられず何度も吐き気をもよおし、どうしようもないくらい苦しかった。だから、その時の教訓として「キトに着いたら必ず一度は標高の低いところに行って体を休めよう」と考えていた。そうして選んだ場所は「バニョス」という、あまり有名でない「温泉地」であった。

 

バニョスへはキトから長距離バスでおよそ6時間の行程だ。決して近いとは言えないが、この間にだいたい1000メートルは低いところへ移動できる。

朝から曇り空だった。山の天気は変わりやすく、移動中は雨が降っては止み、また降り出して、の連続で、外の光景もひどく淋しげに見えた。

おまけに気温が下がる一方で、持参していた中で1番厚手の服を着てもまだ寒いかった。頭の中では、熱い温泉の湯に浸かる自分を思い描き、うっとりとするのだが、通り過ぎる町々を見ていると、期待しすぎは禁物かもしれないと思うようになってきた。

 

サラサカという名の町に差し掛かった。あたり一面に畑が広がり、小道を野良犬が歩いている。休憩で止まっている間、畑を覗いてみた。マメが数種類とカボチャ、トマトなどが植わっていて、それらを鍋で煮ているような臭いがしてきた。と、向こうから裸足に黒っぽい服を着たインディヘナの女性がやって来て、無表情に通り過ぎた。手には羊毛の糸巻きを持ち、もう片方の手で器用に紡いでいる。その姿はキトで見たインディヘナ女性に比べると、ひどく貧しげだった。文明とは無縁の生活が、まだここにはあるのかもしれない。

 

それから1時間で、目的地のバニョスに到着。すっかり雨は止み、今度は靄(もや)がかっている。

町はずれのロッジの前に滝があった。その光景が昔、修学旅行で訪れた日光に似ていて不思議な気がした。滝の下は公共浴場になっていて、白い湯煙がもうもうと立ち上がっているのが見える。

早速、着替えを持って浴場へ向かった。入浴料金は1人だいたい1ドル。最近値上がりしたそうだ。2階建てになっていて、上が温水プール(昼間しか開いていない)、下が野外の大円形風呂のようになっていた。そこに水着着用の男女が浸かっている。よく見ると外国人ばかりだった。ヨーロッパのバックパッカーがバニョスへ良く立ち寄ると何かのガイドブックにも書かれていたので、おそらく彼らもそうなのだろう。地元の人は親子が2組だけ。お湯の温度はそこそこ熱く、冷え切った手足が痺れるのを感じながら肩まで浸かると、その時初めて空に月が出ていることに気が付いた。

 

今までにアルゼンチン、ボリビア、ペルーでも温泉に浸かった。もともと温泉好きで、出来れば南米のあらゆる温泉に挑戦してみたいと思っていた。どこも決して設備は立派ではないし、すごく清潔とは言えないけれど、日本人と同じ「暮らしの中で温泉に入る人々」が日本の反対側にもこうして存在している、このことがとても興味深いのだ。インカの人々は昔から温泉を愛していたと言うから、メンタリティーは日本人とよく似ていたのかもしれない、と想像してみる。

 

ここでは温泉以外に目的はなかったが、周辺にはもっと大きな滝もあれば「悪魔の喉笛」と呼ばれる滝壺もあるというので、翌日はそこを目指した。車で近くの村まで行き、あとは歩いて山を下りなければならない。野生のインパチェンスの花が咲き乱れる野道を30分も歩くと、滝が見えてきた。足場が悪く、滑りやすいので気を配りながら進むと、「悪魔の喉笛」が目の前に現れた。イグアスの滝のそれより間近で見られる分、なるほど、迫力もあり、落っこちたらひと溜まりもなさそうだ。遠くに吊り橋もあり、高所恐怖症気味の私はそれには遠慮したいところだったが、最後はその橋を怖々と渡って、反対側から車に戻ったのだった。

 

さて、バニョスに2泊したのちキトへ戻ると、前よりも高山病の症状がずっと軽くなっていた。だが、これから再び旅の出発地点である港町・グアヤキルに戻らなくてはならない。

 

またも、あの東京の夏のような気温が待ち受けていた。空港に出迎えてくれた旅行社の鳥居サンの日に焼けた笑顔を見て、たった2週間前なのに懐かしさが込み上げてきたのと、15日間におよぶ長かったエクアドルの旅がまもなく終わろうとしているのを感じずにはいられなかった。

 

グアヤキルで鳥居さんの他に忘れてはならない人がもう1人。ギタリストの小林隆平さんがその人だ。もう20年以上もグアヤキルで暮らしながら国立音楽学校で教鞭を執り、プロギタリストとしての活動もしておられる。偶然だが、過去に出版された彼の本を私は持っていた。今回の旅で知り合い、その演奏を聞くことなくアルゼンチンに帰らなければならないのが我々には残念でならなかった。それを悟ってか、最終日に小林さん自ら最新作のCDを「記念に」といただいた。(・・・素晴らしい音色だった。いつか、このブエノスアイレスで本物を聴ける日が訪れるのを願わずにいられない)

 

帰りの飛行機の中でパスポートを取り出し、押されたばかりの出国スタンプを眺めた。そして、スタンプ1つに納まりきれないほどの思い出を静かに噛みしめて、一路、ブエノスへと向かった。

終わり

 

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