LA COMUNIDAD JAPONESA EN ARGENTINA

 

アルゼンチンに住む日系人について少しご紹介致します。

 

アルゼンチンにいらっしゃる日系人の方は現在約35,000人ですが、多数の人は移民したかなり初期の段階から花卉業(園芸)、クリーニング屋を営んでいます。

花卉業を営んでいらっしゃる方々は、ブエノスアイレス市から北へ50キロ程のところにあるエスコバル市の花市場を中心に栽培した花を卸しています。

クリーニング店を営む方々は、住宅地で衣類を集めるという商売の性質上集まって住むことはなく、組合は作っているものの各地にバラバラに店を構えて住んでいます。

 

アルゼンチンに移民された方は、ほとんどが沖縄の出身の方で、その他の県人会も組織されていますがなんといっても沖縄が最大です。

第二次世界大戦末期、沖縄戦が激しく展開され、その後も1972年まで米軍の統治下にあったことから、沖縄県出身者の間では日本語よりも英語を覚えなければとの空気が広がり、2世、3世に対する日本語教育熱は急速に冷め、もともとクリーニング屋などでバラバラに住んでいた事もあってアルゼンチン日系人の日本語能力は急速に衰えていきました。

これは日本人と見ると尊敬され、日本人街を形成していたようなブラジルのサンパウロとは全く違った道をたどった事になります。

この日本語能力が欠如していることは、現在にいたり2世、3世がアルゼンチンから日本へ逆に移民したり出稼ぎに行ったりする場合に大きなハンディーキャップとなっており、日本語能力のあるブラジルからの日系人出稼ぎ者が工場の主任など管理職になれるものがいるのに対し、アルゼンチンからの出稼ぎ者はイラン、フィリピンなどの出稼ぎ者同様ブルーカラーの地位に止まるケースも少なくないようです(県議会議長使節団によると)。

 

因みに私の勤め先では全部で82名(日本人派遣者を除く)おりますが、16名が日系人、内日本語が読み書きまで完璧にこなせる方は3名(1名は一世、2名は2世、それ以外に中国系の方で分かるかたもいます)、話が出来る方が2名(1名は一世ですが10歳以降日本語を使わなかった性でかなり怪しい、もう一方は2世)、こちらの話が分かる程度の方は2名、全くわからない方が9名いらっしゃいます。

ブラジルの支店では約400名の方が働いていますが、数日の出張だけで資料は有りませんから正確なところは分かりませんがおよそ半数は日系人で、しかも日本語もかなり分かる方が多いので、日本語だけでも仕事の用がかなりのところ足りるくらいでした。

 

一世の方の一人で、お子さんが2人おり、奥さんは2世のかたで日本語は問題無く話す方がいらっしゃいます。お子さんは大学生ですが、小さい頃から日本語で話し掛けてきたにもかかわらず、理解度は今一つで、ときどき奥さんに「お父さんは何を言っているんだ?」とスペイン語で尋ねているそうです。教育方針として「自分がやりたい言語をやれ」で通したところ、子供たちは2人共英語を勉強したいと答えたとのことですが、日本語で父親が話しているだけでは子供は話せるようにはならないことがしみじみと分かったそうです。

そう言えばこちらの言っている事が分かるのに、自分では話が出来ないという日系人の方は会社にもいますね。

 

日系人がやっている企業(商工会議所に登録されている会社)は現在20社程度、最大の会社でも従業員30名ほどで中小企業です。

また当地では有名な陶器メーカーやチョコレートメーカー、線香の原材料の輸出旅行会社や保険取り次ぎ、私送便、花屋など、ブランドは有りますが、経営的には苦しいところも少なくありません。

 

また助け合いの制度があり、みんなで出資して誰かが困った時には資金を出すという、互助会のような制度が発達しています。

この間も老齢年金を捻出するため、毎月積み立ててそのお金で植林をし、何年か後にそれを伐採して年金とするという制度が議論されていました。

私が個人的に思ったのは、互助会という制度は採っていても、内容は林業投資であり、木材価格の国際変動にもさらされかなり危険な収益構造になっていると感じました。アメリカのジョージソロスのような投資のプロではなく、かなり年配の日系人が自分達の昔からの発想でやっており、規模が大きくなれば危険も大きくなり、将来破綻してぎすぎすした関係を生まなければ良いが、と心配してしまいます。

 

 

サンパウロ新聞で次のような記事を見つけました。

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連載『アルゼンチン・ブエノス日系社会、日亜修好百周年を迎えて』

 

第三回〜「百年祭紛争」と、残る「しこり」〜

 

 「ガキのけんかと一緒。感情的になって」。厳しい言葉が、当時を知る日系人の口から思わず漏れた。

 

 地元ブエノス・アイレスの日系社会では「百年祭紛争」と呼ばれる「事件」。一九八六年の日本人移民百年祭に際し、日本とアルゼンチン両国政府を巻き込んで、日系社会が二つに割れた。この時に生じた感情的な「しこり」が、今でも百周年事業に微妙に影響していると、率直に明かす人もいる。当時の関係者などから聞いた、紛争の経緯を振り返ってみる。

 ブエノス市内パレルモ公園にある日本庭園は、一九六七年の皇太子ご夫妻アルゼンチンご訪問を記念して、日系社会が市に寄贈したものだったが、その後の市当局による管理が適切でなく、荒廃する一方だった。これを、当時アルゼンチン日系社会の中心的団体であった在亜日本人会(在亜日会)の宇野文平会長が、移民百年祭を機に再建を提案。これに対し、同会の内部で猛烈な反対が起こったが、宇野会長はこれを実行に移し、結果としてそれまでの六倍の規模のものに立て直した。

 

 しかし在亜日会の選挙にも負けた反対派は収まらず、大使館に相談したところ、当時の斎木千九郎大使がこれに同調し、宇野会長を非難する声明文まで発表した。宇野会長は実行力もあり有能な人だったが、その分強引で人に頭を下げないところがあり、これを感情的に嫌う人が多分にいた。斎木大使も、その一人だったという。

 

 これを機に、宇野会長を頂点とする在亜日会と、斎木大使ら反対派との対立が激化した。一つのエピソードを紹介する。地元邦字紙『らぷらた報知』の当時の紙面によると、大使館および日本政府は、地方のコルドバ日本人会が主催する記念祝典を移住百年祭記念祭として正式に認知、日亜両国政府の要人を迎えた。しかし一方、在亜日会主催の記念行事に対しては「二つの百年祭」を口実に協力を拒否。「地方レベルのコルドバ百年祭と中央レベルの移民百年祭は実質的には主客転倒のを呈しつつあり、『百年祭』紛争は『日会』対『日本政府』の対立にまで発展して行きそうな気配を見せている」と報じられるに至るまで、事態は悪化していった。

 

 このほかにも、大使館側が日会に「圧力」をかけたとするいくつかの話を、当時を知る人から多く耳にした。「ガキのけんかと一緒」という冒頭の発言は、これら斎木大使の一連の行動を非難したものである。話だけで事の真相を判断するのは危険だが、斎木大使も、また宇野会長もアルゼンチンから去った今となっては、本当のことを聞くことはできない。

 

 移民百年祭は、こうして日系社会が分裂したまま終幕。その後宇野会長は日本に帰り、日系社会は再編された。在亜日会はブエノスの一地方組織となり、新たに在亜日系団体連合会(FANA)が、アルゼンチン日系社会を代表する機関として組織された。以前の在亜日会が「中央集権」的であったのに対し、FANAは加盟する全団体が横並びの「連合体」であり、現在、アルゼンチン日系社会の八〇%以上が参加している。

 

 一方、日本庭園の管理権は在亜日会の手を離れ、新たに設立された「亜日文化財団」に渡った。しかし、この設立にあたっても、在亜日会との間で金銭的に複雑な経過があり、感情的な「しこり」の新たな火種を生んでいる。

 

 移民百年祭から十年以上が経過した。当時の在亜日会側、反対派側ともに、その多くはFANAの会員となり、日系社会の再結束に向けた努力を重ねている。しかし、ある人は「修好百周年事業が進まないわけは、表には出ない感情的なしこりがあるから」と話すとともに、「日系団体はまとまらないで、数だけ増えている。日系社会もどんどん小さくなっていて、大同団結しなければいけない時なのに」と憂いを隠さない。(つづく・増子吉彦記者)

 

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