La Isla de Pascua

 

長年の夢だったイースター島へ足を踏み入れたのは、1998年2月、ブエノスアイレスから日本へいったん帰国するルートとして、南半球を約半周するコースを選んだ時だった。

幼い頃に見たものや聞いたものの影響というのは、本当に計り知れないものがある。とあるドキュメンタリー番組がこの島を取り上げた時、父と共に私はそれを食い入るように見ていた。当時、この「太平洋の孤島」へ行くことは、『番組のスタッフにでもならないと、なかなか行けなさそうだね』というくらい遠い響きだった。幼かった自分には、ふと父が口にしたそんな言葉が耳に残ってしまったほど、島を遠い存在として感じながら、それでもいつか絶対に行く!と心に決めていた。それから20年以上経って、残念ながら(?)番組のスタッフこそならなかったけれど、こうして私はとうとう憧れの地へと行くチャンスを得たのだった。時代は移り、世界がどんどん小さくなっていく中で、イースター島はもはや手の届かない存在ではなくなってしまったけれど、夢は夢として、それが叶う喜びはやはり大きく、いつまでも心に深く刻まれるものだ。私はそう信じ続け、今、自分は島で感じた全てを昨日のことのように思い出しながら、こうして綴っているのだった。

島へ行くためには、他国同様にブエノスアイレスからも一端、チリの首都サンチアゴに行かなければならない。一刻も早く、一足飛びに行けたらどんなにいいだろう!と、はやる気持ちを抑えつつ、乗り換え便の都合でサンティアゴに一泊し、翌朝早く、再びサンティアゴの空港に戻り、パスクア島(イースター島)経由タヒチ行きの飛行機に乗り込んだ。イースター島はチリ領だが、「太平洋の孤島」と言われるが所以の、サンティアゴから約3000キロも離れた地点にあり、飛行機は海を真っ直ぐ西へと向かった。眼下には太平洋が途切れることなく広がっている。

昼過ぎ、ようやく島の空港に到着した。2人ともドキドキしながら一歩外へ出ると、熱帯特有のむわっと湿った空気が身体を取り囲んだ。まだ興奮醒めやらぬ頭で、すうっと息を吸ってみる。すると顔が勝手にニヤーっとほころんでしまい、その顔のままタラップを降りる羽目になってしまった。青空にぽんと置かれたように素朴なこのマタベリ空港には、ちゃんと島の象徴とも言うべきモアイが鎮座し、我々を歓迎してくれている。到着して最初に出会ったこのモアイをしげしげと眺め触っているうちに、次々に降り立つ観光客は皆、空港内へと消え、迎えにきた人たちから生花のレイ(花の首飾り)を掛けてもらっていた。空港の外には、馬に乗ってやって来たらしき、ポリネシア系の地元男性も、日焼けした裸に腰箕という勇壮な姿で立っていた。後でわかったのだが、彼はどうやらイースター島出身の俳優さんで、ちょうどその頃撮影中の、島が舞台となっている、チリ国営放送のテレビドラマに出演している最中だったそうだ。その彼に駆け寄ってカメラを向けると、にこやかに笑って一緒に写ってくれた。現地の言葉でイースター島のことをラパ・ヌイという。「(土地の)人」を意味する言葉でもあるらしい。

「ラパ・ヌイへようこそ!」と、ほとんどの乗客が去っていった頃に、我々にも迎えの人が来て、荷物を車に乗せてくれた。未舗装の道を、自分たちともう一組の母子を乗せた車がゆっくりと走り出す。が、ほっと息つくのもつかの間、ものの1分でホテルに到着してしまった。ホテルは空港の脇だったのだ。イースター島には1日1便程度しか飛行機の発着がないため、空港の傍でも全く問題はなさそうだ。かえって飛行機の音が聞こえると、そののち数日の間、唯一の外界との連絡手段が今日も来たような気がして不思議な気分になったものだった。

ホテルはひょうたん型のプールを囲むように10部屋ほどがある、平屋のこぢんまりしたもので、「ホテル・マヌタラ」という名前だった。「マヌタラ」はイースター島に棲む鳥の名前で、島のすぐ傍にある3つの小島に独特の巣をつくるのだという。すぐにウェルカム・ドリンクとしてパイナップルのカクテルが出て、飲み干した後、グラスの向こうに青い空が見えるのが「やってきたんだ!」という実感となって、ますますいい気持ちになってしまった。

島には6日間の滞在予定でいたが、この日数は人に言わせるとまずまず長い方らしい。島は小さく、見るべきものも多数あるわけではないので、観光目的だけならば確かに3日でも十分なのだ。我々は翌日から3回だけ半日のグループ観光を頼み、着いたばかりの今日は、島を探訪したいという気持ちもさることながら、まずは昼時の太陽の下でプールに飛び込みたかった。久しぶりの水は気持ちいい。しばらく泳いで上がり、夫はプールサイドにそのまま横になると、先ほどのカクテルも効いていたのか、あっという間に眠ってしまった。そして、起きた時は既に陽が傾き掛けていたが、日差しがやはり強かったのか、肌が真っ赤になって暫く痛い思いをすることになったようだ。おまけにホテルの部屋に戻った時に日焼けした肩をドアの角に思いっきりぶつけて、初日から痛い目に遭ってしまった。その傷は今も少しだけ記念のように残っている。

さて、運がいいことに、今週から「タパティ・ラパヌイ」のお祭りが始まるとのことだった。到着したその日の夕方にも競馬(Carrera)があるのだという。4時頃、早速歩いて見に行くことにした。村の中心地へは向かわず、先ほど来たのと同じ空港の脇の道を進み、案内された場所へ近づくと、舗装道路はなくなっていた。本当にこんな所?少し不安になって更に歩いていくと、道の脇に何人か人が座っている。どうやらここらへんらしいのだが、辺りにはまだ何も見えてこない。

 そのまましばらくいると、地元の人が茣蓙(ゴザ)を持ってだんだん集まってきた。やはりこのぬかるんだドロドロの道で競馬をやるらしい。と、遠くに砂煙が上がって「どどどどっ」という音が近づいてくる。地元の太ったおばさんたちの歓声が上がると、間もなく、目の前を上半身裸で顔を塗りたくった男達が、鞍のない馬に跨って駆け抜けていった。どうやら、我々の居た目の前の辺りがゴール、ということになっていたらしい。数回に渡って勝負が行われ、最終戦では、一番先に通過した馬に乗った男が、勝利の挨拶をしに、こちらへ戻ってきた。なんともワイルドな競馬である。ラパ・ヌイの人たちの1年に1度のお祭りはこうして始まった。

レースが終わり、人々が家路に着き出したので、我々は人の波に逆らい、モアイを見るべく海岸線に向かって歩き出した。高い木と呼べるものはほとんど生えておらず、たまにあると、それはパイナップルの木やタロイモの成長した大葉だった。波の音の聞こえる方に進んでいくと、そこは海岸ではなくかなり険しい絶壁で、波は荒々しくぶつかっては高く飛沫を上げている。それにこうして立っていると意外に肌寒く、モアイと海岸はまた別の場所に位置していることを確認したので、モアイとの対面は明日まで延ばし、夕暮れの迫る中、ホテルへと急ぐことにした。

夕ご飯はホテルの小さな食堂で済ませることに決め、我々2人と、今日一緒に空港からホテルにやってきたチリ人の母親とその息子の2人の合計4人でテーブルを囲んだ。いかにもチリ人らしい、囁くように小声で話す彼女は、チリのピーニャ・デル・マルという海岸沿いの町で歯医者をやっているのだという。息子は恥ずかしがり屋で、あまり会話には参加しないが、『あさって、サンティアゴのスタジアムで「ウドス」のコンサートがあるんだ!』と嬉しそうに知らせてきた。『え?「ウドス」ってなんだろう?』と頭を傾げていると、しばらくして夫が横で『「U2」のことだよ、きっと!』と囁いた。スペイン語読みすると、確かに「ウ・ドス」だ。でも、なんだかちょっとおかしくて、くすくすと笑い出してしまった。家庭的な感じのする、美味しいお魚料理と、本場のチリワインの食事を楽しみ、食堂を出ると、空にはもう星が無数に瞬いていた。明日はきっと、いいお天気だ。

 

 翌日、まずは両替をしようとハンガロア村に出かけた。島唯一のこの村は人口2千人という小ささで、30分もすると一周してしまいそうな村だった。銀行も村のメインストリートの外れにチリ国立銀行がひとつだけ。外観もなかなか風情溢れる作りで、中にはいると、こんなところで仕事をしたら都市では仕事が出来なくなってしまいそうな、のんびりしたムードが漂っていた。島は縦横20キロくらいあるが、この2キロ四方くらいの村の外には誰も住んでいないそうだ。

ブエノスを出発するとき、荷物にビーチサンダルを入れ忘れたことを思い出し、村の数えるほどしか無い店をひとつずつ廻って探すことにした。スーパーマーケットを一軒見つけたが、がらんとした陳列棚には、食料品以外に洗剤などの日用品くらいしか置かれていない。周辺には、やはりほとんど商品の無い雑貨屋が数軒並んでいたので、そのうちの一件で中国製のサンダルを買った。 みやげ物屋的な店は、その通り沿いにわずかに一件だけ。離れてあと2、3件あった。イースター島のモチーフのモアイや鳥を描いたTシャツ、絵はがき、島の伝統音楽のカセット、木彫りや火山岩で出来た民芸品、ポリネシア特有のパレオ(女性が体に巻き付ける鮮やかな布)などが売られている。近年の観光客の増加に伴ってか、おみやげ物はどれも値段が高めなようだ。その後に訪れた地元の朝市で野菜や果物の値段を聞いたとき、改めてそう感じたのだった。朝市では、とりたてのサツマイモやタロイモ、バナナ、パイナップル、魚がたくさん並び、その中に混じって土産用のTシャツや貝細工なども売られている。私は以前から一度食べてみたかった「チリモヤ」という果物を探した。手に入れたその果実は熟し切っていて、厚い皮を剥かなくてもプンプン甘い香りが漂ってくる。しかも、2人では食べきれないほど大きいのだが、半分だけ売って欲しいという願いは叶わず、丸ごと一個買う羽目になった。早速、部屋に持ち帰って切ってみると、真っ白な果肉が姿を現した。けれど口にすると、ライチを濃縮したように味が濃厚で、とてもではないが全部食べられそうにない。さらに、甘い匂いに釣られて、どこからともなくアリがやってくるのだ!タイヘン!!慌ててビニール袋に入れて、ひとまず部屋の外へ出し、もったいないけれど、結局は捨ててしまった。ゴメンナサイ・・・。

 

午後、最初のツアーに参加。もっとも一般的な、島を一周するツアーで、たった40キロの行程だ。10名ほどのグループで小型のバンに乗り込んで出発。ガイドさんは英語とスペイン語で解説を始めた。チリの首都・サンティアゴ出身だという彼は、初めてイースター島を訪れて以来、この島に魅了され、迷うことなく島に移り住む決心をしたという。しかし、国内で住処を変えると言っても、サンティアゴとイースター島では様々に違いもあったのだろうが、それすら乗り切って余りある魅力を、やはりこの島は持っているのかもしれないなあ、と思ったものだ。

島は海岸沿いのあちらこちらに「モアイ」がある。ツアーの最初に寄ったのはアカハンガのモアイだった。モアイとは、時の権力者の死後、その人物の特徴を象(かたど)ったとされる石像で、人々の信仰の対象にもなっていたようだが、他にも様々な説があり、ハッキリとしたことはまだわかっていない。しかし、200年ほど前に起きた原住民の間の戦争で、信仰と権力の象徴だったモアイのほとんどは倒されてしまったのだという。その目に最も大きな影響力を備えていたとされるモアイは、目を取り去られた後、顔を地面に伏せた形で倒された。倒された状態で200年以上の年月が経ち、酸化も進んで、まもなく自然の岩に帰ってしまいそうな雰囲気がした。モアイ建設は島中の人間を要するほど非常に大がかりで、また、モアイを石切場から運び出すために使った大量の木材の切り出しが原因で島は丸裸になって食料が無くなり、反乱が起きたことを機にモアイ信仰は終わった。信仰心で突っ走った結果、大量の環境破壊が破滅に向かった様子は、現在の世の中にも通じる教訓のように感じてしまう。けれど、このまま朽ちるのを待つだけのモアイ達はあまりにも哀しげだった。

 車を進めて行くと、ラノ・ララク山が遠くに見えてきた。この光景を見ていると、太古の世の中ってこういう感じだったのではないかなあ、と想像が膨らむ。何もない平原に椰子の木が一本だけ生えている。実際、この辺りは前世紀にフランス人が羊などの家畜を飼っていたそうだ。羊は草を根っこごと食べてしまうので、そのためにいよいよこの土地は緑を失ってしまったのかもしれない。

ラノ・ララク山はかつて何百年もの間、モアイを造る岩の切り出し場だったという。ここで何千体ものモアイが制作され、数百体が制作途中のまま放置されている。時代を遡るにつれて、各酋長が権力を示すためにモアイはだんだん大型化していった。中腹にあるモアイは20メートル以上もあって、周りの石を削り取った状態で横たわっていた。奈良の大仏くらいある巨大な石の固まりを、一体どうやって運び出すつもりだったのだろう。ここでも大量に切り出された木材がモアイ運搬のために活躍し、いつの間にかそれも尽きてしまったのだろうか。

ラノ・ララク山を登っていく最中、凄い雨が降ってきた。買ったばかりのサンダルは、あっけなく紐が切れてしまい、その後は裸足で登るしかなくなった。雨は強かったが、何者にも汚染されていない雨は、打たれると都会の雨のような嫌な感じがしない。最初は傘など差していたが大自然の前には無駄な抵抗、間もなく雨に打たれるがままになった。雨でぬかるんだ道は既に滑りやすくなっている。転んで何度も痛い思いをし、滑ってズボンをどろどろにさせながら、なんとか頂上までたどり着いた。頂上からはカルデラ湖が見え、島の中心の方を振り向くと、太古の光景が雨に打たれて大地創造の世界さながらに繰り広げられていた。この景色を何度夢見たことだろう!感動して体が震えた。いま自分たちは間違えなく、イースター島にいるのだ!

ラノ・ララク山を降りてくる途中で、遠くの海岸線沿いに有名なアフ・トンガリキが見えた。「アフ」というのはそれぞれの酋長が造った祭壇のことをいうらしい。雨が降り続く中、車はそのトンガリキに向かった。トンガリキは日本で特に有名だ。というのは日本の建築会社の協力で、倒れていたモアイを起こしたからだという。モアイは頭にプカオとよばれる、帽子のように見える赤い岩で出来た髪の毛を乗せていることがある。これも権力の象徴だったらしいが、相当に重い上、結構もろい岩で造られているので、元のように頭に乗せてモアイを立てるのは非常に大変だったろう。これが国際協力援助で行われたという。当時はモアイを立てることより国際協力でもっとやることがあるのではないか、と賛否両論だったそうだ。

先ほどまでの大雨が嘘のように晴れ上がる。南国らしい天気だ。自分たちのシャツや髪、それにシートの上に敷いたビニールもまだびしょびしょなのに、外では太陽が輝き、あっという間に青空が広がった。抜けるような青空だ。けれど未舗装の道は雨でぬかるみ、乗っていた車の揺れに激しさが増していく。

そんなふうに一回目のツアーが終わり、ガイドさんとも『それじゃあ、また今度ね』と、いとも簡単な挨拶を交わして別れた。転んで滑って泥で汚れた衣類も、今から洗って外に干しておけば、あっという間に乾くだろう。

島には島民の子供達が通う学校とその運動場がある。小さく簡素ながら、時には島中の人が集まる集会所の役割を果たしたりもしているという。今晩はここで、「タパティ・ラパヌイ」の演芸会が開催されるそうだ。見ると始まるまでにはまだまだ時間があるらしく、人々がのんびりと準備にいそしんでいる姿があった。そこで、傍にあった食堂らしき一軒家に行き、入り口に出ていたメニューを眺めた。なんと、ちょっとあやしいが日本語でもメニューが書かれているではないか。食堂の人もにこにこしながら、自分のレストランには刺身も醤油もあるんだ、と自慢し、それを勧めてきた。刺身は、名前はわからないが白身魚の一種で、新鮮かつ、とてもおいしい。イースター島に来て刺身を食べるとは考えもつかなかったが、察するに、島を訪れる日本人客が持ち込んだ「サシミ」「ショウユ」が定着したのだろう。夫はここでも優雅に海に向かってワイングラスを傾け、満足そうにニコニコしている。

陽もだいぶ落ちて、あたりが次第に暗くなってくると、会場の四隅に置かれた松明に灯が点(とも)された。先ほどからずっと、ラパ・ヌイの民族音楽らしきがスピーカーから流れ、雰囲気を盛り上げている、が、人々は相変わらず焦る様子もなく、自分のペースで仕事をしているのだった。観客の数はどんどん増え、舞台前に設置された椅子にさっさと座る人もいた。自分たちもそれに習って座ると、人が近づいてきて『ここは関係者席だから』と断られてしまった。関係者とはなんだろう。村長さん以外にどんな人がくるんだろう?答えはすぐにわかった。それは島の長老らしき老人たちが次々にやってくると、先ほどの人が丁寧に椅子に案内していたからだ。島では老人が大切にされているのだと思うと、自分はまあこの場は立っていてもいいや、と思えてくる。間もなく、アナウンスと共に司会者の男女が舞台に現れた。2人はまずスペイン語で挨拶し、その後でラパ・ヌイ語、そしてフランス語でも挨拶をしたので驚いた。ラパ・ヌイ語は他のポリネシア語と響きがそっくりで、雰囲気的にはこの会場にもっとも釣り合っているのではないかと思われるほどだ。

さて、挨拶に続き、舞台に最初に登場したのは、タヒチ島から招待した歌手で、スピーカーから流れる伴奏と共に一曲目を歌い始めた。日本ではお目に掛かれない独特の容貌と節回しで、島の人たちは皆、熱い眼差しで彼を見ている。おそらく、ポリネシア圏では名の知られた歌手なのだろう。曲が終わる毎に大きな拍手が沸き起こった。

続いては子供達のダンスで、腰箕を着け、貝殻の首飾りを幾重にも巻いて、両手には箕と同じ素材の飾り(なんと呼ぶのかわからないが、フラダンスでも使用する、乾燥した草を束ねたもの)を持ち、音楽に乗って舞台に現れた。ハワイ島で見る「フラダンス」にそっくりだ。そういえば、イースター島の音楽について、あまりイメージが持てなかったが、チリ領だからといって、チリ本土で聞かれるようなヨーロッパ的要素の強いフォルクローレ音楽は、ここには全く無い。やはり文化は今でも圧倒的にポリネシア系に属している。子供達に続いて大人の男女が登場すると、女性は腰を驚くようなしなやかさで動かし、箕を左右に揺さぶり、男性は力強さをアピールするかのように、槍などを持ってあれこれとポーズを取ったりする。しかし、例えばタンゴのように男女が絡んで踊るようなものはひとつもなく、土着的と言えばそれまでだが、見ていてすっきりと気持ちが良くなるといった感じの踊りだ。松明の明かりがとてもよく似合う。

開演から1時間ほどした頃、風が出始め、急に寒くなった。Tシャツ姿の我々はそのままその場に居続けるのが辛くなり、切りの良さそうなところで引き上げることにした。まだまだ宴は続きそうな気がして少々残念だったが、明日もきっとなにかあるだろう、と期待を抱き、この場を去った。が、会場の周辺にさっきまで止まっていた数台のタクシーはなぜか1台もなく、待っていてもアテがなさそうなのでホテルまで歩き出した。風はびゅーびゅーと吹きつけ、震えながら暗い夜道を月明かり頼りにトボトボと急ぎ足で進んだ。メインストリートまで来ると、ところどころだが街灯がある。霧雨が降っているのが明かりに映し出され、いよいよ先を急いだ。ゆっくりしていると風邪を引きそうだったからだ。やがてホテルの明かりが遠くに見え、ようやく着いたと二人ともほっとする。

翌朝は頭が少しぼーっとしていた。イースター島の夜があれほどまで昼と違って寒いとは・・・もっとも風が吹けば、の話で、ホテルの部屋はいたって快適だし、朝が来れば10時頃にはすっかり気温が上がって再びむしむししてくる。ふと腕を見ると、赤いぽつぽつがたくさん浮かび上がっていた。痒みがあり、掻くとどんどん赤みが増してくる。首にも同じぽつぽつが幾つもあった。瞬間、夕べ食べた刺身が当たったのでは?と思ったが、夫はなんともないという。ホテルのフロントで何か適当な薬はないかと尋ねたが、何も置いていなかったので、町で薬局を探すことにした。けれど、町の中心地には、先日訪れて見渡したときにも薬局らしき店が無かったのを思い出し、ちょうどすれ違った女性のお巡りさんに薬局の場所を尋ねた。すると『島には薬局は無いわ』という。オヤ、それは困った・・・と口を尖らせる私に向かって、もう一人が『でも病院があるから、そこへ行けば?』と言ってくれなかったら、徐々にひどくなる腕をどうしたらいいのか、途方に暮れてしまっただろう。お礼を言って、聞いたとおりにまっすぐ道を進むと、また雨が降ってきた。今度は傘を持っていたので濡れずに済みそうだが、道はぐちゃぐちゃして、サンダルはすでに泥だらけだった。坂を上りきったところに白い建物があり、看護婦さんの格好をした女性が出てきた。受付で薬が欲しい旨を伝えると、中に入って見せなくてはだめだと言われ、真っ赤に腫れた腕を別の看護婦さんに差し出すと、すぐに『蚊に刺されたんだわ』とあっさり返事が来た。外でお祭りを見ているときか、あるいはその後か・・・いつの間にこんなに刺されたのだろう!私は蚊に対して異常なほど過敏だ。他の誰もが刺されなくても、自分だけはいつも必ず刺されているのだ。看護婦さんが言うには、島の蚊は都会のよりも強く、観光客の中には刺されて熱を出す人もいるということだった。貰った薬は抗生物質で、少しずつ痒みが納まってくると聞いてほっとした。病院の中は湿気でじめじめして梅雨どきの家の中にいるようだ。帰るときに通路への出口と間違えて押してしまった扉の向こうには、5,6名の老人がベッドで寝ている姿があった。病室は簡素でテレビもなければ照明もあまり付いていない、暗い部屋だった。こんなに湿度が高ければ、老人たちは病気以外にリウマチや痛風になってしまうかもしれないと、ふと心配になってしまった。扉の外ではシトシトと雨が絶え間なく降り続いている。

とにかく、痒みは「蚊」が原因と判明して安心した。病気や食中毒だったら、せっかくのイースター島滞在がとんでもない結果になってしまうところだった。それに、この薬は後日タヒチ島を訪れた際、非常に役だった。薬のお陰でもはや向かうところ敵なしとなった私は、タヒチ島でもまったく蚊に刺されずに済んだ。反対に、夫は竹藪でイヤと言うほど蚊にまとわりつかれ、気の毒に感じたほどだったのである。

雨は昼前に一端止み、2回目のツアーに出掛けたのは1時を廻った頃だった。前回とは違うコースで、集合後、町を出て真っ先に我々が目指したのが、オロンゴという名の火山だった。火山のてっぺんには、大きなカルデラが姿を見せており、えぐれた内部には緑が育っていた。もう長い間噴火活動をしていないため、カルデラの表面は水さえも湛え、まるでオアシスのような感じがする。そこ以外は一帯が黄色い枯れ草色に覆われ、それが絶え間なく島全体に広がっている。

遙か彼方のラノ・ララクの空は相変わらずどんよりとしており、頂上に到着して間もなく、またしてもシトシトと雨が降り始めた。この雨によって大地が潤い、緑豊かになれば良いのだろうが、果たして火山島というのはそう簡単に緑が息吹かないもののようだ。カルデラの中の緑だって、長い時間を掛けて少しずつ育っていったのかもしれない。

このオロンゴの岬には、不思議な「鳥人伝説」がある。岬に点在する岩には、顔が鳥で体が人間の姿をした鳥人、マケマケと呼ばれる神様などが描かれていて、その数は150点にも及ぶらしい。鳥人はあらゆるものを作り出した創造神である島の神・マケマケの化身だと考えられていたそうだ。島の人々はモアイを崇拝する儀礼とは独立した形で「鳥」を崇拝し、更に神聖化したと思われる。その代表的な儀式の例として、一般に「鳥人儀礼」と呼ばれるものがあった。それは、岬からそう遠くないところに小さな島が3つ浮かんでおり、そこへマヌ・タラという鳥が産卵のために大量に渡ってくるのを狙って、選りすぐりの若者たちは競って最初に産み落とされたマヌ・タラの卵を獲得し、一番に島へ持ち帰ると、その者は翌年の儀式までの一年間、所属する集団の長となり、普通の人々とは全く違う隔離された生活をし、それによって「鳥人」に近づくことが出来る、という話だ。岬から眼下に臨む海の荒々しい波を見ていると、なんとも恐ろしく、またなんともストイックな儀式に聞こえるが、当時の信仰の深さや自然に対する脅威と尊敬の念を考えると、やはり我々の計り知れないエネルギーが島に「奇跡」をもたらしたのだろう。岩に刻まれたマケマケは、よく見るとタヌキのようにかわいらしくて愛嬌のある顔をしていた。

 島のルーツを辿っていくと、様々な「説」に出くわす。インカ帝国から人がやってきた説、ポリネシア人が海を渡ってきた説、果ては最初の島民は宇宙人だった説、などなど。このミステリアスな諸説を裏付けるものが島に幾つもあるから、どれを取っても思わず「うーん」と唸ってしまうのだが、どうせならこの先もずっとミステリアスなままでいて欲しい。この島でしか味えない、 

4日目ともなると、島の様子も地理も随分とわかってきたので、それなら今日はレンタカーをして自分たちで島巡りをしよう!と話が盛り上がる。天気も上々、またいつものように途中で雨が降るかもしれないが、そうしたら一端、車を止めて雨が過ぎるのを待てばよいのだ。もうすっかりペースはラパ・ヌイ。なすがままに従って行けばいいのだ・・・。

車はブルーの4WDを借りた。ここでは国際免許なんて難しいものは求められない(いや、もしかして、日本から来た、というのであれば必要だったかもしれないけれど)。アルゼンチンで取得した免許を見せると、簡単にオーケーが出た。島のゴロゴロとした石ころだらけの道を行くには、4WDがこの上なくふさわしい。カーステレオに朝、散歩の途中で買った「タパティ・ラパヌイ」祭りの音楽のカセットを入れると、ウクレレの伴奏に乗せて爽やかな歌声が流れてきた。それは、店で幾つか視聴した中で一番気に入ったもので、野外で聞くとこんなにも心地よいものかと、自分でもビックリするくらい似合っている。遠く点在するモアイたちに目を奪われ、車を走らせれば窓から風が入り込み肌を撫で、潮の香りが大地の香りとほどよくミックスされて嗅覚を刺激する。そこに更に音楽という素晴らしい効果が解け合い、今は五感をいつもの数倍使わなくちゃ!という思いに駆られ、全身でこの快感を受け止めずにはいられなかった。

島の中心を少し行ったあたりで、道は二手に分かれていた。1つは車が一台やっと通れそうな幅で、もう1つはバイクが通った跡が残されている程度の幅の狭い道。ここは順当に前者を選んだ方が間違いなさそうだが、もう一方の道もちょっと捨てがたい感じだ。そこで、狭い道へとゆっくり車を進め、周囲の様子を見つつ行ってみることにした。しばらくは石ころの道をいつも通り進んでいるだけだったが、だんだん石ころが「石」となり、更に「巨石」に変わって、行く先を遮り始めたのだ。バイクもこの辺で諦め引き返したらしく、そこから先は轍が無くなっている。我々も諦めてターンしようとした。が、ターンをしようにも巨石が邪魔をして思うように出来ない。何度もハンドルを切るが、その度に石がタイヤの下に潜り込み、いらない窪みを作り出してしまう。ハンドルを切る夫の顔も真剣になって、私は車から降り、邪魔な石を除けることにした。重い。簡単には持ち上がらないので、足で蹴って転がす。もうこのくらいでいいかな、と思うと、車は相変わらずターン出来ない。また石を退かし、道を造る。まだダメだ。手助けを呼ぶにも誰も通らないので無理。一端ホテルに引き返そうにも、車をこのまま放置してしまうのはどうか。こんなヘンな道を通ろうとするから、こんなことになるんだ、と叱られそうで、まるでいたずらをしてこっそり隠れている子供みたいな心境に陥っていた。

結局、重たすぎてどうしても取り払えなかった巨石の一部を、片方のタイヤが乗り越えるようなかたちで車を進めた。4WDは車体を大きく上下に揺さぶり、ドスンと鈍い音を立てて着地し、なんとか脱出は成功した。当然、車体が万全無事であろうはずがなく、巨石と擦れ合った部分の色が剥げて、冷たいメタルの色が露出してしまった。その色は、ほどなく降り始めた雨と同じ、無機質で重い色をしており、我々は疲れと安堵感で黙りこくって、車の中から雨をひたすら見つめるほか何も出来ずにいた。・・・。

雨が小降りになったところで、再び道無き道を車は走り出す。もう数時間も人や家を見ていない。妙に人恋しくなっていた。空が薄暗くなるにつれ、心細さが募ってきたようだ。やがて民家がぽつぽつと見え、家畜の鳴き声が聞こえてくると、心底ほっとしたように感じた。内陸に立っているモアイも、今度ばかりは憮然とした態度で我々を出迎えていた(ように思えたのだった)。冒険といえば聞こえはよいけれど、あんまり威張って人に語れない一日だったね、と車を降りてお互いに苦笑した。車は返す際に傷が出来てしまったことを告げ、修理が意外と大変なことを知って(チリ本国から部品と技術士を持ち込まなくてはならないそうだ)、ますますため息が出てしまった。いやはや、本当に申し訳ないことしちゃったなあ・・・。

この日の夜は、イースター島きって(?)のレストラン「KONA ROA」で食事することに決めた。夕日が沈むにはまだ早く、レストランの庭に出て外の籐椅子に腰掛け、しばらく時間を過ごした。花の閉じたハイビスカスやあちこちのインパチェンスが色を失って今は夕焼けに染まっている。自分たちの他に客はおらず、店の奥からオカマっぽい仕草が特徴的なポリネシア系の店員が、片側の耳に挿した花を指先で気にしながら飲み物のオーダーを取りに来た。チリ本土と同様、ここではピスコという蒸留酒をライムで割った「ピスコサワー」という名のカクテルがよく出てくる。それを注文し、そういえばイースター島に着いた初日も、ホテルのプールサイドでこれを飲んで気持ちよくなったっけ・・・と思い出しながら、旅の3分の2が終わってしまったことを改めて感じ、淋しくなった。私にとって「まだ2日ある」のではなく「あと2日しかない」の心境だったからだ。

ところで、イースター島に来てからというもの、肉をまったく食べていない。普段、ブエノスアイレスでアサード(炭火で炙った肉)だのパリージャ(ソーセージや臓物の炭火焼き)だのと食べていると、少しは肉が恋しくなりそうなものだが、なんだかここにいると肉への執着が失せてしまったようだ。新鮮な魚があって貝類があって、タロイモだのバナナだのがあれば、今のところはそれだけでやっていけている。レストランのメニューも自ずと魚を選ぶと、パイナップルとタロイモが添えてある、ヒラメによく似たメインディッシュが運ばれてきた。期待していたショーは「お客さんが少ないから」という理由で行われず、食事が終わる頃にはもう夕日も沈み、また夜のとばりが徐々に降りてきた。 

そのままホテルには戻らず広場へと向かい、「タパティ・ラパヌイ」祭の催しを見ることにした。前回見たときは初日で人も多く、それなりに盛り上がっていたが、今晩はどうだろうか。

若い女の子が多い。この前よりもずっと多いのだ。それもそのはず、今晩はステージにタヒチから歌手を招待していて、みな彼の登場を待っているのだ。ポリネシアの島々ではかなり有名人らしいその歌手は、司会者に促されてステージに上がると、颯爽とエレキギターを構え歌い出した。歌はスペイン語でもフランス語でもない、ポリネシア系言語のようだったが、人々は一心に聞き入り、歌い終える毎に拍手を贈っている。頭に巻いたバンダナ、黒地に南国風花柄プリントのTシャツの風貌からして「ご当地ソング」でも歌っているように思えてならない。でもいったい、どんな歌を歌い、どのような想いを込めて、ああも人々を魅了しているのだろう・・・。

 

翌朝、ホテルの食堂でチリ人親子のお母さんの方から、地元の朝市に行こうと誘われた。息子はまだ眠っているらしく、その間にパイナップルを買いに行って息子をビックリさせたいという。お母さんはどうやら朝市以外の場所でもパイナップルを頼んでいたようで、最初に訪れたのは小さな商店だった。ところが店の主人は「パイナップルは入荷しなかったよ」と言い、お母さんと私は再びそこから2キロもある朝市を目指した。ふと思ったのは、こんな時ちょっとお金持ちのアルゼンチン人だったら、ホテルの人にチップをはずんで買いに行かせそうなものなのに、このチリ人のお母さんは歯医者(やはり医者のステイタスは世界共通だと思うが)であっても、自分の足で息子のために一生懸命パイナップルを探している。そんな姿がとても微笑ましかった。

午前中のうちに島唯一の博物館へも足を伸ばした。イースター島に関する調査記録や発掘品などが小さな館内に並んでいて、世界中の学者がこの島に関心を寄せていることが伝わってくる。しかし、最も関心を寄せているのは、もしかすると日本人ではないだろうか。そう思ったのは、入り口に置かれている「入館記録」のページを手繰ると、今までに相当な数の日本人がここを訪れているのが、それぞれの残した数行のメッセージでわかる。多くは自分たちと同じ観光客であり、研究目的とか予め豊富な知識があって訪れたのとは違うだろう。それでも、日本から遠く離れたこの島へ行ってみようと思わせたのは何なのだろう?

その日の午後、いつものグループで最後のツアーに出掛けた。顔見知りは前回の半分くらいに減っている。その替わりに新たに加わった人たちが数人、まだ島の様子には慣れていないという顔つきでライトバンの後部座席に座っていた。私もここに着いた初日はあんな顔をしていたのだろうか。数日前がうんと昔にも思えるし、そうじゃない気もする、説明困難な状況とでも言ったらいいか。こうしてツアーを重ねていると、島の隅々まで知ることが出来るようで楽しいし、実は島はもっと大きいんじゃあないかとも思えてくる。

島の中腹部にある、見るからに巨大な自然の洞窟に着いた。大きな口をぽっかりと開け、中を覗くと真っ暗で何も見えない。しかし、洞窟が遙か奥まで続いているだろうことだけは分かる気がした。なんだか不気味だ。この洞窟では、欧米列強が島を攻めてきた時、原住民達がこの中に隠れて何日も暮らしたのだという。当時の人口1万5千人が一同に穴の中で暮らしたと聞けば、その洞窟がいかに大きいか想像が付く。 我々一行はガイドさんを筆頭に洞窟の中をゆっくりと探検し始めた。

こんなジメジメとして暗い洞窟の中に、自分なら一時も長居はしたくないものだ。けれど、自然は時として自らを敵から守ってくれるものだと言うことも学ばなくてはいけない。この洞窟に逃げ込んだ人々は命拾いをしたと言うが、そうでなかった人々は、攻め入ったヨーロッパ人らの命に従い、島の険しい絶壁に暮らすマヌ・タラ(鳥)の糞を崖によじ登って採集しなければならなかった。糞は・・・に利用され重宝されたのだ。しかし多くは崖から落ちて命を落とし、海の藻屑と消えていったに違いない・・・。洞窟内は岩の割れ目からほんの所々だけ太陽の日が射し、中の様子が僅かに見える程度で、暗闇がひたすら続く。我々の誰かしらが喋っていないとすぐに暗闇は静まり返り、見えない恐怖に襲われてしまうのだ。

そうして1時間近くも歩いただろうか。ぽっかりと天に向かって開いた出口が近づいてきた。周辺は背の高いソテツのような植物で覆われているために、外からは洞窟への侵入口が容易く発見できないだろう。洞窟へ潜っている間にいつものスコールが降ったらしく、外に出ると草いきれの匂いが鼻を突いた。ガイドさんの指さす方向にさっき入った入り口があったが、それは出口からほんの数十メートル離れているに過ぎない距離だった。暗闇は方向感覚も距離感をも失わせる。本当に恐ろしい!

 帰り道、日本では「7人の王子」という名前で有名なアフ・アキビの傍を通過した。普通のモアイは海側から住民を見守るように内陸に向けられて立てられているが、このモアイだけは内陸から海に向かって立てられている。倒されていた7体全ては1960年復元されたそうだ。それぞれ微妙に違う顔立ちをしており、王子と呼ぶにふさわしく、どこかノーブルな顔立ちをしている。遠い海の彼方から来た自分たちの祖先の地を見つめて続けているのだろうか。

 

イースター島最後のその夜、ホテルの食堂の食事はいつもよりほんのちょっと豪華だった。多すぎず少なすぎず、ちょうど良い量で、かつ調理人の心のこもった毎日の食事に感謝しつつ、チリ人の親子とテーブルを囲み、白ワインで乾杯した。彼らは我々よりもうあと3日ほど長く滞在し、その後サンティアゴに戻るという。お互いの連絡先を交換し、到着日、ホテル、そしてツアーも同じだったよしみで、明日は一緒にアナケナ海岸に泳ぎに行こう、と話が決まった。

夕食のあと部屋に戻ると、夫は今日の疲れとワインに酔ったせいか、スースーと寝息を立てて寝てしまった。既に荷物はあらかた片づき、することが無くなったので、私は部屋を出てプールサイドの椅子に腰を下ろした。星が幾つか夜空を飾り、チラチラと弱い光を放っている。風もない静かな夜。プールの水面も動くことを忘れたようにじっとしている。明日の夜ここを離れると同時に、ここで過ごした日々の全てがひとつの思い出と変わる。今こうしていることも、明後日以降は全てが過去となり、私は撮り続けた数々の写真を眺めては思い出に浸るのだろう。楽しい時はいつもあっという間に終わる。子供の頃からそれは繰り返し繰り返し、螺旋(ねじ)を巻いては鳴り続けるオルゴールのように、響いてはいつしか終わる。そしてまたその美しい旋律を聞きたいから更に螺旋を巻く。私にとって旅はその営みによく似ているのだ。あれこれと考えを巡らし支度を整え、旅に出る。そしてまた次なる喜びを求めて旅に出る。しかしそれはなんという贅沢な繰り返しだろう!少なくとも私はそう思う。幼い頃に夢見た何かを実現した喜びとは、その繰り返しの狭間でひときわ大きなうねりとなって心と体を揺るがし、いつまでも私の中で波打ち続けるのだ・・・。

 

約束どおり、我々4人は翌日の昼前、イースター島唯一の海岸・アナケナを目指した。ホテルで簡単なランチを作って貰い、飲み物と果物も用意して貰うと、それらを持ってタクシーに乗り込んだ。車の窓から犬のように顔を出し、海岸線の見慣れた光景と嗅ぎ慣れた潮の匂いを交互に味わう。しばらくしてビーチの入り口に到着。まだ誰もいない海岸の砂浜をサクサクと音を立てて歩く。椰子の立ち並ぶ林の向こうから、やや年老いたモアイが数体覗いていた。このイースター島に最初に上陸したと言い伝えられているホツ・マツア王のモアイと、歴代の王たちのモアイだという。特に深い意味など無いが、お地蔵さんに向かってそうするように、モアイたちに向かって私は深々と一礼した。 

波は意外と高く、うっかりすると浚(さら)われそうなくらいの勢いがあった。沖へ泳ごうにもすぐに突き返され、適当な位置で立とうとすれば、下からの波に足を掬われてしまう。もちろん浜には監視員などいないので、波に浚われたらかなりマズイぞと思った。そこで真面目に泳ぐのを辞め、子供みたいにパシャパシャと「波と戯れる」方を選んだけれど、それは十分に満足のいく、心底楽しい行為だった。この砂浜を自分たちだけで占拠しているのが何にも増して快感だった、と言ってもいいくらいだ。こうしてつかの間、自分はイースター島の主となり

 

 

 最後の日、チリ人の親子と一緒にアナケナ・ビーチにタクシーで行った。ビーチだからもちろん泳げる。このビーチの後ろにもモアイが立っていて、この島に初めて上陸したと言い伝えのあるホツ・マツア王のモアイだ。

 街の一番はずれにあるアフ・ハタイのモアイ。地元の人が拾った翡翠の石が、モアイの目だったのでは、という仮説の元に目の位置に入れてみたらぴったりはまったのだという。昔のモアイはすべて目があったのだが、その目を破壊することでモアイの持つ霊力が弱まると信じられていたそうだ。このモアイは目も復元されて入れられている。何を見つめていたのだろう。近くには博物館があった。また、昔の人の居住跡だという石の家も、1968年に復元されて傍にあった。

アフ・タハイのモアイ。普通テレビなどで報道されるモアイは、1960年以降全て復元したものだが、大部分のモアイは欠けていたり、倒れていたりしてそのまま消え去る運命にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラノ・ララクでは、多くのモアイが海岸の目的地まで運ばれず、運搬途中で放置されている。ヤマの岩から切り出している途中という制作中のまま放置されたモアイも多数ある。人間の信仰心は偉大だ。こんなに巨大な岩の固まりを、大した道具もなく次々と制作し続けた力は、信仰心、自然に対する畏敬の念以外には考えられない。逆に信仰心が権力と結びついて、離れる人がいれば、その崩壊もはやいのであろう。

 

 

 

 

 

 島唯一の町、ハンガロアのメインストリート。この道だけがほぼ唯一石畳になっており、他の道はぬかるみの道だ。メインストリートといっても、人家もまばらで商店もぽつぽつと数えるほどしかない。

 

 イースター島の夕日はいつも美しかった。太平洋の孤島だけあって、海は非常に荒々しかったが、夕焼けはいつも静かに島を包んでいた。

 

 

3日目は、街からラノ・カオという山に向かった。途中に石油の備蓄基地や発電所などを通り過ぎ、山の中腹から歩いて登った。典型的なカルデラ湖で非常に美しい。このカルデラ湖の底には大勢の生け贄が放り込まれたのだという。近くにはモツ・ニュイという小さな島が見える。この島に巣を作る鳥・マヌタラの卵を競争で取ってくる儀式が18世紀以降盛んに行われたのだそうだ。その競争に参加する若者はなるべく色は白くなければならず、半年も前から日中は石で造られた家の中でじっとしていたそうだ。この競争は山の上から海までの凄い崖を降りていかなければならない。競争相手の命を奪ってもよかったそうで、この奈落の底に何人もの男達がけ落とされたのだろう。卵を取ってきた若者のいた部族の酋長は「鳥人」の栄誉が与えられたのだという。モアイに変わって200年ほど前からヨーロッパ人が進入した時期まで100年ちょっとの期間、この「マケマケ」信仰が続いたらしい。

 

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