TANGO ARGENTINO

 

 ここ数年、日本からアルゼンチンタンゴダンスを学ぶためにブエノスアイレスを訪れる人(主には女性)が増えています。中には長期滞在を決め込み、日々レッスンに励んでおられる方もいて、日本とアルゼンチンの距離がまた一段と縮まったような気がします。

 

Bar Sud 巷にはタンゴ界の著名人の名を看板にした学校もあるようですが、ブエノスアイレスには、国やブエノスアイレス市公認のタンゴ学校というものが無く、従って語学学校のような「卒業証」「認定証」は存在しません。それはアルゼンチン・クラシックバレエ界で最も知られる世界的なダンサー、フリオ・ボッカ(JULIO BOCCA)のバレエ研究所などとは全く違いますし、アルゼンチン国立フォルクローレ舞踊学校は卒業すると教授の資格が得られますから、その点でも国がタンゴ学校に全く関与していない点で異なっています。

ではポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)達はタンゴをどこで学ぶのか・・それは夜も更けた頃から賑わい出す、街の至るところの「ミロンガ」だと言います。「ミロンガ」はダンスホールのように一般に広く解放された場所であると同時に、プロのダンサーの卵達がそれぞれの腕を磨き、デビューのきっかけをも掴む場となっています。初めてそこを訪れる人は、その独特の雰囲気に圧倒されるか、あるいは躊躇してしまうかもしれませんが、そこで勇気を出して一歩を踏み出すことで、ショーの観客としてではなく、本場の生きたタンゴの世界を体験出来る部分があるかもしれません。

 

(タンゴの音楽)

Viejo Almasenタンゴは18世紀ブエノスアイレス南部,ラプラタ河沿いの港町(現在では観光地として有名なボカ地区の周辺)に点在していた船乗り達の酒場で生まれる。当時は「酒場」=「下品な」「下層社会」の音楽として上中流社会の人間から蔑視された。

アルゼンチンタンゴのリズムの源は、キューバから伝来したハバネラ,それがブエノスアイレス周辺で変化した形と思われるミロンガ,ヨーロッパから移入されたポルカ,ブエノスアイレスにかつては多数いたという黒人らの音楽などが混在し,さらにブエノスアイレスに19世紀半ば以来労働力不足を補うために急増したイタリア移民の音楽性(特にカンツォーネに似た歌唱法)もタンゴに影響を与えたと考えられている。

当初酒場で即興的に演奏・踊られていたものがほぼ1860−70年ころから基本的なリズムと曲の形式が定まってきた。1900年ころにはたとえば《エルチョクロ》(ビジョルドANGEL VILLOLDO作曲)のような古典的名曲が生まれるとともに,バンドネオンが演奏に採用されるなど,しだいに民衆音楽の形式として確立し、現在聴いているタンゴの形式となった。

楽団演奏はバイオリン、バンドネオン(それぞれ2−6人),ピアノ,コントラバスの編成(オルケスタティピカ ORQUESTA TIPICAと呼ばれる)が定型化し,20年代までに《ラ・クンパルシータ》(GERALDO HERNAN MATOS RODORURIGUEZ作曲。1917年)など古典的名曲の数々が作られ,演奏スタイルの型も固定化し完成された。

ただし現在では演奏家を大勢一同に集めるのは資金的にも難しいため、バイオリン、バンドネオン、ピアノ、コントラバスそれぞれ1台という小編成で演奏される場合が多い。

 

(タンゴの普及)

Forever Tango en Teatro Colon20世紀初頭にラテン・アメリカで普及し、1912年ごろアメリカに紹介された。音楽性の向上に加え,1910−20年代に当時流行の発信地であったパリで認められ大流行したことなどから,世界的な音楽として知られるようになった。1917年には《わが悲しみの夜》を歌って以来アルゼンチンの国民的歌手となったカルロス・ガルデルCARLOS GARDELにより,歌のタンゴが大流行した。

 

(タンゴの踊り)

Tango X2 en Teatro Presidente Alvearタンゴ発生当初は男1人のソロ・ダンスであったが,のちに男2人で組んで踊るようになった。この発生当初の踊りの様子は劇場で行われるタンゴショーの一場面として現在でも垣間見ることが出来る。さらに後年になり現在一般的に見られる男女で組む踊りとなった。男女が組む踊りが普及し始めた当初は男女が絡み合ういかがわしいダンスとみなされていたが、現在ではむしろ変化に富んだ身のこなし、スピード感のある足さばきなど、芸術性の高いダンスと世界中で評価されている。

 

(モダン・タンゴ)

初期タンゴの器楽的な発想に対し歌謡風な旋律が目立った30年代を経て,40年代にはヨーロッパやアメリカの新しい音楽的要素が導入され,モダンタンゴが発生した。50年代以降も古典派とモダン派,また両派の中間をいくさまざまな演奏スタイルの楽団が,多くのタンゴ専門歌手たちとともに活動をつづけた。70年代に至りその人気は下火となったが、80年代から90年初め、バンドネオン奏者であり、新しい旋風を巻き起こしたが故「タンゴの革命児」とも呼ばれたアストル・ピアソラの活躍でクラシック界でもタンゴが演奏されるようになり、チェロ奏者・ヨーヨーマなどがタンゴの作品を発表するなど再び復活の兆しも見られる。

 

(日本へ渡ったタンゴ)

アルゼンチン・タンゴの日本への紹介は1920年代末から1930年代始めに始まった。当初は欧米の演奏家のレコードによるものだったという。ダンスホールを中心に,社交ダンスとして流行し,40年までに日本の楽団も組織された。しかし40年ごろに戦争でダンスホールが閉鎖され一時中断された。しかし第2次大戦後も人気は根強く,早川真平とオルケスタ・ティピカ楽団が演奏していた。同楽団は藤沢嵐子を中心にラテン・アメリカを公演旅行して好評を博し、アルゼンチンでも日本人のタンゴといえば口をそろえて「ランコー」というほど現在でも年長者の間では名が知られている。しかし一方で「日本人は着物を着てタンゴを歌う」「タンゴは歌えるがスペイン語は話せない」などの固定観念を植え付けてしまった面もある。

 

Carlos Gardel en Chacarita(タンゴの作曲家)

アルゼンチン・タンゴの史上に現れた代表的音楽家としては,歌手カルロス・ガルデルCARLOS GARDELのほか,作曲家アローラEDUARDO AROLAS(1892−1924),《ジーラ・ジーラ》などを作曲したディスセポロENRIQUE SANTOS DISCEPOLO(1901−51)、楽団指揮者フランシスコ・カナーロ,ロベルト・フィルポ ROBERTO FIRPO,フリオ・デカーロJULIO DE CARO,フアン・ダリエンソ,カルロス・ディ・サルリCARLOS DI SARLI,アニーバル・トロイロANIBAL TROILO(私たちの家のそばに同氏のレストランがある。有名なトロイロ楽団を指揮しました),オスバルド・プグリエセOSVALDO PUGLIESEなどが挙げられる。

Cafeteria de Anival Troilo 

Anival Troilo en Chacarita(バンドネオン)

1821年ウィーンのブッシュマン C.F.L.BUSCHMANNが発明し,29年に改良者のデミアンC.DEMIANがアコーディオンと名づけた。後にアコーディオンを基にして19世紀の前半にドイツでC.ツィマーマンにより考案され、ハインリッヒ・バンドが商標BAND UNIONの名前で普及させた。19世紀後半にアルゼンチンに移入された。現在はほとんど制作されていないため、20世紀前半までに作成された名器といわれる楽器を修理して使用している。名器として名高いのはドブレ・アー(AA:製作会社ALFRED ARNOLDの略)と呼ばれるドイツ製のもの。

 

(コンチネンタル・タンゴ)

1910−20年代,パリを中心にアルゼンチン・タンゴがヨーロッパへ紹介されてのち,ヨーロッパの音楽家たちがそのリズムと形式をまねて作り出した。リズム自体にはアルゼンチンのものと比べ気迫や微妙な味わいが欠けるものの,ロマン溢れる旋律で,ダンス音楽,サロン音楽として世界各地に流行した。一方,南スペインのジプシーたちが発達させたタンゴ・フラメンコは,踊りを伴う歌とギターの音楽で独特な魅力をそなえたものとなった。

 

 

先頭へ