ニッポンにも居た伝説の三本足 〜ヤタガラスとは何ぞや〜
 
 「カラスと太陽の不思議な関係」の項で紹介した中国神話に登場する
「三本足のカラス」。この不可思議な生物にまつわる伝説が、朝鮮半島を経由して我らがニッポンにも伝播していることは、同項で触れたとおりである。
 ヒト呼んで
「八咫烏(ヤタガラス)」と発しまするこの生物。「咫(あた)」とは物の大きさを測る単位で、手を開いたときの親指から中指の先までの長さのことを指す(中国では手のひらの付け根から中指の先まで)。つまり、八咫烏は「咫(あた)八つ分のカラス」ということになるが、この場合サイズはさほど厳密ではなく、「(それくらい)でけえカラス」といった程度の意味合いであるらしい。このヤタガラス、太陽との関わりこそ中国・朝鮮半島でのそれより明確ではないものの、ニッポンにおいても古くより神聖な存在として扱われているのである。
 では、ニッポンのヤタガラスに関する今昔をざらっとご紹介しよう。


今日まで信仰続く神の使い in 熊野

 ヤタガラスは想像上の生き物であるが、敢えてニッポンにおけるヤタガラスの分布を尋ねたなら、
「熊野三山を中心とする紀伊半島南部」ということになるだろう。
 ニッポンを代表する霊場であり、全国に3000社以上ある熊野神社の総本山でもある熊野三山。ここでは、ヤタガラスは神の使いとして、いたるところにその姿を見ることができる。という。のだが。まだ自分の目で見たことがないのが口惜しい…

 「古事記」や「日本書紀」には、熊野を行軍中に道に迷って難儀していた神武天皇を、
高天原から遣わされたヤタガラスが導いた、という説話が残されている。ただし、これらの文献にはそのカラスが三本足であったという記述はなく、語り継がれる工程のどこかで、伝播して来た中国神話とのブレンドがあったのではないかと推測される。熊野大社に掲げられた幟に描かれているヤタガラスが日輪とおぼしき赤い円を背景としていたり、大社に程近い寺院の厨子で、日光菩薩が三本足のカラスが描かれた赤い玉を手にしていたりと、ところどころで熊野のヤタガラスと太陽との関わりをうっすら感じさせる点からも、熊野の神話と中国神話との緩やかな融合がうかがえる。

 さて、今日の熊野大社及びその周辺では、幟もカラス、狛犬(犬?)もカラス、絵馬(馬?)もカラス、バスもバス停もカラス、せんべいもまんじゅうもカラス、隅から隅までずずずいとカラスカラスのカラス尽くしであるそうだが、中でも有名なのが右の「熊野牛王宝印」と呼ばれる守り札である。

 この守り札は複数のカラスと宝珠を組み合わせた「カラス文字」にて描かれており(その柄は三山それぞれの神社で少しずつ異なる)、厄除け・家内安全・病の平癒・安産等の効用があるとされている。また、鎌倉の昔から江戸時代にかけて、誓いを立てるときにこの札の裏に誓約文を書くという使い方も盛んにされていたらしい。この誓いを破ると熊野でカラスが三羽死に、破った本人も血反吐を吐いて地獄に落ちるなどと言い伝えられていたそうだが、妙な連帯責任を負わされたカラスにとってはいい迷惑のようにも感じられる。

 いつかは熊野三山に詣でてこの守り札を入手したいものだが、その際には熊野のカラスを慮り、下手な誓いなど立てずにものぐさな人生を引き続き送ろうと思う。

 なお、ヤタガラスの伝説も含め、熊野情報に関しては、てつ&そま氏のサイト「み熊野ねっと」が素晴らしく充実している(上の牛王宝印画像もそちらより拝借)。熊野に興味をもたれた方は是非ご訪問されたし。


●関東に残る三本足のカラスを射る神事「オビシャ」

 「カラスと太陽の不思議な関係」の項で、暴走する太陽に矢を射掛けたら三本足のカラスが落ちてきた…という中国神話を紹介したが、これを髣髴とさせるような行事が関東地方の神社に残っていた。

 これは、
「年の初めに三本足のカラスを描いた的に向けて矢を射る」というもので、「オビシャ」と呼ばれている。これにより、その年の豊作と健康を願うのだそうである。カラスを使って豊作を祈る行事は他にも各地に残っているが(後述)、三本足のカラスをヤタガラス(=神格化された、そこらへんの畑ほじってるのとは別格のカラス)と考えると、これを射る、という行為には特別な意味を感じる。
 この行事の起源は諸説あるようだが、前述の中国神話に由来すると考えた場合、暴走太陽の化身であるヤタガラスを射ることで太陽の運行を調整し、何事もない1年となることを祈る、という流れは極めて自然である。オビシャは
「御日射」の字を当てる、という考え方もあるそうだが、前述のような起源が事実であれば、さもありなんと思われる。
 

●日本昔話「三本足のからすと犬」

 日本の昔話にも、ヤタガラス…かどうかはわからないが、熊野の権現様が出てくるからにはやはりヤタガラスなのだろう、三本足のカラスが出てくるエピソードがある↓

 神代の昔、カラスとイヌはともに足が三本であった。
 羽のあるカラスは足が二本だろうと三本だろうとあまり関係なかったが、地を行くイヌは、おのが三本足にたいそう難儀していた。

 日々の不便にたまりかねたイヌは、ついに熊野の権現様に「正直キツイっす」と陳情に赴いた。
 権現様はイヌを不憫に思い、一考ののちにカラスを呼び寄せた。

 「かくかくしかじかで、イヌは三本足を不便だと申しておる。ついては汝の足を一本イヌにくれてやってはくれまいか」
 「いッスよ」……

 この快諾を受けて、権現様はカラスより足を一本譲り受け、それをイヌにぴたりと接合した。
 このときより、カラスは二本足、イヌは四本足となったのだが、イヌは授かりものの四本目の足をそれはそれは大切にしていて、小用を足すときは飛沫がかからぬよう、常に足を持ち上げている。んだとさ。

 この昔話にはいくつかのバリエーションがあり、山形地方や沖縄方面の民話では、カラスは登場していない。イヌは神様に足を四本にしてもらい、感謝して小用のとき足をあげる…というところが共通している。
 あるいは、「三本足のカラスの伝説」と「イヌはなぜ小用のときに足をあげるのか」という話が結びついて、このような昔話となったのかもしれない。


●そして現在…その三本足は何を握っているか

 古より神の使いと信仰されたヤタガラス。彼らは現在も近代化の波にうずもれることなくニッポンのヒトビトの導き手として現役活躍中である。すなわち、
サッカーの日本代表のエンブレムに描かれた三本足のカラスがそれである。
 エンブレムの中のヤタガラスは羽を広げ、首をもたげて三本目の足に日輪と見まごうばかりのサッカーボールをしっかりと握っている。このデザインについてはあまり語られることがないが、シンプルながらも美しいバランスの、なかなかに素晴らしいデザインであるように思われる。

 今でこそ、「日本代表がなんでカラス」と思われる向きもあろうが、このエンブレム、デザインされたのはなんと
昭和6年にまでさかのぼる。キャラクターにヤタガラスを採用した理由については若干説に混乱があるらしいが、日本のサッカーの始祖として名高い中村覚之助氏が、どっぷり熊野の和歌山県那智勝浦町出身であったため、との説が主流となっている。

 W杯等でニッポンのヒトビトの熱狂を集めるサッカーであるが、その象徴ともいうべきところに、嫌われ者のカラスが鎮座しているのは面白い。願わくは、ヒトビトが熱狂の合間にその事実に目を向け、時にはカラスとニッポンのヒトビトのつながりに思いを馳せてくれればと思う。


 さて、足が一本増えただけで、大の嫌われ者からニッポンを代表する生き物にまで変化してしまうヤタガラスの神秘。もちろん、かつてのニッポンに比べれば、彼らの知名度ははるかに低くなってしまっただろうが、今もなお、その信仰は受け継がれ、後世へと伝えられている。



神とヒトとの連絡係か カラス神事に見るニッポンのアニミズム
 
 ヤタガラスのように特別に神格化されたものはもとより、カラスを神の使いと見てそれにまつわる神事を行う風習はかつて日本中に存在していた。今では絶えてしまったものもあるが、カラス神事はまだ各地で見ることができる。
 特によくみられるのが、
カラスに供え物をして豊作を祈る風習で、この場合、カラスは人里と天界を結ぶ使者と考えられていることが多く、「神の先鋒」といった意味合いの「ミサキ」の尊称で呼ばれることもある。ギリシア神話や北欧神話でカラスが神の使いとして活躍していることを考えると、この共通性は面白い。
 日の出とともに人里に下り、日の入りにつれて山に帰るカラスの姿は、古のヒトビトの目には神とヒトをつなぐものに感じられたのだろうか。


あおげば尊しからす団扇 〜大國魂神社のすもも祭〜

 東京都府中市の大國魂神社は、武蔵の国の守り神を祀った神社であるが、ここでは毎年夏に行われる「すもも祭」にてカラスが描かれた団扇と扇子を頒布している。
 この団扇、五穀豊穣・悪疫防除・厄除けの効能があり、耕作地を扇げばたちどころに病害虫は霧散し、病人を扇げばうれしやたちまち平癒、玄関先に飾れば魔を祓い厄はその家を素通りするという、点火と消火しか能がない芭蕉扇など比べものにならぬありがたい団扇である。そうな。
 で、何故団扇にカラスかというと、神代の昔、稲の実りを司る歳神がイナゴの害を避ける方法をいくつか耕作者に伝授したのだが、その中のひとつが「カラス柄の団扇であおぎんしゃい」というものであった、という言い伝えに由来しているのだそうだ。カラスとイナゴの関連性の追求はさておき、歳神様の伝える他のイナゴ避け技がどのようなものであったかが微妙に気にかかる今日この頃である。

 ちなみにこの団扇、年に一度の祭でしか入手できないレアグッズであるが(その日は約7万人の参拝者で賑わうらしい。カラスともあろうものが大変な人気である)、予め申し込んでおくと取り置きや発送に応じてくれるのだそうだ。


●カラスが占うその年の吉凶 〜御烏喰式・烏勧請〜

 大國魂神社のすもも祭では団扇の柄としていわば象徴的に用いられているカラスであるが、現役でそこらへんを飛んでいるカラスそのものを参加させてしまう神事もかつてのニッポンには少なくなかった。
 それは、地方によって家内安全や無病息災を祈るものであったり、豊作を祈るものであったり、年明けに一年の豊凶を占うものであったりする。そして、その行事の名称も様々であるが、
「神の使いであるカラスを呼び、捧げものをする(餅やダンゴ)。それをカラスが持っていけば、縁起がいい」という点でほぼ共通する。

 現存するこの手の神事としては、宮島の「御島巡り」のメインイベントである
「御烏喰式(おとぐいしき)」が有名であろう。
 御島巡りは、船で宮島の周囲を右回りに巡り、浦々に鎮座する神社に参拝するという行事である。で、その中の養父崎裏神社の祭神が、誰あろう二羽のカラス(御烏とか神烏と呼ばれるらしい)。御島巡りの祭、養父崎裏神社沖で海上に祭壇を設営し、そこにダンゴを供えてカラスを呼ばわると、神社方面から神の使いたる二羽のカラス、いや御烏が現れて、このダンゴを咥えて行く。これが「御烏喰式」である。この行事、御烏が来るまでかなり待つこともあるし、御烏が現れないこともあるようだ。無事御烏に供物が渡ると「縁起が良い」「願い事がかなう」とされている。
 ちなみに、御島巡りの行事は、厳島神社の祭神が鎮座する場所を求めて宮島の浦々を巡ったという言い伝えに基づくものだが、このとき、
先導したのがカラスだったそうな。前述のヤタガラスを思わせるエピソードである。

 また、今はほとんど失われてしまったが、かつてのニッポンには、カラスに豊作を祈る風習が各地に残っていた。
 それは、年の初めに田や自宅前で掛け声をかけてカラスを呼び、飛んで来たカラスに餅やダンゴを投げ与える行事で、
「烏勧請」「烏呼ばり」「農立て」等、地方によって様々な名称で呼ばれている。どの地方においても、カラスは田の神・山の神等の農業をつかさどる神の使いであるとし、投げた餅やダンゴをカラスが空中でキャッチすると縁起が良いとされている。供物の捧げ方に多少の違いがあるとはいえ、御烏喰式と非常に似通った行事である。

 かの民俗学者柳田國男氏は、ゴルフのプレイ中にカラスが打ったボールを咥えていってしまう事例を聞き及び、この長きに渡る風習が原因となっているのではないかと推し量った。カラスにボールを奪われた瞬間カラス殲滅を決意した某都知事とはえらい違いである。
 とにかく、今では都をあげて予算つぎ込んで撲滅に精を出されているカラスが、そう遠くない過去、同じ関東地方においてヒトビトの生活や信仰に深く関わり、そこには幾ばくかの敬意(自然に対する畏敬の念)が存在したのは事実であろう。

 
これらニッポン古来の風習を知るにつけ、個人的な趣味や好みの話になってしまうが、これからヒトが生きていく上で快適な環境を維持していくためには、上記のような日本古来のアニミズム(森羅万象に精霊が宿るという考え方)は結構便利なのではないかと考える。カラスを克服すべき敵として見るか、精霊…とまではいかないまでもその精神的価値を認め(隣人くらい?)、より良いヒトとの関係を考えていくべきか。カラスが増え、その対策をとらざるを得ない今日にあって、どちらがわれわれヒトにとって精神衛生上ストレスの少ないスタンスだろうか、とふと考えてしまう。


カラスを詠えば 〜万葉集から大正唱歌まで〜

 良かれ悪しかれ、カラスはここニッポンにおいてずっと昔からヒトビトにとって最も身近な鳥のひとつであり、それ故しばしばニッポン文化のあちらこちらに顔を出す。歌の世界も例外ではない。ここでは、カラスを詠った歌から、ニッポンのヒトビトがカラスをどのように見てきたのかを考えていきたい。

■ カラスを詠む 〜万葉集の中のカラス〜

 ニッポンに現存する最古の歌集、「万葉集」。その中に既にカラスが登場している。その数、四首。数千首の中のわずか四首であるし、チドリだのホトトギスだの人気者の歌に比べれば物の数でもない。しかし、当時のトップスターであった野鳥たちが次々とヒトの前から姿を消していったことを考えると、7〜8世紀の昔から変わることなくヒトの近くで生きているカラスの付き合いの長さにほとほと感心してしまう。万葉の世界のカラスは、どのような姿を見せているのだろうか。


暁と 夜烏鳴けど この山上の 木末の上は いまだ静けし

意訳:朝が来たとカラスが鳴いているが、この岡の梢はまだ静かだモンね


朝烏 早くな鳴きそ わが背子が 朝明けの姿見れば悲しも
意訳:カラスよ、あまり朝早く鳴かないでくれろ。いとしいヒトが朝帰りする姿を見るのは悲しいじゃないか

烏とふ 大をそ鳥の まさでにも 来まさぬ君を ころくとぞ鳴く
意訳:うそつきカラスが、来もしないあのヒトのことを「来るよ、来るよ」と鳴いている

波羅門の つくれる小田を 食む烏 瞼腫れて 幡桙に居り
意訳:高僧がつくった寺の田んぼでつまみ食いをするカラス。満腹して眠そうに旗竿にとまっているよ


 上の二首はカラスの朝鳴きを題材に、愛人とまだまだ一緒にいたいんだもーんという心情を詠った歌である。平安のレンアイ現場では「もう帰らなきゃ」「まだいいじゃない」「でもほらカラス鳴いてるし」「イヤッイヤッ!カラスが恨めしい…」などというやりとりがよくあったのだろうか。朝を告げる鳥の鳴き声の代表格はニワトリだろうが、ニワトリの声など滅多に聞かれなくなった現代において、「カラスがカアで夜が明けて」というこのアプローチは、ニワトリよりむしろ馴染み深く感じられる。
 ちなみに、ここで言われている「夜烏」と「朝烏」は、同じ
「夜明けとともに現れるカラス」をあらわしている。

 次の一首もまた、恋の鞘当てにカラスを巻き込むタイプの歌である。恋に溺れてアッチ側にイッちゃってるときは、カラスの鳴き声も恋占いに聞こえてしまうらしい。この類の恋日記は、後年自分で読み返すと「ぎやー」と叫びながら川に飛び込みたくなるほど恥ずかしい代物であるが、万葉集に収められてしまったのが運のつき。作者はよもやこの後千年以上も残って人目にさらされ続けるとは思っていなかっただろうなあ。

 さて、最後の一首は、上の三つに比べると少々変り種である。
 どうやら、最初に「波羅門」「烏」「幡桙」等のお題があって、それをまとめた三題話系の歌であるらしい。他三首の愛だの恋だのでドロドロしているものに比べると他愛ない内容だが、えらい坊さんとカラスの取り合わせがとぼけていて楽しい。

 これらの歌から察するに、はるか千年以上前のニッポンでも、カラスは朝やかましく鳴き交わし、田んぼを荒らしてヒトにちょっかいをだしていたらしい。歴史とロマンの格調高き万葉集にあってもカラスとヒトの腐れ縁は変わっていないようだ。千鳥や都鳥と違って、身近すぎてサマにならないといったところだろうか。


■ カラスと洒落る 〜江戸川柳とカラス〜

 「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」…カラスが登場するこの有名な都々逸は、幕末の志士高杉晋作の作であるといわれている。幕末の志士にも某都知事みたいな思考回路のがいたんだな〜と思う一方で(とはいえ、「粋な洒落」と「マジで殺っちゃう」のとではえらい違いだが)、江戸時代にあってもヒトは相変わらず朝のカラスのやかましさに辟易してたのだなあ、とニヤリとしてしまう。
 太平の世、ヒトで賑わうところには当然カラスも集まってくる。そう考えると、花のお江戸のカラスの数は相当多かったのではないかと推察される。江戸っ子たちとカラスの関係を探るべく、庶民の文化江戸川柳から、カラスを詠ったものを集めてみた。

なんぞ名の あるべきものを からす瓜

 …いきなりカラスではないのを持ってきてしまったが。
 当時のカラスの扱いがよくわかると思い、最初にあげてみた。「他に名前はいくらでもあるのに、よりによって『カラス』ってアンタ…」というのが江戸の庶民の普通の感覚だったのだろう(現在にも通じそうだ)。

品川は 烏よりつらい 馬の声

 東海道第一の宿場である品川では、馬の声(転じて旅立つヒトを見送ること)の方がカラスの声よりつらい…というこの句。同じ「つらい」でも、カラスと馬とじゃえらい違いである(カラス→うるさくてつらい、馬→別れがつらい)。それにしても、カラスとその賑やかな鳴き声とは、ニッポンでは切っても切れない関係であるらしい。
 ただし、江戸の頃にはそんなカラスの鳴き声が歓迎される数少ない機会が年に一度は存在した。

元朝の 烏 鶴にも まさる声
憎まれぬ のは元旦の 明烏
元旦の 烏は年の 手力雄(たぢからお)

 誇張はあるだろうが、
「鶴にもまさる」とは恐れ入る。朝っぱらからうるさい、忌々しい…と言われ続けているカラスの声も、元旦の朝はお目出度い「年を告げる声」へとがらりと扱いが変わってしまう。天の岩戸を押し開けて天照大神を引っ張り出した天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)になぞらえられるほど、江戸のカラスは元旦の朝の花形なのである。

 さて、万葉集では、「朝うるさい」ほかに「食べ物をちょろまかす」という歌があったが、江戸川柳ではどうだろうか。

あれ烏め というふりで ひとつもぎ
甘干(干し柿)も 内の烏に してやられ

 さすが江戸川柳、一筋縄ではいかない。食べ物をちょろまかすカラスよりも、カラスに罪を着せて上前をはねるヒトの悪知恵の方が一枚上手のようだ。

 明治の初期、日本にやってきたアメリカの動物学者エドワード・S・モースは、当時のトウキョウにおけるカラスの姿を
「街頭の掃除人」と記している。
 彼は、人力車にぶら下げていた提灯をカラスが破いて中の蝋燭をもっていってしまったのを見て、ニッポンにおけるヒトとカラスの距離の近さに驚いたそうだが、これはどうやらニッポンのカラスが代々伝えるお家芸だったらしく、現代ニッポンでもカラスが火のついた蝋燭を盗んでニュースになったりしている。
 現代のヒトビトはこのニュースを聞いて、カラスが増えてずうずうしくなった、やつらは進化している、今にヒトはカラスに集団で襲われるんだ〜などと騒いでいるが、別段今に始まった話ではないことを考えると、これらの心配は無用であろう。


■ 歌人・野口雨情の目 〜大正唱歌とカラス〜

 唱歌などすっかり廃れて久しいが、下の童謡は誰しも一度は耳にしたり、口ずさんだ経験があるのではないだろうか。

「七つの子」

からす なぜ啼くの からすは山に
可愛(かわい)七つの子があるからよ

可愛 可愛と からすは啼くの
可愛 可愛と 啼くんだよ

山の古巣へ 行ってみてごらん
丸い眼をしたいい子だよ

 
カラスを詠った歌の日本代表ともいえるであろうこの歌は、しみじみと優しい歌詞とメロディで昔からニッポンのご家庭で広く親しまれている。童話などでネタにされやすいカラスの黒い姿やいたずらな性質を取り上げるのではなく、親子の情愛に焦点を当てているところがカラス好きには嬉しい点である。少なくとも、この歌を聞いてカラスに悪印象を抱くヒトはいないだろう。

 この歌の作詞者は野口雨情。北原白秋、西條八十と並ぶ「童謡三大作詞者」の一人である。その代表作を見てみると、「赤い靴」「兎のダンス」「しゃぼん玉」「証城寺の狸囃子」…誰もが知っている童謡がぞろぞろと出てくる。大正8年、童謡童話雑誌『金の船』にて作詞家として迎えられて以来、昭和20年に62歳で没するまで精力的に歌をつくり続けた、大正唱歌の主たる担い手の一人である。


童謡「七つの子」の謎

 さて、上の「七つの子」であるが、恥ずかしながら幼少のころより「七つ=七歳の子」であると思い込んでいた(ちなみに、ミガキニシンは輝いているに違いないとも思っていた愚かな幼少時代であった。まさか身欠きニシンとは…)。カラスで七歳といえば相当いい年のオッサンオバチャンである。あまり可愛い可愛いと連呼したくなる対象ではない。「七つ=七羽の子」であると同年輩の子に教えられたときは、幼いながらにこっ恥ずかしい思いをした記憶がある。
 しかし、成長してカラスの生態に精通してみると、現実にはカラスは七羽も子を産まないことがわかり、「この歌の作詞者はカラスのことをあまり知らないのだろうか」「知っていても語呂がいいから敢えて七つにしたのかもしれないな」などと考えていた。
 ところが雨情関連の資料をいろいろ調べてみたところ、「七つ=七歳」の可能性がでかいことが判明した。
 作詞した当時、雨情には七歳の息子があり、長旅で離れ離れになる寂しさ、子への募る想いを「七つの子」にこめた、と雨情自身が語ったというのである。これが本当なら幼少時代のファーストインプレッションの勝利ということになる。のだが。
 はっきりしないことに、別の文献では、「七つ=たくさん」くらいの意味合いである、とこれまた雨情自身が語ったとされているのである。一体真実は何処にあるのか。
 調べるほどに謎の深まる「七つの子」であるが、歌詞の解釈が唯一つでなくてはならないという決まりはないし、雨情のそのときそのときの様々な心情がこめられてこのような形になったのだと思えば納得も行く。つーか、普通のヒトには「七つ」が何を意味しているかなど、どうでもいいことなのだろうが…
 一見他愛なく感じる童謡であるが、他愛ないからこそそこには多くの心情や背景が内包されているものなのだろう。


大正唱歌の立役者は稀代のカラス歌人?

 元はといえば童謡「七つの子」を作詞した野口雨情とはどのような人物だったのだろうか?という軽い好奇心からスタートしたのだが、調べを進めていくうちに、カラス好きの人間にとって、この雨情なる人物は只者ではないことが次第に明らかになってきた。

 雨情が作詞した「カラスが登場する童謡」の数が半端ではないのだ。

 勿論、三大作詞者の一人であり、質の高い有名唱歌を量産し続けた雨情のことだから、全体の作品数からすればその比率はたいしたことはないのだろうが、カラスの歌を検索してみると、出てくる歌のほとんどに「作詞:野口雨情」の文字が輝いている。もともと、歌の中の一つの風景や脇役としてカラスが出てくる歌はそこそこあっても、カラス自体を主題とした歌はあまり多くない。雨情が特に好んでカラスの歌をつくったのかどうかはわからないが、少なくとも雨情ほどカラスを主題とした歌をつくった人物はいないのではないか、というくらいその数は飛びぬけているのである。

 しかし、多くのカラスの歌の中で、現在も歌い継がれているのは「七つの子」くらいのもののようだ(大正唱歌自体消滅する方向に進んでいるのかもしれないが)。中には、詞だけが残ってメロディがわからなくなってしまった歌もあるらしい。幸い、といっていいのかどうか判らないが、野口雨情の詞は著作権が消滅している。保存の気持ちも込めて、ここらで雨情のカラス・メドレーと参りたい。

 なお、野口雨情の作品と人物像については、下記サイトを参考にさせていただいた(歌詞は、一部読み易いように現代仮名遣いに直している)。快くデータの引用を許可してくださった管理ご担当の方に心から感謝したい。

童謡、唱歌、クラシックの楽譜ダウンロードサイト「d-score」


雨情カラスメドレーその1:タイトルに「カラス」が入る歌

「烏と南瓜」

南瓜畑に カラスが来てる ドドンガドン
カラスァ南瓜を ながめてる。

カラス見てたりゃ カラスも見てる ドドンガドン
カラスァ柿木に 飛んで行った。

南瓜叩いて 数えてみたりゃ ドドンガドン
カラスァちょろりと 見て啼いた。

南瓜欲しけりゃ こっち来なカラス ドドンガドン
カラスァ黙って あっち向いた。

 特になんてことも起きないが、カラスとヒトのとぼけた関係が味わい深い作品である。カラスが南瓜を食べたがるかどうかはいざ知らず、それを振舞ってやろうとするヒトも、そっぽ向くカラスも面白い。 ところで、この詞最大のミステリはやはり「ドドンガドン」であろうか。恐らく、カラスがドドンガドンなんじゃなくて南瓜がドドンガドンなのだと思われるが…

「烏の行水」

カラスの行水 ピッチャ ピチャ
ずんぶり潜って バタバタ 羽ばたき
雨笠 傘 用意しな

明日は雨だよ ピッチャ ピチャ
空見て 雲見て またまた 羽ばたき
空から水まく 気をつけな

河原も大水 ピッチャ ピチャ
小石もころげて ごろごろ流れる
お百姓 田圃の 番をしな

 カラスの行水がえらいところまで飛躍する。「カラスの行水」といえば早風呂の代名詞だが、こちらはさっと終わるどころかどんどん大事になっていくのが豪儀である。しかし、洪水になるほど雨が降るなら行水の意味はないような…

「烏のく○んぼ」

カラスのく○んぼ 山へゆけ。
山は風吹く 寒いから いやいや。

山が寒きゃ 海行って遊べ。
海も風吹く 寒いから いやいや。

カラスのく○んぼ どこへゆく。
町へ行って遊ぶ。

 …これは別の意味で今は歌えまい(思わず伏字にしてしまった)。カラスが軟弱な遊び人風に描かれているが、この寒さ嫌いのシティ野郎は、やはり南方系都心部在住のハシブトのことであろうか。

「烏の小母さん」

カラスのおばさん 機(はた)織ってた
チンバタ チンバタ 機織ってた

木綿の腹掛け 機織ってた
泣く児に 腹掛け買ってやれ

カラスのおばさん 機織ってた
チンバタ チンバタ 機織ってた

更紗の綿入れ 機織ってた
泣く児に 綿入れ買ってやれ

 解釈に悩むのが各番の最後の一行。機を織ってるのがカラスということは、「泣く児」はカラスの児ではなくてヒトの児か。で、アレか。カラスが織りあげた腹掛けや綿入れを購入しろ、と。そういう歌か。なかなか突飛な展開である。
 カラスは苛立ったときに、自分がとまっている木の枝をむしったり、くちばしをこすりつけたりする仕草を見せることがあるのだが、雨情の目にはあれが機を織っているように見えたのかもしれない。

「夜明け烏」

ホカホカ啼くのは 明け烏
もう夜が明ける 夜が明ける

夜明けの海には星ひとつ
お山の上にも星ひとつ

夜明けのお星は もう見えぬ
もう夜が明ける 夜が明ける

夜明けにゃ夜明けの明け烏
ホカホカ啼くから 夜が明ける

 明け烏は万葉の頃より好んで歌われてきた題材だが、雨情は「けたたましい」「うるさい」とされてきた朝のカラスの声を、「ホカホカ」と表現することで、簡単にのどかで穏やかな印象に変えてしまっている。この辺の手並みは、さすが三大作詞者の一人、鮮やかなものである。

「千羽烏」

生まれ故郷の 父母(ととかか)さまよ
今日もわたしは 糸とりながら

父と云いました 母と云いました

千羽烏の カホカホ声よ
父が恋しい 母なつかしい

 タイトルはカラスだが歌の中ではどちらかというと脇役。こちらのカラスの鳴き声は「カホカホ(旧仮名遣いで「カオカオ」かも)」である。ふるさとの父と母を懐かしむところに、カラスの声が物悲しさを添える。…実際にカラスが千羽揃ってカホカホしようものなら、やかましくて故郷を懐かしむどころではないだろうが。

「はぐれ烏」

カラスァ啼くから 出てみりゃいない お母さんよ

わたしゃカラスに だまされた オヤお母さんよ

はぐれガラスだ だましたカラス お母さんよ

カラスァ啼いても もう出ない ヤオお母さんよ

 他愛もない歌だが、それ故に単にカラスがいたとかいないとかいうだけの歌だろうか…と勘ぐってしまう。これは童謡ではなく、雨情の手による新民謡というカテゴリの歌だが、不実な男に騙されたことをカラスにかこつけて歌っているようにも感じられる。執拗に母親に愚痴っている(?)のも何だか怪しい。

「烏」

風に吹かれて そよそよと
山の枯葉は 皆落ちた

木曾に木榧(きがや)の 実はうれる
かえれ信濃の 旅烏

茶の樹畑の 豆食べた
鳩は畑の どこで啼く

 タイトルコールにも関わらず、中盤でようやく姿を現したカラスはあっという間にハトに取って代わられる。そして、カラスのくだりまで詞を覆っていた荒涼としたもの悲しさは、豆食ったハトによってきれいサッパリ拭い去られてしまうのである。恐るべし、ハト。

「カラスの学校」

カラスの先生はカアーカアー鳴いた
鳴き鳴き教えた カキクケコ

カラスの生徒はカアーカアー鳴いた
鳴き鳴き覚えた カキクケコ

先生も生徒もカアーカアー鳴いた
カラスの学校は カキクケコ

 童謡の世界を眺めるに、鳥の学校では一般に鳴き方を教授するものであるらしいが、カラスの学校の方が、教師が鞭を振るう(ま、それで生徒を打つわけではなくていわゆる教鞭であろうが…)スズメの学校に比べ、幾分平和的な様子である。

雨情カラスメドレーその2:カラスが主役の歌

「十文字」

道の十文字で カラスが啼いた
不思議打ち打ち カラスが啼いた
何のことだろ 胸まで響く
今日もかんぶり振って また啼いた

 あまり意味がないような、それでいて心に引っかかるような、何となく陰のある詞である。作曲者はこの曲のことを「解説の必要もない、通俗向きの曲」といっているらしいが、そんな投げやりな曲に詞をつけた雨情の立場って一体…

「上野のお山」

上野のお山の かんガラス
神田の子どもは 何してた
表の通りで 遊んでた

上野のお山の かんガラス
神田の子どもは 何見てた
何にも見ないで 屋根見てた

 上野⇔神田、カラス⇔子どもの対比で歌が進んでいくが、カラスは特に何もしていない。というか、単なる掛け声のようでもある。それにしても神田の子どもは、実際のところ何も見てなかったのか屋根見てたのか、どちらかはっきりしてもらいたいところである。

雨情カラスメドレーその3:カラスがでてくる(脇役の)歌

「哀別」

海は見たれど 海照らず
山は見たれど 山照らず
時雨の雲の 雨の戸に
わがためぬれた 人もあり。

中山道は 山の国
常陸鹿島は 海の国
これがたまだま 五十里の
山を越えたる 別れかよ。

カラスしば啼く しばらくは
山のあなたで 啼けばよい
今宵一夜を 哀別の
涙でともに 語ろうよ。

 ここでもまた、「物悲しいツール」としてカラスとその鳴き声が使用されている。朝のカラスは賑やかでも、夕暮れのカラスはヒトビトに寂寥感を与えるらしい。

「畑ン中」

真昼間でごわしょう
畑ン中に 田鼠(もぐらもち)が一匹
斑犬(ぶち)に堀ぞべられて
イヤハヤ むんぐらむんぐら居やあした

畑の土は 開闢(かいびゃく)この方
黒いもんかどなもんか
真のところ カラスに聞いて見やあすべい

畑ン中は 青空天井 不思議はごわすめえ
喉笛鳴らした ケーケーケー
鶏(かしわ)が走った
こりゃまた事かと たまげはらって見てやあした

蜻蛉(あけづ)が一匹
追っかけまわった つつくわつつくわ
ぶっ飛び上がった 飛んだわ飛んだわ
蜻蛉は御運でござりあした

地主様の一人娘が
娘に二種(ふたいろ)何処にごわしょう
どどのつまりが エヘン
孕み女になりやあした

畑ン中の豆ン花どなもんだ
朝っぱらから何事ぶたずに
べろりと咲いてござりやあす

 個人的な感想を言わせてもらえるなら、「なんつー歌だ」という言葉が先に立つ。トンボもおかしいが孕み女ってアンタ…そして豆の花はべろりである。雨情は意図的に畑の世界を土着的というか、滑稽でグロテスクに描こうとしたのだろうか。魑魅魍魎が跋扈する畑の中にあって、カラスが比較的まともな扱いを受けているのが妙にほっとする。

「田螺(たにし)」

田圃見てたりゃ カラスの鳥が
田螺たたいて 遊んでる

可哀想だな 田圃の田螺
たんこたんこと たたかれる

 田螺には申し訳ないが、ついつい笑ってしまう。実際田園部ではありがちな風景で(恐らくカラスはハシボソであろう)、見たままを描写したような感じだが、田螺のリズミカルなたたかれっぷりは童謡ならではというかなんというか。

「鼬(いたち)」

鼬ァ騒ぐから 背戸(せど)へ出てみたりゃ
カラスァ河原で 水浴びしてた

山の頂上にゃ 薄雲かかる
今夜山から 雨ァ降るか

 イタチよ、それは騒ぐようなことか?と突っ込みを入れたい。歌の主人公もあっという間に興味を失ってしまったらしく、次の瞬間今夜の天候のことを考えたりしている。カラスの水浴びはイタチの漁場荒らしだったのだろうか。

「相馬街道」

相馬街道の 馬追いさんは
肩で風切って 南へ通る

おぼこ娘は おぼろに紅い
咲いた桜も おぼろに赤い

田圃カラスか 馬追いさんは
おぼこだまして 二度来てくれぬ

相馬街道の 馬追いさんよ
おぼこ娘に 何に変ろ

 なぜ馬追いの悪行が田圃のカラスにたとえられるのかよくわからない。「つまみぐい」「食べっぱなし」ということだろうか。とりあえず、生きるため食うために田圃を荒らすカラスにしてみれば、「一緒にするな」と憤りたいところであろう。

「蜻蛉(とんぼ)釣り」

カラスァ帰るに 日は暮れゆくに
ササドンドン
蜻蛉釣りでも してるかよ

蜻蛉ァ姉さん 小松の蔭を
ササドンドン
連れ衆たずねて 飛んでくる

連れ衆釣るなよ 日は暮れゆくに
ササドンドン
暮れりゃ蜻蛉も 松に寝る

 童謡の王道、「日暮れツール」としてのカラスである。とりあえずカラスは本編とは何の関係もなく、冒頭でいきなり帰っていく。

「日傘(ひがらがさ)」

わかれた母さん 日傘
物言うてくだされ 日傘

お背戸(せど)に風吹く 篠藪(しのやぶ)は
カラスに食われた 烏瓜

母さんわたしも 日傘
物言うてくだされ 日傘

 何となく不気味な印象の詞。幼少の頃、真っ暗な夜よりも暑い晴れた昼下がりの方が意味もなく怖く感じていたからそのように感じるのだろうか。曲調は明るいのだが…
 この歌ではカラスは直接は登場せず、その食痕のみが記されている(やっぱり何だか不気味だ)。


 さて、ここまで野口雨情のカラスの歌を見てきて、如何お感じだろうか。
 雨情の歌の中に、カラスは様々な姿で描かれるが、総じて感じ取れるのは雨情のカラスを含めた物事に対する
観察力の高さ、先入観の少なさである(そもそも先入観は観察の大敵なわけだが)。そして、代表作「七つの子」は勿論のこと、「烏の小母さん」や「カラスの学校」のような童話的な歌でも、あまりステレオタイプなカラスのイメージ(ずるい等)が使われていないのも特徴的である。
 このことについて、雨情自身はこのように言っている。
「一般にカラスは横着者で醜い鳥だとばかり思われてきたが、童謡の世界ではそうした醜い感情も愛情の焔に包まなくてはならない。同様の境地はいかなる場合にも愛の世界であり、人情の世界でなくてはならないのだ」
 今も雨情の歌が多くの人に愛され、歌い継がれている理由は、彼のこのような心情にあるのかもしれない。



まさかの実在人物 権兵衛とカラス、永遠のライバル関係を追う

 権兵衛氏といえば、名前があるのに名無しと呼ばれたり、大量の鴨に引かれて空を飛んだり、赤子の風邪に湿布を処方したりするので有名であるが、一方でカラスとの永遠のライバルであることについて何かと取りざたされる人物でもある。
 「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」…徒労の代名詞ともなったこの歌の文句、今では耳にしたことのないヒトも多いかもしれない。歌詞はその後、「三度に一度は追わずばなるまい」と続く。江戸の頃には既にヒットソングとして歌われていたらしく、時事ネタをもじった替え歌も結構あるようだ。
 この歌は、北原白秋の「まちぼうけ」のように、何となく間が抜けていてちょっと意地悪な戯れ歌で、権兵衛というのはそれこそ「名無しの権兵衛」というか、不特定多数の農民を指すものだとずっと思っていたのだが、調べてみると驚愕の事実が判明した。

なんと、この歌の権兵衛氏は実在していたのである。


しかも二人も。

 まさかの実話の真相を調べるために、カラスと二人の権兵衛氏の永遠のライバル関係を追った。


●一人目の権兵衛:雉捕り名人の悲劇 〜鷹狩りに隠された確執〜

 話は江戸中期にさかのぼる。「将軍サマのお鷹狩り」と聞いて、某暴れん坊松○健氏が納豆入った藁みたいな笠かぶって肩に鷹を乗っけている姿を思い浮かべる方も多いと思うが、まさにあの時代、将軍サマの颯爽とした鷹狩り姿の裏には、下々のものの涙ぐましい努力が存在した。

 当時の鷹狩りのメッカは専ら目黒方面であったのだが、軍事訓練を兼ねているなどといいながらも普段はお城でふんぞり返っている将軍サマがレジャー感覚で野山に赴いたとて、おいそれと獲物が捕れるわけがない。が、「捕れませんでした」では将軍家の沽券にかかわる。そこで、下々のものの暗躍となるのである。
 すなわち、事前に獲物となる雉等の野鳥を集めて飼育しておき、将軍サマお出ましの際に、お狩場に放つのである。何のことはない、狩りどころか釣堀みたいなものであるが、そこはそれ、命より面子が大事なお武家様の世界である。当時は鷹狩りだけで、何十人もの専門の役人を抱えていたらしい。

 で、この事前に獲物を集めて飼育しておく役を「綱差(つなさし)」と呼ぶのだが、目黒のお鷹場で栄えある初代綱差の任を与えられたのが、だれあろう、権兵衛氏なのである。
 近在の農民ではあるがきちんと苗字もあって、川井権兵衛という名が今に伝えられている。
 この権兵衛氏、雉捕りの名人として名高く、その後代々目黒の綱差は川井家が務めたというのだからなかなかたいしたものである。
 それで、この権兵衛氏とカラスがどう関わってくるのかというと、彼の誉れある雉捕りに深く関係した話となる。

 権兵衛氏の雉捕りは、将軍サマの獲物用なので当然生け捕りが身上である。で、どうやって捕るかというと、まず地上に雉の好物をばら撒く。そしてその近くに立てた小屋に身を潜める。そして雉が集まってきたところで電光石火!小屋から飛び出して網をかぶせ、一網打尽とする。…眩暈がするほどシンプルかつ忍耐力が要りそうな捕獲方法であるが、名人と呼ばれるからには、それなりのコツというか、秘伝があったのであろう。
 ところが、当時この名人芸に水を差す無粋者が存在した。

 カラスである。

 カラスは、権兵衛氏が蒔いた雉用の餌を横から失敬してしまうのだ。
 恐れ多くも将軍様ともあろうお方が、カラスなんぞを鷹狩りの獲物にしたがるわけがない。
 餌は食べられ損になってしまう。

 当然権兵衛氏は怒る。
 怒って小屋から飛び出す。
 「お前に食わせるタンメンはねえ!」とばかりにカラスに向かって長い棒ッ切れを振り回す。
 カラスは舞い上がる。
 カラスを追い払った権兵衛氏は、雉を迎えるべく小屋に引き返す。
 すかさずカラスが舞い降りて再び餌をついばみ始める。
 権兵衛氏、再びムキー!と小屋から飛び出す…

 そんなことを際限もなく繰り返しているうちに、それを見ていたほかの連中が、いつのまにやら「♪権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい…」とはやし始めた…のだと伝えられている。
 つまり、権兵衛氏が蒔いた種は、芽吹くために種ではなく、雉捕りのための餌だったということになる。

 江戸の庶民には、権兵衛氏が釣堀狩場をつくるために、はっちゃきこく(北海道の言葉でハッスルするの意)姿はもとより、お上のご威光のために右往左往するヒトビトの姿は、流行り歌にして笑い飛ばしたくなるほど滑稽なものだったのかもしれない。


●二人目の権兵衛:驚異のスーパーヒーロー、種まき権兵衛

 
時は同じ江戸の頃、上の目黒の権兵衛氏の時代からやや経ったあたり。三重に権兵衛という一風変わった農民がいた。
 元武士を父に持ち、農民でありながら腕のいいハンターであった彼は、本業の耕作をほったらかして、田畑を荒らす害獣を始末したり、殿様に鉄砲の腕前を披露して褒められたりしていたが、父親が亡くなったのを機に、行いを改めて残された田畑を耕すのに精を出すようになった。

 が、慣れない農作業に急に手を出したため、その手つき足つきはおぼつかず、蒔いた麦はそのそばからカラスに食われていく始末。その姿を見たほかの村人たちは、当時流行していた歌をもじって「
「♪権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい…」とはやしたてた。
 しかし権兵衛はおかまいなし。むしろカラスが満足するべく更に大量に麦を蒔く有様。村人たちは呆れ果てた。
 ところが収穫時に大逆転が起きた。カラスを追い払うのに労力を割きすぎたほかの村人たちの畑は収穫量が少なく、カラスが満腹するほど大量に麦を蒔いた権兵衛氏の畑だけが豊作となったのだった。権兵衛氏は以前にからかわれたことなど気にすることなく、気前よく他の村人に収穫を分け与えたという…

 …なんですかこのスーパーヒーローは。こうなってくると、歌のイメージとはまったく異なる権兵衛像である。更にこの権兵衛氏、努力に努力を重ねて村一番の出来高を誇るようになり、勇者で努力の人で慈悲深い観音様のような人とヒトビトに褒め称えられ、最後には
恐ろしい大蛇を退治に出かけて相対死にするという、仰天人生を送っている。
 今でも三重では彼の供養祭が毎年行われていたり、記念館があったりと、そのスーパーヒーローっぷりは色あせていない。のだそうだ。うーむ。


参考文献:アニマ2月号 特集 カラス 群れのなりたちをさぐる 平凡社,1976
       大江戸鳥暦 川柳でバードウォッチング 松田道生,河出書房新社,1999
       未知へのとびらシリーズ カラスの大研究 都会の悪者か神さまの使いか 国松俊英,PHP研究所,2000