その1

 

      
あの声がもう一度聞きたくて

 平成6年8月10日、夏真っ盛りの暑い日午後2時30分、突然の悲しく苦しい日の始まりだった。
 愛しい娘(当時27歳)美香の植物状態の姿を見て何がどうしてなのか、とにかく頭の中は、これ以上の混乱がない程のショックで一杯だった。

 ぺースメーカーの電池交換で大学病院にいった、思いもよらぬ出来事だった。スポーツ好きの美香は週3回のテニス、ゴルフの練習、スキー、旅行、お花のお稽古と毎週楽しそうに出かけていく姿を思い出す。

 元気で笑って「大丈夫、心配しないで」と手を振って検査室に入っていく美香。わずか2時間30分位の時間の中で、チューブだらけの体が私の目の前に。思わず「美香」、と大声で呼んで涙の雨がどっと降ってきた。

 手術の前日は軽い検査。先生の説明も、簡単な手術だからキズ口がふさがればトイレにもすぐいかれるとの言葉。誰もその言葉を信じ、安心して美香を預けたはずなのに…。

 どうして、どうしてと叫び続けた。止まる事がなく涙ばかり出ていた。
 一ヶ月足らずの東京の大学病院、そして美香の状態も少しずつ安定してしてきたので、10日位の泊まり込みとなった。主人と二人で…。

 それから毎日の通院が始まった。毎日2時間の電車にゆられて美香の顔を見て、また電車にゆられ変化のない姿と別れて帰る、そんな日々が続く。安定したら近くの病院に転院をお願いした、その日から3日後早くもその日が来た。今、美香を移院させて大丈夫かと思う程の高熱の続く日々だった。でも不信感が残る中で、少しの期待を胸の中に秘め乍送ってもらったのが、秋も深まる季節だった。その間、何回も先生に原因を聞いたが、はっきりとした説明もなく顔を合わせる事を避けているかのような態度が、幾回か見うけられた。


 本庄の病院では先生、そして看護婦さん達の懸命な治療の中で美香は安定した月日が流れ、平成6年の暮れ一応退院、そして家庭介護をする事になる。
 これからは何もかも一人でするんだと、私なりの気合いを入れて病院にいる間にタンの取り方(吸引)などなど教えてもらった。病院にいる時は皆看護婦さんがしてくれていた事、今度はひとり? 自信はなかったけど、でも美香の事、私にも出来ると何度も言い聞かせた。

 主人も交通事故から始まり脳梗塞、心筋梗塞と体も不自由になり左半身はきかず、そんな体で少しでも私を助けようと協力が始まった。
 平成7年の元旦、家族全員で美香の意識の戻ることを祈り、そして神社にもお願いに出かけた。24時間の介護が新たに始まり一時も目が離せなくなってしまった。ケイレンは頻繁におこり、呼吸は荒く体は硬直して汗びっしょりになる。最初は取り乱すばかりで、すぐ往診して下さる先生にTELばかりしていた。一日に何回も続くケイレン、恐ろしくなってしまった。5分〜20分、生きたここちはなくただ夢中で美香の額や手をそえているしか出来ず、頑張ってーの繰り返し、先生の来て下さる時間の長さに行ったり来たりの家の中でおどおどしていた。美香も頑張って生きる事の戦いをしているのかと思うと、もうどうする事も出来ない自分が情けなく切なくて、涙ばかりの毎日だった。

 あの当時の自分の顔を写していたらきっと、すごい厳しいおっかない顔をしていただろうなー、と後で思ったりした。

                                 

<次へ>




Memory


Mikazuki's Home Page Since Mar.1, 2000 ,  Modified on Dec.28, 2000

GeoCities Japan