3.儚さと強さと ―沖田総司―



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壬生狼と怖れられた新選組の中に、子どもに好かれた無邪気な隊士がいました。
彼の名は沖田総司。新選組の大幹部でありながら、彼は戦うことよりも子どもと遊ぶことを好みました。
剣術の天賦の才と、子どものような純真さを併せ持った彼。20代半ばで夭折した青年剣士ですが、
いつの時代も彼を愛する人は絶えません。


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 生まれ年

沖田総司の生まれ年にはニ説あります。ひとつは天保13年(1842)生まれ。これで数えていくと
亡くなった年は27歳(満零)で、同い年だと云われていた藤堂平助、斎藤一より2つ上になります。
もうひとつは天保15年(1844)生まれ。沖田家文書には『文久三年新選組成ルヤ、僅カニ二十歳』と
あるそうです。最近では天保13年説をよく耳にしますが、少し前まではずっと天保15年説が通って
いました。残された文書に新選組結成時は二十歳だったと記してあること、また藤堂平助、斎藤一と
同い年と長年云われていたことから、ここでは天保15年説を取りたいと思います。

誕生日は旧暦で6月1日と云われています。天保15年生と考えると、新暦では1844年7月15日です。
(天保13年説を取るなら、新暦で1842年7月8日)ただ、この6月1日説にも疑問があり、実際の正確な
日付は分かっていないそうです。確かなことは、暑い夏の日に生まれたということです。



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 白河藩士の子

沖田総司は福島県縁の人。彼は白河藩士・沖田勝次郎の嫡男として、江戸麻布の白河藩下屋敷で
生まれました。父親は白河藩の江戸詰めだったので、奥州ではなく江戸で生まれ育ったのです。

彼には“みつ”と“きん”という二人の姉がいました。幼くして両親と死に別れた彼は、長姉みつに育て
られました。父が亡くなった時、彼はあまりにも幼かったため家督を継ぐことはできませんでした。
ゆえに、長姉みつが婿養子(沖田林太郎)をとり、沖田家を継いだのです。

彼は「奥州白河浪人」となっています。白河藩籍にあったのは父親の代までですが、上洛する際に近藤、
土方らがそう名乗らせたと云います。きちんとした武士の肩書きがあった方が有利であり、沖田家にも
配慮してのことのようです。


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 「そうし」 or 「そうじ」

沖田の幼名は宗次郎(惣次郎)、後に総司と改めます。総司を「そうし」と読むか「そうじ」と読むか。
以前は「そうし」と読まれることもあったようですが、正しくは「そうじ」です。それは彼自身が書いた
手紙に「総ニ」と署名がしてあるからです。これは「そうじ」としか読めません。昔は漢字にこだわりがなく、
音さえ合っていれば何でも良かったようです。なので書きやすい漢字を書いたのでしょう。

幼名は沖田宗次郎藤原春政、その後、名を改めて沖田総司藤原房良となりました。


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 天然理心流・試衛館

沖田は9歳の時に天然理心流の試衛館道場に入門します。当時の沖田家の生活はとても貧しいもので、
彼はいわゆる口減らしのために試衛館に入門させられたようです。当時の道場主は近藤周斎でした。
周斎指導のもと、彼は剣の腕に磨きをかけていきました。彼には元々天賦の才があったのでしょう。
ここで近藤勇、土方歳三、永倉新八、原田佐之助、藤堂平助、山南敬助らと出会います。

ここから彼の運命のすべてが始まったのでしょう。10代で天然理心流の免許皆伝となり、
20歳で試衛館の塾頭となりました。天然理心流は気合い剣法。ものすごい気合い(声)で相手を
威嚇して斬るといった感じの剣法です。

ちなみに彼の得意技は三段突き。一度に3回も刺すわけですが、その動作が1回にしか見えないほど
ものすごい速さだったと云われています。


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 そして京へ

将軍上洛の際の警護が目的で募集された浪士組に、近藤ら試衛館一派と参加。
文久3年(1863)2月、京へと上ります。しかし京に着いた途端、浪士組のリーダーであった清河八郎が
一変、将軍警護をせずに江戸へ戻ろうと言い出しました。佐幕派から尊皇派へと180度姿勢を変えた
わけですが、清河にはもともとこういう思惑があったようなので、当初の予定通りだったのでしょう。

しかし、試衛館一派と水戸の芹沢鴨一派は江戸へは戻らず、京に残ることを決意。
京都守護職会津候御預壬生浪士組を経て、新選組が誕生しました。新選組の名付親は会津候です。


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 新選組として

芹沢一派の暗殺をはじめ、新選組史最大の池田屋事変など様々な事変を乗り越えて、
沖田は新選組副長助勤筆頭、一番隊隊長として活躍します。この他、撃剣師範なども
務めていました。新選組は屯所を壬生村から、西本願寺、不動堂村、そして伏見へと
場所を変えていきました。

慶応3年(1867)冬、病気が悪化した彼は、負傷した近藤と共に大阪へ護送されます。
これにて京での日々は終わりを告げました。彼らが新選組として京の都で走り続けた
日々は5年間でした。


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 不治の病

沖田は労咳(肺結核)という病魔に侵されます。当時この病気は不治の病とされていました。
それでも極々僅かですが助かった人もいたようです。彼も病気が発覚したのは早期だったと
云います。若く体力もあった彼ですから、静かに療養すればもっと長く生きることができたかも
知れません。でも療養するということは、新選組を離れるということ。新選組を離れてまで彼は
生きたいとは思わなかったのでしょう。

彼の発病は池田屋事変の時、というのがこれまでの有力な説でした。池田屋での戦闘の際、
喀血して昏倒したと云われています。しかし現在では、慶応3年(1867)の秋頃に発病したという
説が有力です。晩年の永倉新八が記した『新選組顛末記』には、沖田が池田屋での戦闘中に
肺病のため昏倒したとありますが、この顛末記は70歳を過ぎた永倉が記憶だけを頼りに話した
ことを編集者が脚色を加えて完成させたものなので、信憑性に欠けます。医学的に考えても
慶応3年説のほうが筋が通ります。


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 療養

慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。ここに戊辰戦争の火蓋が切って落とされました。
沖田はこの戦いには参加できず、土方らに守られるように江戸へと戻ります。
その後、新選組は甲陽鎮撫隊となり戦い続けますが、どの戦にも彼は参加することができず、
江戸の千駄ケ谷という所でひとり療養することになりました。

彼が元気で戦いに参加していたのなら、先祖の故郷である白河にも来れたのでしょうか・・・


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 運命の刻

江戸の千駄ケ谷、そこが沖田総司終焉の地です。そこで彼は井上宗次郎と名を変え、
ひっそりと療養していました。はじめのうちは長姉のみつが看病してくれていましたが、
やがて彼女は夫について庄内へ行くことになり、彼はひとり残されてしまったのです。

数ヶ月に及ぶ千駄ケ谷での療養の末、慶応4年5月30日(1868年7月19日)、
ついに彼は還らぬ人となりました。最期は庭先で愛刀を抜いたまま果てていったとも
伝えられています。誰にも看取られることなく、ひとりきりで迎えた最期でした。

彼が亡くなる約1ヵ月前の4月25日には、近藤勇が処刑されました。けれどそのことは彼には
知らされなかったそうです。最後の最後まで近藤の、土方の、そして新選組の行く末を案じて
いた彼でした。


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 遠い夏の日

沖田の命日は旧暦で5月30日、新暦では7月19日にあたります。誕生日は旧暦で6月1日、
新暦では7月中頃です。奇しくも誕生日と命日がほぼ重なります。暑い夏の日に生まれ、
暑い夏の日に去った彼。夏という季節は、彼にとってどのようなものだったのでしょうか・・・

「動かねば 闇にへだつや 花と水」
それが彼の辞世の句だと伝えられているそうですが、真偽は定かではありません。

彼の亡骸は官軍の目を逃れるため、夜に密葬されたと云います。
一瞬の強い輝きを残して夢のように消えた彼は今、麻布の専称寺で静かに眠っています。


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