一切れのパン

第二次世界大戦中、「私」の祖国ルーマニアはドイツと同盟を結んでいた。
隣国のハンガリーもドイツの同盟国であったが、「私」は、その首都ブダベストの水運会社に勤め、ドナウ川を行き来する艀で働いていた。
ある日、二週間振りに帰港した「私」は、妻の待つ家に帰る暇もなく、突然船中に乗り込んで来た水上警察の手で拘引された。
「私」には、その理由が分からなかった。
警察の一室で、警官と若い中尉から国籍についての簡単な尋問といわれのない侮辱を受け、そのまま地下室の暗闇に投げ込まれた。
そこには、「私」と同じような仲間がいた。
そして、一週間前にルーマニアが、友邦であるドイツと絶縁しソ連側と手を結んだ為に、敵国人として逮捕されたのだと教えられた。
仲間たちは、2日間何も食べ物を与えられていなかった。
それを聞いて「私」も、船の仕事が忙しくて朝食も採っていなかった事を思い出し、飢えが急にひしひしと迫ってくるのを感じた。
翌日の夕方、「私」たちは、食事も与えられず、行き先も知らされないまま、窒息しそうなほど息苦しい貨車に押し込まれて駅を出発した。


私たちの押し込まれた車両は古くて、床板は腐っていた。
一面に散らばった木切れと鋸屑とから、私は直ぐに、木材運搬に使われていた物だと知った。
他の連中がその事に気が付く前に、私は、鋸屑をベッド代わりにする為に、一杯かき集めた。
列車の車輪は、ゴトゴトと物憂い音を立てていた。
ゲオルギッツァの歌(ルーマニアの民謡)を、誰かが歌い始めた。
私の横には、頭をそった背の低い老人が目を半開きにしたままうとうとしていた。
そして、絶えず神経質に手を動かしていたが、その手は異常な程細かった。
私は、彼が何者か見極めようとして長い間見詰めた。
幾度か、老人も私の方を見た。
しかし、私が彼の事を探っているのに気が付くと、その度に顔を背けた。
遂には気になったらしく、私の方に身を屈めて言った。

「あなたはどこから来ましたか」

その言葉のアクセントは、ユダヤ人に特有のものであった。
私は、それに違いないと思ったので彼に聞いた。

「あなたはユダヤ人ですか」

私の隣人はびくっと身を竦め、口に指を当てた。

「しっ、人に聞かれないように。その話はやめて下さい」

それから半時間後には、私は彼についての全てを知った。
彼はシゲト市(ルーマニア北部、ソ連との国境近くにある都市。 当時はハンガリー領)の近くに住んでいるラビ(ユダヤ教の教師の意の尊称)で、ユダヤ人としてではなく、ルーマニア人として逮捕された事をとても喜んでいた。
彼は、どうかその秘密を漏らさないでくれ、と念入りに私に頼んだ。
私は彼にそれを約束した。
翌日、貨車の中での話と言えば、食べ物の事ばかりであった。
誰かが、ティミシュ-トロンタル地方(ルーマニア西部)ではサルマレ(ロールキャベツに似たバルカン地方の料理)をどんな風に作るか説明し始めた。
もう一人は、トランシルバニア地方では料理にかけて彼の女房に及ぶ者は一人もいない事を、躍起になって述べ立てた。
クルージ市(トランシルバニア地方にある都市)の近くの出身で、お役所式の面倒な手続きの為ハンガリー国籍を取るのが間に合わずに逮捕されたハンガリー人の職人は、口汚なく罵りながら床板をはがし始めた。
やはりハンガリー人で気性の激しい男が二人程、彼に手伝った。
そして、数時間後には、丁度車体の車軸の真上で、床板を外すのに成功した。
皆、夜が来るのを首を長くして待った。
ラビは、何人かが脱走した場合、脱走する勇気のない人々に後で災いが及ぶのではないかと心配した。
人々は二派に分かれた。
一方は脱走に賛成し、他方は反対した。
夜中の二時頃、列車は空襲の為、とある荒野の真ん中で停車を余儀なくされた。
職人は、開いた床の口に体を入れた。

「誰か、ぼくと一緒に来るか」

彼に従ったのは三人だけであった。そして、四人は貨車の下に降りた。

「あなたも行きますか」

と、ラビが心配そうに私に聞いた。

「行きます」
「あなたと一緒に行きたいが、連れて行ってくれますか」
「もし行きたければ、どうぞ一緒にいらしゃい」

爆撃は一時間足らず続いた。
.....車両の下に降りた六人は、列車が出発するのを線路の間に寝そべって待っていた。
私たちは、ただ一つの事が気がかりだった。
最後の車両のデッキに多分歩哨が立っていて、私たちに気付き警報を発するのではなかろうか。
ラビは、細いむちのようにぶるぶる震えていた。
私は、彼の近くに這い寄って、貨車に戻るように勧めた。

「あなたはユダヤ人です。もし今度捕まれば、それこそ酷い目に遭うでしょう。仮に、今ここで逃げおおせるとしても、その後どうしますか。あなたにとっては、自由の身でいるより、ルーマニア人として捕虜になってる方が、遙に有利ではありませんか」

ラビは、暫く考え込んでいたが、やがて、私の言う通りだと答えた。
そして、私に別れの握手をすると、貨車に戻った。
私自身、彼に良い忠告を与えたと信じて疑わなかった。

「もし、あなた....」
「なんですか」

と、私は心配になって聞き返した。

「あなたの忠告に対して、お礼をしたいと思って」

そう言いながら、ラビは小さいハンカチの包みを差し出した。

「この中には、パンが一切れ入っています。何かのお役に立つでしょう」

私は感謝しながら包みを受け取ったが、ラビはまだ、車両の開いた口から去ろうとしない。

「まだ何か....」
「あなたに一つだけ忠告しておきましょう。そのパンは直ぐに食べず、できるだけ長く保存するようになさい。パン一切れ持っていると思うと、ずっと我慢強くなるもんです。まだこの先、あなたはどこで食べ物にありつけるか分らないんだから。そして、ハンカチに包んだまま持っていなさい。その方が食べようという誘惑に駆られなくてすむ。私も今まで、そうやって持って来たのです」

汽車は動き出した。私はもう、彼に感謝する暇もなかった。





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