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ー藤井将雄ー

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通算成績 試合 セーブ ホールド 防御率
1995年 20   4.39
1996年 11   5.18
1997年 15   5.32
1998年 48 3.05
1999年 59 26 2.89

通算成績

153試合、13勝、8敗、3セーブ、29ホールド

 

99年パリーグ・ホールド王

1968年10月16日生まれ、右打、右投

福岡ダイエーホークス背番号15

唐津商業高校ー日産自動車九州ー94年ドラフト4位でダイエーに入団(一位は城島健二)

 

2000年、10月13日、一人の現役プロ野球投手がこの世を去った。

藤井将雄、99年の日本一を支えた功労者の一人である。

セットアッパーという目立たない存在でありながら、ダイエー投手陣を闘志を剥き出しに

して投げる投球で、そして後輩の投手陣に対しての心遣いで支えてきた。

そして、その年には中継ぎの投手に与えられるタイトル「ホールド王」を獲得する。

それに加えてチームの日本一。

まだ31歳、これからが野球人生でもその後の人生でも本番だったであろう。

 

藤井は福岡県に生まれ、高校は佐賀県、社会人でも、九州で根っからの九州男児だ。

甲子園には縁がなく、高二の夏に佐賀県予選決勝まで進むが、その甲子園行きをかけた

試合では、わずか7球目を投げただけで肩に激痛が走り、チームは敗退。

プロ野球には入らずに地元の日産自動車九州に入社、即エースとして九州代表にも抜擢。

その後、広島アジア大会に日本代表として出場し金メダル獲得に貢献する。

その後に94年のドラフトでまた地元の福岡ダイエーホークスに4位指名を受ける。

その時のドラフトでは大型新人の城島健二、今年、井口の怪我を鳥越と共にうめた本間など

がいる。即戦力の先発投手として期待されて一年目には4勝を挙げる。

そして98年には中継ぎとしての起用になり、それなりの成績を残す。

そして華が咲いたのが99年、

昨年の7連投の酷使にも耐えた強靭な体力と精神力を買われ、中継ぎとしてシーズンをスタート

しかし春先には結果がなかなかでず、防御率は6点台にも達したが、

5月以降は安定した投球をみせる。

中継ぎ陣というのは投球回数が非常に少ないので少し撃たれてしまうと防御率が跳ね上がってしまう。

それでもこの年は2点台に抑えるのにはかなりの精神力がいることだろう。

中継ぎ投手に与えられるタイトル「ホールド王」、これをパリーグ新記録で受賞する。

日本シリーズにも登板。見事にドラゴンズを抑えて、充実したシーズンを終えて、

藤井はゆっくり休むことになる。

 

しかし、この後藤井が一軍での活躍することはできなかった。

この時すでに藤井の体は病魔に犯されていた。

シーズン終了後に藤井は医者からアト三ヶ月の命と告げられていた。

「間質性肺炎」。

俺はよくわからないのですが、癌といういことだそうです。

家族は藤井本人には病名を告げずにいて、本人は病気を治し、復活を目指し闘病生活に入る。

 

「余命三ヶ月」といわれた藤井の命。

しかし、藤井は一度は二軍のマウンドに登っている。

2000年6試合を投げてはいるが藤井は自分の体力の衰えを感じずにいられなかった。

球に力が入らない、すぐにバテテしまう。

そしてまたすぐに入院をしていまう。

藤井の公式HPの日記をみていてもわかりますように藤井将雄は

この病気によって様々なことを学んでいたそうです。

 

日頃からダイエー中継ぎ陣の精神的支えをしてチームを支えてきていた。

若い、篠原や99年に守護神として活躍したペドラザにも積極的に

接していった。精神的にもキツイ仕事の中継ぎ、抑えという人々を支えてきていた、

藤井が抜けるということをダイエーの王監督は先発陣の柱であった工藤が抜けるよりも

キツイといっていた。

それでもダイエーはリーグ連覇を成し遂げる。

 

王監督が胴上げの時、俺は監督よりも一つの人形が気になってしまった。

ダイエーのマスコット人形が若田部の手の中で踊っているのだ。

その背中には背番号15、FUJIIの文字が刻まれていた。

しかし、その頃すでに藤井は、、

 

10月13日の夜、藤井将雄死去享年31歳。

あまりにも衝撃的な死。

俺はその翌日の朝日新聞の記事で知った。

西武、松坂の馬鹿なニュースの隣に信じられないことが書いてあった。

俺は来年には帰ってくるものと信じていた。

病気だとは知らなかった。もしかしたら日本シリーズの秘密兵器とか?とも考えていた。

わずか3ヶ月といわれた命が一年も病気と戦いつづけていた。

 

告別式には藤井が尊敬していた工藤公康も参列。

去年までのチームメイトでもあり友人のために宮崎から駆けつける。

ダイエーのユニフォームの中に一人スーツ姿の工藤。

 

そして日本シリーズの第一戦。

先発は巨人は工藤、ダイエーは若田部。

藤井の弟分である若田部、そして尊敬していた工藤。

この二人は藤井の思いを胸に投げていた。

9回、ニエベスのホームランで勝ち越したダイエーはさらに巨人の投手槙原を攻めて

バッターは秋山。秋山が打った球は平凡なサードゴロ。

しかしここで奇跡が起きる。

巨人サードの江藤がボールを捕球しようとしたその時にイレギュラーバウンドをしたのだ。

江藤はその打球に反応ができなかった。その打球はレフトの転がる。

その間にランナーはホームインして駄目押しとなる点が入る。

秋山は試合後にボそりと

「この試合は藤井が勝たせてくれた・・・・」と言ったという。

 

最後に藤井将雄の日記から

今の自分があるのは、過去から現在において出会ったすべての人のおかげだと思います。

その中の誰一人がかけても、今のこの幸せな自分は存在しませんでした。だからすべての人に感謝しています。

プロ野球選手はまわりの人々に夢と希望を与える職業だという人がいます。

でもボクは逆です。たくさんの人から夢や希望、エネルギーをもらってきました。

そのことがうれしかったんです。

6年前の入団発表のとき、王監督を胴上げしたいと抱負を述べました。

その願いも去年のリーグ優勝と日本一で無事に達成できました。

そして、今年はチーム全員で頑張ってつかんだV2.すばらしい野球人生だったと胸を張れます。

この病気には自分自身、すごく勉強させてもらいました。

孤独や優しさ、思いやり、不安。人間の本当の感情に触れることができました。

今までのボクは上っ面のとこしか見えてなかったんだなとも思いました。

すべては、この病気が教えてくれたことです。この一年間、ゆっくりと休まれてもらいました。

あらためて野球を頑張ろうという気持ちにさせてくれた中内正オーナー代行はじめ球団の方々、

王監督、チームメイトの皆、感謝の気持ちは忘れません。

そして、生きる希望を与えてくださったファンの皆様、ありがとうございました。

これからもダイエーホークスを応援してください。

藤井将雄