「ゆ〜でぃあ」2005年大河ビンジョー企画
パート3(三重県編)

10【伊勢三郎の砦跡】(三重県鳥羽市答志島)
 標高約85mの岩屋山の頂上に岩屋山古墳がある。鳥羽市教育委員会の説明板によると、
「この古墳は直径22m、高さ2.5mの円墳で石室がほぼ完全な形で残っている。市内に数多くある古墳の中で石組みの原形を残す数少ない古墳の1つである。北側奥壁部分が破損しているが,これは第2時大戦末期に防備隊が塹壕として使用していたからである。内部は南南東に開口し,奥行き8.7mの両袖式石室で,そのうち玄室は奥行き5.3m,幅2.3m,羨道は奥行き3.4m幅で長さ1.1mである。副葬品は残っていない。また岩屋付近は源義経の四天王の一人である伊勢三郎砦跡があったとの伝説が残っている」
 と書いてあった。こんな所に砦を築いても何の役に立つのだろう?海賊でもしていたのだろうか?てっきり鈴鹿の山賊かと思っていたが・・・。

 岩屋山古墳開口部

石室内部

近く開けた場所からの展望

※鳥羽市の答志島は鳥羽港の北東約2.5kmに位置する。鳥羽城主・九鬼嘉隆が関ヶ原の戦に敗れ自刃した首塚・胴塚の史跡などの歴史を伝える島。
<伝説>
「伊勢三郎女房の墓所」(答志)
 昔、伊勢三郎という大賊が女房と共に、答志村(現在の答志町)で巌室住居をしていた。或時、三郎とその家来とが何事か密談をしている時、女房は之を立ち聴きした。それを知った三郎は女房をやにわに殺してしまった。しかし、三郎は女房の死後、1周忌毎に女房のムショ(墓)へ磯石を1つ宛建てかける事にしていたが、ちょうど13の石を建てて後、彼はこの村から姿を消してしまった。答志村の西方に在る権現様、即ち女房のムショで、傍らには大きな松樹があったが、嘗ての大時化の際倒れて枯槁し、今は代りの松が立っている。


9【首落の滝】(三重県伊賀市高倉)
 京都の義仲を討つために、源範頼は美濃国→関ヶ原→近江国、瀬田川→大津→京都へ進行。義経は伊勢国→伊賀国→木津川→加茂から宇治に出て、宇治川→京都へ攻め入りました。伊賀国から宇治へ行くには御斎峠を越えて多羅尾を通って行くのが近道です。しかし義経は御斎峠を越えずに、木津川を下って加茂から宇治に出たのです。部下がどうしてかと問えば、「峠を越えるには『首落の滝』を通らなければならない。戦の前に縁起が悪い」と言ったそうです。そのような内容が『源平盛衰記』に載っているとか。私は勉強不足でまだ読んでいません(^^;)。
 ちなみに、この辺りは司馬遼太郎さんが『街道をゆく(七)』の甲賀と伊賀の道で歩かれています。
 古い民家を見れば塀に石臼を再利用していました。

←補陀落の滝。 ↑町石道沿いの石臼塀

高倉神社
補陀落の滝と那智川
 『源平盛衰記』に首落ちの滝と記され、源義経が滝の名を忌みて長田廻りで宇治に出陣した。と伝えられる滝で、「水勢が首を落とす程の勢いがある」とか「補陀落寺の破戒坊主の首を落とした」とかの伝承があるが、熊野信仰にちなんで、那智の滝と呼んだ時代もあったが、今では補陀落の滝と呼称し、高倉神社の祭儀と関わりがある。
(看板より)
 

※紹介してきました各史跡の位置関係は、5【鯛ヶ瀬】下のマップを参照して下さい。
 「鯛ヶ瀬」「射手神社」「高倉神社」「御斉峠」の場所がよく分かると思います。
 余裕があればその南に「白拍子の滝」、またその右に「伊賀上野城」「霊山」「伊勢三郎故郷碑」を足せば、伊賀市の源平マップが完成するかもしれませんね(^^)/。


8【霊山寺】(三重県伊賀市…旧阿山郡伊賀町大字下柘植)
 霊山寺の縁起によれば、1160年2月9日 平治の乱に敗れた源頼朝が平頼盛の従者・平宗清に捕われました。頼朝を一時預かることになったのが芭蕉の祖先に当たる平宗清だったそうです。伊豆に流される直前、宗清はこの頼朝を伴って伊勢神宮に参拝することを思い立ちました。霊山の近くまで来たとき、その山頂から不思議にもご来迎が見られた。宗清らは大神宮のご来臨とあがめ、ここから京都へ引き返すことにしたそうだが、一行の「拝した野」が芭蕉の誕生地でもあった拝野であるとか(霊山の北麓に拝野という小字があります)。後に鎌倉幕府を開く頼朝は宗清だけには柘植の地を与えて保護したばかりか、彼が助命を祈願した寺と知って霊山寺に伽藍や大鐘を寄進したそうです。人々はこれを頼朝公鐘乞観音として信仰を集めたとあります。霊山寺境内には三重県指定天然記念物の「お葉付きイチョウ」もあります。(登山記録はこちらへ)
 
霊山山頂遺跡
 霊山の頂上には平安朝の初めに嵯峨天皇の勅願を受け、伝教大師(最澄)草創の大伽藍があったが兵火で焼失した。 今は石室に聖観音の青銅立像(高さ三尺七寸 延宝三年)と五輪塔や宝篋印塔が当時を偲ぶのみ。またお経を埋めた経塚も見つかっている。

7【射手神社】(三重県伊賀市長田)
 「源平盛衰記」によれば、源義経・範頼が木曽義仲追討のため京にむかう時、射手とは縁起がよいと下馬し、戦勝を祈願したところ感応あって討ち取ることができ、その御礼に矢を奉納したと記述されています。
 
射手神社(いでじんじゃ)
 祭神:八幡大神
 第四十代天武天皇の瑞夢によって、現社地から西に2キロ離れた射手山に勧請されたが 天正九年(1581)の伊賀乱の戦災により焼失してしまい、仏性寺跡(現在の社地)へ移されたという。
 遠くに伊賀市街が見渡せ、その中に伊賀上野城も見える。伊賀上野城(別名・白鳳城)には元々、
平清盛が建てたと言われる平楽寺があった。しかし射手神社と同じく、天正9年に消失。その後に織田信長の家臣、滝川雄利が城を築いたのが始まりと言われている。その後城主が代わり改築されたが、最終的には徳川家康が藤堂高虎を城主に任命した。

6【清盛楠】(三重県伊勢市豊川町)
 伊勢街道を歩くイベントで伊勢にお参りしました。今回も源平に関する所へ寄り道です(笑)。
 外宮表参道の手水舎の反対側に楠の大木があります。2本の木に見えますが樹齢は八百年の一株です。
 天皇は直接参拝しないため、平清盛が勅使として参向しました。その時、冠に触れた西側の枝を切らせたという伝説が残っています。高さ10m・幹周り3mという大きな古木に歴史を感じますね。
伊勢神宮(外宮)

亀石
横の池には本物の亀が浮かんでいました。
伊勢神宮
 皇祖神をまつる内宮(皇大神宮)と産業の神をまつる外宮(豊受大神宮)からなる。内宮は垂仁天皇の時代、外宮は雄略天皇の時代に創建されたと伝え遷宮の儀は白鳳時代に定められたという。持統天皇のころに第1回遷宮が実施され、中世の一時期に中断した以外は連綿と続けられてきた。内宮と外宮間は約5km離れており参拝は外宮を先に、ついで内宮に参るのが古来の正式な参拝順序。
 池の横に大きな一枚岩の石橋がある。この大石は亀石と呼ばれ、外宮の奥にある高倉山古墳の入口の岩であったとも伝えられています。
 高倉山古墳は15世紀末には開口。江戸時代には「天の岩戸」とされて高倉山山頂(標高117m)には多くの参詣者でにぎわった。
 古墳は6世紀の中〜後期、全長32mの円墳。玄室の長さが9.6mで羨道の長さの9mを上まわるという珍しい特徴の石室。三重県下最大で、全国でも第9位に入るといわれる。残念ながら現在は入山が禁止されている。

5【鯛ヶ瀬】(三重県伊賀市島ヶ原)
 宇陀郡の芳野川や宇陀川は三重県へ流れていって名張川に合流します。そして木津川へ合流し、最終的には淀川となって流れていきます。その木津川が島ヶ原を流れる時、鯛ヶ瀬と呼ばれる景勝地を通ります。巨岩が浸食されて自然のオブジェが楽しませてくれます。
 この地には昔、源義経が馬で川を渡ったという伝説が残っています。詳細は分かりませんが、岩を飛びながら対岸へ走ったのでしょうか?今、鯛ヶ瀬には「やぶっちゃランドゆうゆう鯛ヶ瀬」という温泉などのレジャー施設やキャンプ場があります。あえて人工物を写しておりませんので写真からは伝わりにくいかも・・・(^^;)。
 今回、施設を利用しておりませんが、また来た時は楽しみたいと思えた場所です。「やぶっちゃ」って何?「約束?」とか悩みましたが、どうやら「みんな」という意味らしいです。
 義経伝説を追って来たのに、すっかり風景に見とれてしまいました。ちなみに、静伝説の白拍子の滝とも川は繋がっています。

「御曹司が川を!」
「よく見れば水鳥でござった」

4【弁慶のひきずり鐘】(三重県名張市黒田)
 『伊賀の国』(伊賀市・名張市広域行政事務組合)のHPで、名張市に弁慶の伝説があることを知りました。以下がその伝説の転載です。

 昔、黒田のカネガシバ(金ヶ芝)という所でつくった立派な釣り鐘が、無動寺の鐘つき堂にあったのや。あるとき、弁慶がやって来て「おお、なかなか良い鐘じゃのう」といって、力ずくでこの鐘をひきずって山を越えようとしたんや。山の上でひと休みのときに、この鐘を鳴らすと「イガイノー、イガイノー」と鳴ったのや。弁慶は腹が立って「この鐘め。伊賀へ帰りたいのなら帰してやるわい」といって、山の上から谷底めがけて、鐘を突き落としたそうや。そして、ゴロンゴロンと落ちていった所が、ちょうど無動寺やったそうや。「続なばりの昔話」より

 この話から弁慶がジャイアンに見えてしまいます(笑)。早速、坂道を登って小高い寺へ向かいました。その鐘が無くても寺へ行けば何か話が聞けるかも知れないと思ったのです。
 しかし、お会いした方は、弁慶の話など知らないと言われます。鐘も傷のない綺麗なものでした。しかし、その下には草刈り機や薪、鬼瓦などが置かれていて妙な感じです。
 


三重四国八十八ケ所霊場第51番 秀山無動寺

鐘突堂の下・・・物置!?
「草刈り機の刃に驚く鬼瓦」
「シャチホコがまるでお手上げ状態」

境内には枝垂れ桜や石仏

無動寺の下、勝手神社からは名張市街地が一望。
無動寺(真言宗)
 黒田集落を見下ろせる茶臼山麓に建つ。寺伝では弘法大師(空海)の創建という。天正9(1581)年の伊賀の乱で本堂などは兵火で焼失したが、本尊の木造不動明王立像(国・重文)は近くの不動滝に沈めて難を逃れた。名張藤堂家の祈願所となった。
 庫裏のそばにはのタラヨウの巨木がある。地元の人はこの寺のタラヨウを「えかきば(絵描き葉)」と呼ぶ。昔、通信連絡用の“はがき”は字の書けるタラヨウの葉を使ったという。そのため漢字では葉書と書く。タラヨウの葉は葉書のル−ツなのだ。
※タラヨウ(モチノキ科 モチノキ属)「多羅葉」で、葉に傷をつけると傷痕が黒くなり、文字を書くとその部分が黒く浮かびあがる。
源頼政の伝説
 黒田地区の隣は結馬という。地名の由来はいくつかあるそうだが、平家打倒に立ち上がった源頼政がこの地の桶子神社(桶子の地名だけ残る)に詣ろうとして、乗っていた馬の手綱を木に結んだ。それがそのまま地名になったという。同地区内に頼政の塚が今も残る為、地元ではこの説を信じているという。無動寺から東南約2km、名張市中村に福成就寺(真言宗)がある。境内の石造十三重塔は、高さは約4mで基壇には「正応六(1293)年」の刻銘がある。平安時代末期の武将、源頼政に仕えた猪之早太の供養塔とされている。

3【白拍子の滝】(三重県伊賀市治田)
 奈良県山添村と三重県の伊賀市、名張市の境界付近に幻の滝があります。幻というか完全に水が枯れてしまい、もしかしたら大雨の時ぐらいしか瀬音を聞くことができないかもしれない滝です。この滝に静御前の伝説があると言うことで訪ねてみました。

吊り橋も 滝のその名も 白拍子
白拍子橋
白拍子の滝・・・跡
▲この風景を義経や静も眺めたのかな?
白拍子の滝
 源義経が弁慶と共に吉野から京都へ落ち延びる道中、その後を追って静御前がこの滝に打たれ、義経に会うことを祈願したという古事の滝である。
(看板より)

2【伊勢三郎義盛の故郷碑】(三重県伊賀市才良)
 伊勢三郎義盛は武蔵坊弁慶と並ぶ義経の家来の一人です。出身は上野と言われますが、上野国(群馬)説や、伊勢国説、伊賀国説などあって出自は定かではありません。
 三重県伊賀市(忍者で有名な旧・上野市)には、伊勢三郎の出身地と伝える碑が建てられています。
▲お寺の墓の前に建つ。
▲大海人皇子が通ったかもしれない道。
「壬申の乱」の舞台が重なる歴史的重要な地域、伊賀。
RAKUOHの野暮な解説
 伊賀忍者と義経の伝承が結びついたのだろうか?伊勢三郎の出身は諸説あるし、さらに終焉の地は全く違う場所だと思う。この碑では出身であり終焉の郷のように読める。ただ、当地を三郎村と呼んでいた等、興味深い伝承である。
 最初、碑の場所が分からずに周辺をウロウロしたが、親切なお婆さんに教えて頂いた。交通量は多いが、まだまだ素朴な方の多い集落だと印象を受けた。
伊勢三郎義盛
 伊勢三郎を才良の出身と伝えるところによると、伊賀郡三郎村で育ち、後に加太峠を本拠として関・亀山あたりの伊勢方面で強盗や略奪を働いた野武士の頭領。別名焼下小六という名であった。「伊水温故」の中に、幼少の頃、村之長である中井と言う者に育てられ、この村を三郎村と呼んでいたのだが、伊勢三郎義盛の名よりこの村を三郎村より転じ才良と呼ぶようになった。特に『義盛忍び歌百首』という忍者の心得を歌にして伝えたものがあり、『万川集海』にも多数引用されている。一例をあげれば、「忍びには習いの道は多けれどまず第一は敵に近づけ」という興味深い歌がある。

 遂に県外まで足を伸ばしてしまいました。相変わらずマイナーな伝説を探したいと思っております。
1【伊勢三郎物見の松】(三重県多気町井内林)
 源義経の家臣・伊勢三郎義盛が敵の軍勢を松に登って見張ったという伝説がある。尚、現在は五代目の松が植えられている。
 その傍らに古くから里人がイボ落としを祈願した「いぼ地蔵」(高さ56cm)が一体祀られている。

 初めて、ここへ訪れたのは数年前。伊勢本街道を歩いていて松を見た。その時は「伊勢三郎」って誰?という程度であり、戦国時代か南北朝の地方豪族ぐらいにしか思っていなかった。義経の家臣として有名な人物だったんだね。大河を見るまで知らなかった。その当時は四代目の松だったと思うけれど、いつの間にか枯れてしまって五代目になっている。若すぎて登れない・・・(^^;)。
 大河ドラマでは南ちゃんが「カニ」と呼ばれて演じているね。

▲幼い五代目
▲切り株が四代目。横の道は伊勢本街道。
RAKUOHの野暮な推理
 この付近に義経一行が立ち寄ったと言う話は知らない。それに約800年以上前に初代の松があって登ったと言うことだが、四代の松はそれぞれ樹齢二百年以上も立っていたというのだろうか?あくまで伝説なので、このような突っ込みは野暮である。
 私が思うのは、ここは伊勢街道として往来が多かったと言う点に注目し、伊勢方面までどれくらいの距離があるのか旅人が松の木に登ったりして見たのではないかと・・・。それも江戸時代後半ぐらいだと考えられる。「伊勢見の松」がいつしか義経人気で「伊勢三郎」が加わったような気がする。そうすると辻褄が合うように思うが、勿論それは無駄な推測である。伝説は伝説として楽しむ方が良いかも知れない。
 あと、イボ地蔵さん。そんなに昔の人は祈らなければならない程、イボが多かったのだろうか?不思議だ・・・。
伊勢三郎義盛

 『義経記』では「伊勢の神官の子息」とあるが、『源平盛衰記』では「山賊盗人なり」とある。


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