序章 白山本宮の勢威篇 Vol.9

安元事件(3) 冷たい叡山と熱い白山衆徒

  

※写真は、白山市佐良にある現在の佐良早松神社。往古の佐羅早松神社とされている。
  左上は、国道157号線(写真では右の道)から、急峻な坂を曲がりくねりながら登る参道。
  右上は、鳥居前の広場から拝殿。
  左下は、拝殿と本殿。北陸の山間部なので、拝殿は雪囲いに覆われている。
  右下は、鳥居前広場から望む手取川(左の川)、国道157号線(手前の道路)、佐良の集落(右の集落)。
  佐良の集落や国道よりも、かなり高い場所に祭られている。

  

焼き討ちされた涌泉寺の炎は夏の夜空を赤々と焦がし、中宮八院の衆徒は急いで寄り集まり、本寺の中宮に急使を走らせました。
中宮三社のみならず白山本宮を盟主とした白山七社の衆徒もすべて馳せ集い、即刻目代藤原師経を誅罰すべしと衆議一決し、大勢の衆徒が国衙に押し寄せました。

在庁の者どもの脳裏にはかつての仁平事件の記憶が残っていたはずで、白山七社の勢威はわかりすぎるくらいわかっていたことでしょう。
おそらく蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げていったことは容易に想像がつきます。
一夜を国衙近くで過ごした衆徒が国衙に乗り込んできたとき、国衙には下人しかいなかったと史書は伝えています。

騒動の張本人である目代師経は、焼き討ち直後に我に返ったようで、そのまま京の都に逃げ出してしまいました。
あとに残された在庁の者どもや官人こそいい面の皮で、騒動起こすだけ起こして、自分は尻に帆かけてとは、とてつもなく迷惑な上司だと思ったことでしょう。

林一族や冨樫一族もいたはずですが、当時の史書には出てきません。
彼らは介として目代直属の部下でしたが、彼らは在庁官人としてよりも在地の事情を優先させて傍観、または鳴りをひそめていたと考えるのが妥当だと思います。
在地武士の彼らとしては、かの白山本宮を絶対に刺激したくなかったはずです。
彼らにとっては白山にちょっかいを出すのもはばかられていたでしょうし、末寺の焼き討ちという、いかにも感情的な愚行からここまで事態が紛糾してしまっては、下手に口を出すこともできません。

あげく、肩透かしを食わされた白山の衆徒たちは評定を重ね、目代が逃げ出したからには加賀の国内で事態を収拾すべきでなく、叡山に訴えて国守、目代もろともに断罪すべしと結論を下しました。
早速事件を詳しく書き記し、書状とともに白山本宮の使者を叡山に派遣しましたが、はじめ叡山の側では白山の言い分を取り上げませんでした。

院の近臣・西光入道をはばかったのではという史家の意見がありますが、盛衰記では、白山本宮のことならまだしも、その末社のそのまた末寺のことではないか、そう事を荒立てずとも、として取り上げなかったと書かれています。
都に近い彼らにとっては、たかが田舎の一末寺の揉め事、その程度の認識だったと私も思っています。

白山の使者たちはかなり粘ったようで、その年の11月になって下国してきました。
一日千秋の思いで吉報を待ちわびた白山大衆の落胆は大きく、重ねて使者を叡山に送ります。
使者は今度も叡山のあちこちの寺坊に訴えたのですが、いれられずに再び加賀に帰ってきたのです。

ことここに至って、白山大衆も堪忍袋の緒を切り、ついに白山の神輿を振り立てて叡山に上るという、直接行動に訴えることに決しました。
一味神水の儀式で神前に誓い、「悪魔降伏・賞罰厳重の大明神」本地不動明王の白山佐羅早松神社の神輿を担いだ白山衆徒は、安元3(1177)年2月5日、しっかり武装を調えて出発しました。

驚いたのは加賀国庁の官人たちで、何とか引き止めようと「牒」という文書を出して衆徒に送ります。
「牒」とは、主に直接上下関係のない役所間などでやりとりする文書形式で、おそらく京の都から加賀に下向していた下級官人たちが出したものです。
上級官人たる林や冨樫などの介が手をこまねいているのを見て、とにかく何とかしなければ、と、財朝臣・大江朝臣・源朝臣の連名で出しています。

しかし白山衆徒はこれに拒否の回答をし、国庁では、糺二郎大夫為俊・安ノ二郎大夫忠俊の官人に数十人(盛衰記では50人)の兵をつけて追いかけさせました。
一応、加賀国内で追いついたことは追いつきましたが、馬が倒れ、目がくらんで腰がすくんでしまい、これはただ事ではないと引き返してしまいます。
神罰のように書いてはいますが、この時点で神輿の衆徒はかなりの数(盛衰記では9千人)になっており、そこにたかだか数十人程度で行って引き止められるわけもなく、衆徒の数に驚愕して、ビビッてしまったというところでしょう。

ともあれ、越前を突っ切った白山神輿は敦賀に到着し、金ヶ崎の観音堂に奉安されて叡山の出方を待つことになります。

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