鎌倉殿と加賀武士 4 Vol.42

板津成景と鎌倉殿勧農使 2

「一所懸命」の武士、板津成景はまたしかし、所領を守り続けるだけの単純な武士ではありませんでした。
文治2(1186)年9月、加賀国の南部にある江沼郡額田・八田の両郷を他の土豪とともに押領したとして、鎌倉殿頼朝から押妨停止の命令を受けています。
江沼郡額田庄住人宛ての源頼朝下文案が京都大学に残っており、これに板津介成景が宗親法師とともに庄園領の八田・額田両郷を押妨したと指摘されているのです。

「鎌倉右大将 判
 下 加賀国額田庄住人
  可令早停止字板津介成景・宗親法師、庄領八田・額田両郷妨、内舎人朝宗代官平太実俊境妨、
  加藤次成光号地頭旁無道等、為領家進止事
 右、件庄加納八田・額田両郷是也。爰成景(ならび)宗親法師背 院庁御下文・国司庁宣状、令致
 濫妨。先違勅之至、難遁重科。而又朝宗代官実俊抜棄牒示、令妨庄領南境之間、朝宗雖出去文、
 実俊猶不承引、同致妨之条、甚以不当也。抑又加藤次成光暗称地頭之由、企
乱行云々。
 凡彼等之所行尤以不敵也。自今以後、停止件輩等種々之結構、可令領家進退領
掌之状、如件。以下。
       文治二年九月五日  」 京都大学文学部博物館所蔵 平松文書 『鎌倉遺文』171

以下、本文の読下し文です。

板津介成景・宗親法師、庄領の八田・額田両郷を妨げ、内舎人朝宗の代官・平太実俊、境を妨げ、加藤次成光、地頭と号し、かたがたの無道等を早く停止せしめ、領家の進止たるべき事。
右、件の庄は加納八田・額田の両郷これなり。ここに成景ならびに宗親法師、院庁御下文・国司庁の宣状に背き、濫妨を致さしむ。
まず違勅の至り、重科遁れがたし。而してまた、朝宗の代官・実俊の牒示(傍示)を抜き棄て、庄領南境を妨げしむのあいだ、朝宗、去り文を出すといえども、実俊なお、承引せず、同じく妨げを致すの条、甚だもって不当なり。そもそもまた加藤次成光、暗に地頭と称するの由、乱行を企てると云々。およそ彼らの所行、もっとももって不敵なり。自今以後、件の輩等の種々の結構を停止し、領家に進退せしむべく、領掌の状、件の如し。もって下す。

鎌倉殿頼朝が右近衛大将(右大将)となったのは建久元(1190)年11月のことですから、文書の日付文治2(1186)年とは4年のズレがありますけれど、偽文書というよりは、文章の形態からして、もともと頼朝の袖判下文だったものに後で「鎌倉右大将」の文言を加えたものと思われます。

額田(ぬかだ)庄は現在の加賀市北東部から小松市南西部に広がる地域で、片山津温泉の東にありました。
この時点では文書にあるように院領の荘園であり、ここに板津成景らが乗り込んできたわけです。
板津成景は宗親法師という者とともに額田庄を押領しようとし、また頼朝の下した勧農使・比企朝宗の被官である平太実俊までもが荘園の南部を侵して、比企朝宗の命令を不服として荘園の押領を強行しようとしたことがわかります。
これに加えて「加藤次成光」なる者が、勝手に地頭を称して乱行をしたとしています。

加藤次成光は加賀の林一族と考えていましたけれど、実は越前坂井郡に本拠をおいた越前斎藤氏系の疋田氏の流れを汲む人間でした。加賀国衙の在庁官人として都から下ってきた大江氏というのが南加賀一帯に勢力を持ち、この大江氏に娘を娶わせた疋田氏の子孫に2兄弟がおり、長男は熊坂太郎以永、次男が加藤次成光でした。
長男の熊坂太郎の名は、加賀越前国境の熊坂(加賀市熊坂町一帯)を本拠としたことを示しており、加賀の在庁官人にして南加賀の南端部に勢力を持っていた大江氏とともに、この一帯に手を伸ばしていたようです。
弟の加藤次成光は、その名から南加賀に住んでいたことは間違いなく、国衙にあった大江氏の勢威を借りて、江沼郡の北部に広がる額田庄に触手を伸ばしていたということです。

話が細部にわたり過ぎてしまいましたけれど、この時期の額田庄がいかに周囲の有力武士たちに狙われていたか、またこれに鎌倉殿勧農使の被官さえも制止を振り切って加わっていることから、土地というものに対する武士の執着の強さが窺い知れます。
想像をたくましくすれば、国衙でもある程度の地歩を確保していた板津成景が縁者の加藤次成光を誘い、国衙にあって勧農使の代行をしていた平太実俊をもそそのかして額田庄の押領をたくらんだという可能性もあります。
いわゆる「赤信号、みんなで渡れば…」というやつです。

ありていに言えば、おそらく板津成景の開発地にこの額田庄が隣接していて、水利その他の諸権利が拮抗したために押領押妨になったのではないかと思われます。
それでも1人で行わずに仲間を語らってやったというあたり、なかなか一筋縄でいかない板津成景の姿が垣間見えます。
かれ板津成景の子孫は、この後、現在の小松市白江町一帯を本拠とした嫡男・白江新介景平系の白江氏、寺井町長野一帯に住んで板津三郎を称した次男・景高の子孫・長野氏に分かれていきます。

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