北陸歴史ねっと 林六郎光明のコンテンツ

2001年共通テーマ「私が気になる北陸歴史のこの人物!」

加賀国石川郡福留村の林六郎右衛門景広

はっきり言って、全く知られていない人物です。
おそらく石川県の歴史を学ばれている方でも、初耳の方が多いのではないかと思いますが、実はこれ、私の先祖です。
この六郎右衛門は基本的には世襲名ではありますが、文書の読み方によって、六郎左衛門とも書かれていたりします。
由緒帳によると、初めは江沼郡に住み、後に石川郡福留村に移り、子孫が加賀藩の十村役になっています。
この十村役というのは加賀藩独特の在地支配の役職で、平均20〜30ヶ村を受け持ち、藩から扶持を受けるものの村々に住んで藩への年貢差出責任を負わされた、言わば中間管理職でした。

なぜ彼を選んだのか。
それは自分の先祖であるからというのではなくて、加賀の中世と近世の境に生きていた人物だからです。
中世後期に起こった加賀一向一揆と、中世末の信長軍の加賀侵攻により、中世末期〜近世初期の加賀については文献資料がほとんどありません。
したがって当時のことを推し量るには、後に加賀藩に登用された人々、例えば石川郡押野村の後藤家や、この福留村林家創始者のかすかな事跡を辿るほかないのです。

しかしそれでも、中世末においての、わかっている事跡はほとんどありません。
これまで言われているのは、彼ら後に十村となった者たちは、中世末期の村落内においては一応の有力者であるけれども、数ヶ村を束ねるほどの有力者ではなかったろうということです。
加賀一向一揆後期の時点で加賀には、坊主分とは別に旗本層…在所長衆…百姓層がいたとされています。
このうち旗本層は信長軍の侵攻の前に滅ぼされてしまい、下層の在所長衆…百姓衆が残されたと考えられ、彼ら在所長衆のうち有力な何人かが後に加賀藩に抜擢されたと言われています。

この在所長衆ですが、彼らの動向は『天文日記』等に本願寺の番衆(警護役)として個人名が多く登場しています。
しかし彼らの名は、近世以降まったく出てきません。
ここで個人的な推論を加えるならば、一揆の末期において在所長衆もこれまでの上層長衆のほか、長百姓衆が村落内で力をつけ、信長軍の侵攻に屈した上層長衆に代わって下層の長百姓衆が新たに村落内での地位を獲得し、それが近世の加賀藩による抜擢に繋がったのではないかと思うのです。

じっさい後藤家にしても林家にしても、由緒帳には当主が大坂の陣に従軍した記事があり、新来の前田家による加賀支配の一翼を担わされているものの、その実態は侍分としてではなく、あくまで百姓分です。
したがって百姓一揆など、何か事があると支配者の手先として、真っ先に狙われる立場にありました。
上からは年貢完済や軍役を押し付けられ、下の百姓衆からは突き上げられる。
どうもたまったものではありませんが、私には彼らのたどった事跡の中に、加賀一向一揆というものの本質が隠れているような気がしてならないのです。


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