リアル!戦国時代 Vol.3

第3回 中世という時代 〜時代区分から その2

さてこのように中世は始まったのですが、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の並立前後を一つの画期として、これも中世前期と中世後期に分けることができます。
それまでは公的な権力機構として朝廷と幕府の二つだけだったのですが、鎌倉幕府がなくなった代わりに足利幕府が成立し、朝廷が南朝と北朝に分裂してしまったのです。
しかも足利幕府はその初期において、尊氏派と直義派に分裂してしまい、それまで二つしかなかった中央の権威というものが、いくつもに分かれてしまったのです。
それだけならまだしも、時と場合によってこれらの権力が、ランダムに離合集散を繰り返してしまいました。

このように複雑な権力体制は今までになかったことでしたし、それ以後もここまで複雑になることはありませんでした。
まさに空前絶後の時代だったわけで、地方に勃興していた有力武士たちは本当に右往左往しました。というより、せざるを得なかったのです。
自分たちの利権を確保し、あわよくばそれ以上のものを求めていたわけですから、彼らも朝廷や幕府の離合集散にその都度付き合わされて、それでも権力の庇護を求めつづけたのです。

この頃あたりから、惣と呼ばれる合議制の村落ができ始めました。
当てにならない権力だけれど、ともかく自分たちのことは自分たちで決めなければならないと思ったのかもしれません。
また、村人自身の話し合いや、自分たち自身が信じる神仏への帰依を通じて、ともかく団結していかなければ、混乱した時代を乗り切れないと思ったのかもしれません。
この合議制度はこれ以降、大名などによって変質させられたりとかの紆余曲折を経ながらも、明治時代まで続いていきます。

こののち、時代は応仁の乱あたりから戦国時代に突入していきます。
ただ、すぐに「群雄割拠」の時代になったということではなく、下剋上の戦乱を通じて幕府なり朝廷なり、はては大寺社までもが政治的な機能不全を起こし、それに乗じて在地で力を蓄えていた有力武士たちが、それぞれの土地での地域権力を打ち立てようと動き出してきます。

しかしいくら下剋上とは言っても、あくまでも「特定の地域の中」としての権力ですから、当然、今までの制度を全面的に無視するわけにも行きません。
そこで既成事実を積み重ねつつ、諸制度の中での利権を確保していくことになります。
つまり今までの制度を破壊するのではなく、無理やり潜り込んで、その制度を利用していく、または自分の都合だけで解釈するなどして、とりあえず形だけでも制度は残しておくという、なんとも中途半端な形で終わらざるを得ませんでした。

まあ、それだけ諸制度が複雑化していたということもありますし、また支配下の人々の自立志向が強烈だったということも大きな要因となっています。
実際、家臣を後世のように使役できたのは信長ぐらいで、あとは例えば謙信にしても信玄にしても、合議の建前はそう簡単に崩せるものではありませんでした。

この複雑怪奇な?諸制度を、土地制度の改革を中心に全国的に一気に破壊・再編成を行ったのが、秀吉の太閤検地でした。
いわゆる「一地一作人の原則」や、税制度の全面的な改革である「貫高制」から「石高制」への転換が、地方ごとの、または領主ごとの長年にわたる既得利権や特殊事情を吹き飛ばしてしまったのです。
これで時代は一瞬にして近世へ突入していきました。
まさに抜本的な改革で、それは革命とも言うべき出来事でした。

駆け足で中世という時代を見てきましたが、要はいかに複雑な時代であったかという話です。
また、戦国大名といえどもそれほど絶対的な権力を持っていたわけでもないということも、眼目の一つです。
こんな堅苦しい話を、あきずにここまで読んでいただいた心広き方々に感謝の意を表します。
次回からは、もう少し柔らかめにしていきたいです。

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