リアル!戦国時代 Vol.31

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第15回 材木と座

今回から、ちょっと食べ物から1度離れて、建築関係の座を順に見ていこうと思います。
まずは建築用材たる材木です。

日本は山地が多く、当然のことながら材木には事欠かなかったと考えがちです。
しかし建築用材となりますと、幹が長く真っ直ぐであること、ある程度年輪を経たものであることなど、いろいろな条件が必要です。
特にわが国の山林にはブナ林が多く、これは建築用材としては不向きな木でした。

建築用材として使える木の種類も限られてくると、これは勝手に切り出して良いものではなくなり、いわば地域の共有財産としての扱いになってきます。
これが「入会(いりあい)」と呼ばれるもので、一般的な山林は、たいがいこれに該当しました。
しかし中には、これに該当しない山林があります。
木材の育成と伐採を基本とした荘園や官用林で、杣(そま)山と呼ばれていました。
これらはもともと、東大寺や興福寺その他の大寺に寄進された荘園で、その淵源は奈良時代に遡ります。

これら大社寺の独占する杣山以外では、共有地ということもあり、「山手」と呼ばれる一定の使用料を支払えば、立ち入りや薪集めぐらいは認めてもらえました。
しかし材木は、その重要度から領主の財産としても扱われ、勝手な切り出しは禁止されていたのです。
特に古代末期から中世以降、何度か政権が交代するたびに建築ブームが起こり、豊富だった森林資源も伐採により枯渇しかけたこともあり、中世後期の戦国大名は山林の保護にも乗り出していったのです。

木材を育成・伐採していたのは杣(杣人・杣工)と呼ばれた木こりたちで、彼らは集団で山に分け入り、目当ての木材を斧で伐採していきました。
杣たちは木材切り出しの他に、薪作りや炭焼き、狩猟も行っており、ときには焼畑も行うなど、いろいろな仕事をしていました。
しかしここで大事なことは、伐採権に関わらず、木を切り出せる山と、そうでない山があったことです。
つまり木を切り出しても、それを運搬しなければならず、そのためのルートも確保しなければなりません。
多くは山の斜面に沿って、まず切った木材を簡単に繋げて、木の落とし道を作ります。
落とし道の終点は川の淵で、ここに木材をいったん溜め込みます。
また、切り出し地ごとに違った刻印を木材に押してもおり、取引の際の証拠ともなっていたようです。

さて、これらの条件が整わなければ木を切り出しても搬出ができず、無駄骨に終ってしまいますから、木材の産地というのはだいたい決まっていました。
特に一大消費地である京都や奈良を擁する近畿には、丹波や近江伊賀、大和吉野、阿波、土佐、安芸などの諸国から木材が運ばれており、河川ルートや海上を渡って運び込まれてきました。
木曾や飛騨の良材も有名で、西国系材木と比べて運送に手間と時間はかかりましたけれど、その良質さは知れ渡っていたようです。

河川の上流から筏に組んで流されてきた材木は、木津と呼ばれる中流や下流の集散地で陸揚げや湊向け、また目的地近くの湊向けまで、再び集積されていました。
この集積場所に材木座が作られたわけです。
地方の材木座は、材木問丸として専門的な運送業務を行っており、彼らの活躍で消費地に運ばれていきました。
また材木問丸は材木取引のために集まってきた材木商人の定宿ともなっており、大変な賑わいだったようです。

しかし、こういう地方の材木座と畿内にある材木座とは直接の繋がりはなく、あくまでも商取引程度の繋がりだったようです。
京都では保津川系の堀川材木座、洛西嵯峨の材木座、近江大津にも材木座があり、都の需要を引き受けていました。
応永16(1409)年の段階で洛中に36軒もの材木屋があったということで、この頃になると、産地別の専門業者も現れてきたのでした。

しかし室町時代以降、打ち続く戦乱とそれに続く建築ブームは、戦国大名をして森林資源の保護に走らせました。
館の建築のみならず城郭の建築にも使われた材木は、重要な軍事物資としての性格を持ってきたのです。
北条氏が杉・檜の伐採を禁止し、山林奉行をおいて年毎の伐採数を把握したり、甲斐武田氏が入会の山には「山守衆」と呼ぶ番人をおいたりして自由な伐採を禁止したのは、自国の防衛のため必要なことでした。
また戦国時代も後期になってくると、矢種として、また対鉄砲用としての竹の育成にも力を入れるようになっていきました。
戦国時代は、まさに自国内の資源を徹底して使う総力戦の時代でもあったのです。

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