リアル!戦国時代 Vol.33

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第17回 木工技術と座

さて用材が建築現場に到着しますと、これを曲尺で測り、木目を観察してクサビを打ち、縦に割って材木に加工しました。
これは現代では「打割製材」と呼ばれており、大鋸(オガ)の出現までは、この技法で材木を作っていたのです。

大鋸は鎌倉時代後期に中国から伝わり、南北朝時代に広まっていった新技術で、現代では「挽割製材」と呼ばれています。
だいたい2m以上の薄い鉄板で、男帯のような細身のものに鋸刃をつけたもので、これに木枠を取り付けて2人挽きで使われました。
なにしろ薄くて細身のものですから、下手に使うと曲がったり折れたりする危険が高く、それでしっかりした木枠で固定しなければならなかったようです。
刃も現代の鋸のようにきっちりした切っ先を持つものではなく、これを使うには大変な労力がかかったと思われます。
大鋸挽き職人の賃金が高めに設定されていたのも、うなずけるところです。

それでも大鋸の導入により、用材を自由に切り出すことが可能になり、板の生産も飛躍的に増大しました。
まず用木の木目をそれほど気にする必要がなくなり、少々曲がった用材でも板に加工できるようになりました。
これは一種の技術革命とも言えるほどの画期的な道具で、しかも切り口は打割製材に比べて凹凸もあまりなく、建築のスピード化をもたらしました。
室町時代以降、都や地方での建築ラッシュは、このような技術の導入によって支えられていたのです。

加工された材木は、ノミを使って大まかに削り、次に手斧(チョウナ)である程度の形を整えてから、鑓鉋(ヤリガンナ)で柱や板に仕上げられていきました。
これが大寺社とか貴族の邸宅などになりますと、鑓鉋で加工した後に現在のような鉋(カンナ)を使用して表面を平滑にしており、注文主の身分または経済力によって仕事にも差があったようです。

板や柱にはノミでホゾ穴などを開けたりして組合せ部分を形作っていきました。

こういう部材の加工には現代のような1人挽きの鋸(ノコギリ)も使われ、これも南北朝の頃に技術革命があって、現在のような引いて切る「引き鋸」が出現しました。

建築現場では、自然石を選んだ礎石が整然と並べられました。
一部加工もされていたでしょうけれど、たいがいは自然石の比較的平らな部分を上にして、土の上に出る高さをほぼ一定にして埋められていました。
これらの礎石は自然石ですから、当然1個1個の形状は異なります。
この形のそれぞれ違う礎石には、表面も細かな凹凸があったりして、上に立たせる柱などの部材がぐらつかないように、1個1個の礎石に合わせて部材を加工しなくてはなりません。
これは「ひかりつけ」と呼ばれ、場合によっては石に合わせて、部材断面も曲線を描くような形になることがあったようです。

礎石を並べてその上に柱を立てる方法は仏教の伝来に伴って伝えられ、それ以前の掘立て柱(ホッタテバシラ)形式の建て方とは根本的に異なるものでした。
伊勢神宮の遷替にみられるように、掘立て柱の場合、乾燥した土地であっても建築年限は20〜30年が限度と考えられており、それ以上は地面に埋めた柱が腐ってしまって、倒壊の危険が出てきます。
雨や湿気の多い日本の気候では、礎石の上に柱を立てる方法は建物の倒壊を防ぐ意味から、大変有効なものだったのです。
特に平安時代以降、床板を地面から高く上げたことにより床下にも空気が流れるようになってからは、建物の耐久性は飛躍的に向上し、徐々に多くの建物に使われるようになっていきました。
現代でも、木造住宅では自然石の礎石の代わりにコンクリートが使われており、この建築方法がいかに日本の気候風土に見合ったものかがわかります。

以上、主に大工道具と加工技術の面から建築についてみてきましたが、これら道具の製作や修理には、番匠鍛冶という職人が担当していました。
彼らはやはり木工座に属し、他の職人同様、1日100文の賃金で工事に参加していたとされています。

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