リアル!戦国時代 Vol.35

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第19回 建築の座あれこれ

「座」シリーズ 第17回 木工技術と座 の末尾において、
「壁塗りなどを担当していた左官職人も、同じく木工座に属していたようで、別の座を形成していた様子はありません。
建築という1つにまとまった請負仕事ですから、あまり各部門を独立させるわけにはいかなかったのでしょう。」
と書きましたが、その後あちこち調べていて、壁塗り座もあったことを確認しました。
そこで当該部分を削除訂正し、お詫びします。

これに少々付け加えるならば、中世での上級建築では壁面と言うものは基本的に板壁であり、塗り壁つまり土壁は庶民の家や土塀、土蔵などに限られていたということです。
雰囲気的に土壁の方が高級そうで、逆のような気がしますけれども、現代とか近世以降のお茶室などに使われた高級な土壁と違って、わりあい簡単なものだったようでした。
それでも壁の中には割り竹や細い竹枝を井桁状に組み込み、これを芯としてその上から土を塗りこんでおり、ただ土を塗りこむだけのようなことはしていません。

この壁塗りには、建物の柱を見せた形の真壁(しんかべ)と、柱をも塗りこんでしまう土蔵造とがありました。
防火の面では土蔵造のほうが断然優れており、この土蔵造が発展して戦国末期の城郭建築に生かされたことは言うまでもありません。
彼ら壁塗り職人は、鏝(こて)1本で土壁を塗り上げていき、その鏝から城郭の白壁や金沢城などに見られる海鼠塀が作られていきました。
彼らの一部は近世以降「鏝師」とも呼ばれ、壁面のみならず数々の芸術的な漆喰造形を作り出していったのです。


さて、建築関係の座は、例えば興福寺の場合、寺座、一乗院座、大乗院座の3座に分かれており、うち寺座には本座と新座がありました。
前述したように、造作工事が大きい場合は孫請けもありましたし、その本所に関連した別の座なども工事に参加しています。
基本的に本所に属する座が、主として工事を担当することとなっていたようです。
面白いのは興福寺など大寺社の場合、いちおう寺大工と社大工に分かれているものの、その線引きはかなりあいまいだったらしいことです。

中世は寺院と神社とは本地垂迹説によって繋がっており、原則的に本地である仏教寺院が垂迹の神社の祭祀なども司っていました。
仏教と神道とは、ともに不浄を忌むことから繋がりやすかったのでしょうが、仏教の場合、いちおう魚など生臭ものは禁止されており、逆に神社では魚であっても支障なく供物になっています。
したがって神社の社頭に生臭ものが供えられ、その前で仏僧が法華経などを読経するという、今から見るとなんとも不思議な光景が見られたようです。

もともと神社の造営や遷替には、社工の座が担当していたらしいのですが、これが中世でも時代が下がってくると、徐々に寺工の座が仕事を独占し始めてきます。
ただ社工の座と言っても、じつは社工の構成員は寺の木工座にも属しており、彼らが社殿などを作る場合に「社工の座」を組んで工事に当っていたりして、なんとも奇異な感じがします。
寺社建築のできる大工さんは現在では宮大工と呼ばれていますけれど、内容的に寺社を問わないのは、どうもここらあたりの事情からきているのではないかと思ってしまいます。

これが屋根葺きになってくると、少し事情が違います。
柱など建築木工関係の場合は、技術の違いは表面にはあまり見えてきませんが、屋根葺きの場合、何で葺いたか見た目ですぐにわかるため、瓦葺座と檜皮葺座とが争うこともあったようです。
平地の大寺院の場合はたいがい瓦葺ですけれど、山岳寺院の場合、例えば室生寺の五重塔などに見られるように檜皮葺柿葺などが使われていたりして、こういう場合に座の争いが出てきます。

寛正5(1464)年8月、大和国・長谷寺の工事において、屋根葺きで瓦葺座と檜皮葺座が争い、檜皮葺座が勝って工事を担当することに決しており、このような座の争いは当時あちこちで見られました。
戦国大名は彼らのような技術者をも城下町に集住させ、それぞれ棟梁を定めて統制に当っていたのです。

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