リアル!戦国時代 Vol.37

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第21回 和紙 その2

今でこそ和紙は折紙やアートと称されるようなものに多用されていますけれど、中世の和紙=「紙」は、当然のことながら公用文書や私信などに使われていました。
しかし前述したように、各地の産地名を冠した紙があちこちから出回り、それぞれの紙にも使う人間の身分や用途によっていろいろな歴史があるようです。

例えば杉原紙は播磨国産の薄手の楮紙なのですが、もともと鎌倉時代に武士が手紙用に用いて広まり始めました。
それが鎌倉幕府の滅亡後、京都室町に幕府が開かれると、鎌倉武士の杉原紙使用という習慣が京都に持ち込まれて公家にも伝わり、室町時代以降は公家の間でも使用されるようになっていきました。

越前奉書紙で有名な奉書紙は、楮紙を漉くときに白土などを混ぜたものだそうで、白くてきめが細かく、厚みもあって上品さと風格を兼ね備えていることから、公武の公的文書に使用されて広まっていきました。
また、奉書紙の1種に檀紙というものもありました。

檀は「まゆみ」と読まれており、檀紙は「まゆみかみ」または「まゆみがみ」と呼ばれていたようです。
名前の通りに「まゆみ」という木を材料に作られたのでこの名がついたとされていますけれど、現存している紙はほとんど全て楮を原料とした紙だそうで、今のところ本当に檀を使用して作った紙は発見されていません。
それなのになぜこの名が付き、また伝わっているのかは、和紙を巡る謎の1つということです。

奉書紙の1種として、室町時代には将軍御教書に使われた檀紙は、しかし戦国時代以降、徐々に薄くなっていき、それにつれて以前のような風格も落ちてしまったので、戦国時代後期にはあまり使われることはなくなっていきました。
ただ近世に入ると再び高級化し、徳川将軍家の判物や朱印状に使われるようになっていったのです。

同じく和紙の代表とされる美濃紙は、楮だけで漉かれていて、こちらは民間での高級品として京都を中心に広まっていきました。
美濃紙の場合、現在の美濃市にある大矢田の紙市から、京都や全国に運ばれたためにこの名が付いたもので、中濃地域の山間部各地にある農家の副業として作られたものと推定されています。

さて、これらの紙はバラバラの大きさで作られたのではなく、一応の規格があって、時代による変遷もありますけれど、中世後期では、だいたい縦32〜33cm、横51〜52cmです。
これが今でいう「全紙」サイズになり、古文書学では「竪紙」と呼ばれています。
この大きさは紙の使用が広まり始めた平安時代のものよりも、1回り小さくなっています。
じっさい、紙の規格寸法については、使用者の身分格式によってそれぞれ違っており、室町時代以降、格式の高い文書は大きく、一般のものはそれより小さい紙が使用されました。
ちなみに、文が長くなって紙が足りなくなってくると、この「竪紙」を横に糊付けして繋いでおり、その場合は「続紙(つぎがみ)」と呼ばれています。


公文書専用の「竪紙」に対して、武士の私信などに多く使われたものは、「竪紙」を中央で横折りし、折り目を下にして文章を書いた「折紙」と呼ばれているものでした。
武士らしく内容も簡潔な用件のみのものが多く、おそらくほとんどはこれぐらいの文章量で足りたのでしょう。

ただ用件がいろいろあって上半面に書ききれない文章は、折り目を下にしたまま裏返して続きを書くという形になります。
従ってこれを拡げてみると、上半分は右から左に文章の列が続くものの、折り目の下半分の文章は上下左右が逆になっているように見えます。

何でまたこういう変わった使い方が広まっていったのかということですが、これには紙の節約とか、持ち運びに便利だとか、また折り曲げてあるので紙を手に持ったまま書けるとかの諸説があります。
ただどれも決め手に欠けていて、定説は今のところないのが現状です。
この他にも、「竪紙」を横または縦に切断して使う「切紙」というのもありました。

史料としてのみ見られる古文書も、紙という生産物の側面から見ると、以上のようにかなり面白いものがあります。
これらは博物館などで軸に表装された形でも見られますので、興味のある方は1度ご覧になっては如何でしょうか。

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