リアル!戦国時代 Vol.40

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第24回 紙荷をめぐる確執

順調に見えた彼ら枝村の紙商売独占は、しかしおびやかす者たちの登場によって風向きが変わっていきます。
しかもそれはこともあろうに、他ならぬ枝村の本郷・得珍保の保内商人たちでした。
永禄元(1558)年、桑名で仕入れた紙荷を鈴鹿山脈・八風峠越えで運んでいた枝村商人たちは、彼ら保内商人に捕まり、せっかく仕入れた紙荷を彼らに没収されてしまいました。
このとき保内商人たちの言い分として挙げられたいくつかの主張が、それに反駁する形で枝村惣中が出した文書に残されています。

「(前文略)
一 従往古、為此方伊勢道ふせき候物色々事、
  あさのを     紙     木わた    土の物     塩     一切のわげ物     あふら草     一切鳥の類
  のりの類     あらめ     一切魚の類     伊勢布
 右之物通候ヘハ、見相ニ何時も荷物取之儀不珎候事、
(中略)
一 紙商買保内新儀之由、被申懸候、新儀にて有なき段、数通御下知(ならびに)御成敗相見候、則懸 御目候、殊枝村衆も保内紙自昔請取、商買を被仕候、至今日、紙を被請候とて、か様之儀ハ、枝村衆ハ不可申候、其外、於国中在々所々紙おろし候、伊勢道進退事、無紛候事、
 (中略)
一 彼方八通之書物、伊勢道を枝村紙荷可通御文言、曾以無御座候上者、弥相聞申候、其上、此書物先年愛智川と紙商買相論候時かし候て、可○○○儀候、此重宝の物を持なから何とて被負候哉、然時ハ用ニ不立物と弥相見候事、
 右為覚書付候旨、可然様御披露可忝(存脱カ)候、
  (永禄元年)十一月十七日        保内商人中」保内商人申状案『今堀日吉神社文書』140

「一つ、往古より、この方として伊勢道、防ぎ候物、色々の事。
  あさのお、紙、木わた、土の物、塩、一切の曲げ物、油草、一切の鳥の類、海苔の類、アラメ、一切の魚の類、伊勢布
右の物、通りそうらえば、見合いに何時も荷物取りの儀、珍しからず候こと。
 (中略)
一つ、紙商買、保内が新儀の由、申し懸けられ候。新儀にて有るなき段、数通の御下知、ならびに御成敗、あい見え候。
すなわちお目に懸け候。殊に枝村衆も、保内の紙、昔より請け取り、商買を仕られ候。
今日にいたり、紙を請けられ候とて、かようの儀は、枝村衆は申すべからずと候。
その外、国中在々所々に紙卸し候。伊勢道の進退の事、紛れなく候事。
 (中略)
一つ、かの方8通の書き物、伊勢道を枝村の紙荷通るべく御文言、かつて以って御座なく候上は、いよいよ相聞き申し候。
その上、この書き物は、先年、愛智川と紙商買相論そうろうとき、貸しそうらいて、○○○すべき儀に候。
この重宝の物を持ちながら、何とて負けられ候や。然るときは用に立たず物と、いよいよあい見え候事。
右、覚えとして書き付け候旨、然るべく様、ご披露かたじけなく存ずべく候。
(永禄元年)11月17日      保内商人中」

要は、紙荷に限らず、ここに記されているいろいろな商品を伊勢から峠越えで運送する時は、すべて保内商人が仕切り、それに違反して勝手に運ぶのを見つけたときは、力ずくで荷物を没収する権利を保内商人が持つ、ということです。
紙商売においても、保内商人が新しく始めたのではなく、昔から商売をしていて守護などの関係諸機関からも証拠の文書を有している。
また枝村衆が伊勢道(鈴鹿山脈・八風峠越え)を紙荷を持って通るという証拠文書は、枝村衆が愛智川の衆と争論したときに保内商人が枝村衆に貸した文書であって、本来の権利は枝村衆でなく保内商人にある、としています。
この他にも異口同音の文書が何通もあり、訴訟の場において、おそらく互いの主張を繰り返したものだろうと考えられます。

それにつけても驚くことは、保内商人の扱っていたと主張する商品の多さです。
紙に限らず伊勢湾で取れた海産物など、かなりの種類に上ります。
「木わた」は木綿ではないかと考えられている向きもあるそうですが、そうではなくて別のものだという主張もあり、ここでは「木わた」と読下すにとどめています。
しかし枝村も負けておらず、長文の反論を認めています。
やたら長いのですが、とにかく内容が非常に面白いので、煩を厭わず掲載します。

「(中略)
一 濃州稲庭山被責候時、美濃海道相止ニ付而、伊勢道を保内仁廿日間枝村両人書状を仕罷通由、彼方一書ニ相見ヘ候、以外虚言候、枝村之古法ニ加様之公事等出来之時者、以衆儀之上、連暑連判にて相さはき候条、一人二人被為覚語仕儀者、不可成実儀候、其上地下一老九十ニ罷成候、為始彼等保内仁書状を仕、道借申儀一切ニ覚不申候、彼方書付ニ相見え候両三人者死去仕候、然者、恣ニ申懸儀相聞候、先年愛智川者申懸組時、右之書状、狛殿・進藤・葛岡方被仰ニ付而、従保内出申候、則愛智川公事ニかたせ申たる由、不審存候、海道かりたる書状にて、紙公事落居可仕儀候哉、殊御両三人御状旨、書物慥出たるとも不見え候、旁以無謂候、其以後西美濃建居と申在所にて、馬拾三疋荷物以下悪党取候ニ付而、八風海道を三年罷通候事、
一 天文五年ニ又左衛門尉荷物ゆつりはうにて相押由候、彼者罷死去仕候間、恣被申事候、殊従枝村懇望之由相見候、右ニ如申公事出来候時者、以衆儀相さはき候、惣分一向不存候、其上日本国諸商人罷通、八風海道を当所商人迄をふせき候段不謂事、
 (中略)
一 覚来分四十年余以前濃州錯乱ニ付而、八風を罷通候、拾八ヶ年以前にも西美濃錯乱付而、右之海道罷通候、又七八年以前にも濃州林弥三良生害之時も勢州ヘ罷越事、
一 紙商買之儀者、従往古有子細御下知(ならびに)御成敗致頂戴、以其旨、非分なる商買之輩者、堅違乱申事、無其隠儀候、濃州錯乱付而、本海道相止候ヘハゝ越州ぬくみ越をも罷通候、其外勢州桑名にても、尾州之内大嶋(ならびに)濃州時山にても、当国北郡小谷にても、北嶋口にても、紙之出る所へ罷越商買仕儀候、然処、自保内紙商買仕旨新儀を申出、剰枝村衆上下違乱之儀、不能分別事、
以上
 (永禄元年)九月廿六日      枝村惣中」枝村惣中申状案『今堀日吉神社文書』201

「(中略)
一つ、濃州稲庭山(稲葉山)責められ候時、美濃海道(街道)あい止めに付いて、伊勢道を保内に二十日間、枝村の両人、書状を仕り、罷り通る由、かの方の一書にあい見え候。以ての外の虚言(そらごと)に候。
枝村の古法に、かようの公事等、出来(しゅったい)の時は、衆儀(議)を以っての上、連暑(署)連判にて、あい捌き候条、一人二人覚語(悟)を為さる仕儀は、実儀に成るべからず候。
その上、地下(じげ)の一老・九十二に罷り成り候、彼らを始めとして、保内に書状を仕り、道を借り申す儀、一切に覚え申さず候。
かの方の書き付けにあい見え候、両三人の者、死去仕り候。然れば恣(ほしいまま)に申し懸ける儀、あい聞き候。
先年、愛智川の者、申し懸け組む時、右の書状、狛殿、進藤、葛岡方に仰せられるに付いて、保内より出申し候。
すなわち愛智川の公事に勝たせ申したる由、不審と存じ候。海道借りたる書状にて、紙公事落居仕るべき儀に候や。
殊に御両三人の御状の旨、書き物、慥(たしか)に出たるとも見えず候。旁(かたがた)以って謂れ無し候。
それ以後、西美濃の建居と申す在所にて、馬拾三疋の荷物以下、悪党が取り候に付いて、八風海道を三年罷り通り候こと。
一つ、天文五年に、又左衛門尉の荷物、ゆつりほうにて、あい押さえる由と候。
かの者、死去罷り仕り候あいだ、恣に申される事に候。殊に枝村より懇望の由、あい見え候。右に申すが如き公事、出来候時は衆儀(議)を以って、あい捌き候。惣の分は一向存ぜず候。
その上、日本国の諸商人罷り通る八風海道を、当所商人迄を(も)防ぎ候だん、謂れじのこと。
 (中略)
一つ、覚え来る分、四十年余り以前、濃州錯乱に付いて、八風を罷り通り候。拾八ヶ年以前にも西美濃錯乱に付いて、右之海道罷り通り候。また、七、八年以前にも、濃州の林弥三良(郎?)生害の時も、勢州へ罷り越すこと。
一つ、紙商買の儀は、往古より子細有る御下知ならびに御成敗を頂戴致し、その旨を以って、非分なる商買の輩は、堅く違乱申す事、その隠れ無き儀に候。
濃州錯乱に付いて、本海道あい止めそうらえはば、越州ぬくみ越えをも罷り通り候。
その外、勢州桑名にても、尾州のうち、大嶋ならびに濃州時山にても、当国北郡小谷にても、北嶋口にても、紙の出る所へ罷り越し、商買仕る儀に候。
然るところ、保内より紙商買仕る旨、新儀を申し出、剰(あまつさ)え、枝村衆の上下を違乱の儀、分別あたわざること。
 (以下略)」

前の文書と日付が前後していますが、前の文書は元々出した文書の写しと言うか、控えとしての覚書らしく、内容から見て、前の文書などを受けて、枝村が出した意見書のようです。
第1に、稲葉山合戦が勃発した際、、枝村商人2人は保内商人に頼んで道を変えているとされていますが、枝村のしきたりとしては、このような場合、惣の衆議にかけられ、きちんと手続きを踏んで行っており、惣中の92歳になる老人の記憶にも、保内に道を借りた記憶がないとし、道を借りた人たちがすでに死んでいるために、保内側が死人に口なしとばかりに勝手なことを言っているとしています。
枝村惣中の決議の仕方がわかって面白いのですけれど、またここでは、戦国大名の合戦や盗賊の横行に際して、彼ら商人たちは道を変えた可能性をも示唆しています。

愛智川の件に関しても、道を借りたということだけで紙商売の話に持っていくのは筋違いだと主張し、借りたという者たちの証拠書類がない以上、これを言いつのるのはおかしいとしています。
次の天文5年の話にしても、すでに死んだ人間の話を保内が持ち出してきており、あたかも枝村の方が「懇望」したような印象を与えるような話も謂れのないこととして突っぱねています。
それに天下の大道としての八風街道を、保内商人が力ずくで抑えようとしていることについても反発しています。

その他、何か変事があると道を変えても、必ず枝村惣中として行っているとして、いくつかの地名を列挙しています。
特に紙商売については、美濃のみならず越前や尾張、また浅井氏の小谷まで行って商売を行っており、彼ら商人団の自由さがわかろうというものです。

これらの文書群を見ていて思うのは、当時の商人は、例えば時代劇で見るような町人然としたものではなく、場合によっては保内商人のように、力ずくイコール小さくとも自分たちの権利を守るための武力さえ持っていたということです。
また、保内商人の場合は、単一の商品だけではなく、いろいろな種類の商品を扱うという総合商社的側面を持ち、その力によって商品取引の独占さえ図ろうとしています。
この争論については、結局、保内商人側の主張が認められたようで、紙という単一の商品しか扱わなかった枝村商人たちは、より巨大な保内商人団に飲み込まれていってしまったようです。

少々追いかけすぎたきらいもありますが、座というものの凄まじさというものを見せつけられた気がします。
「利」というものを基準に動く商人集団ですけれど、それこそ戦国大名並の気概さえ持っていたのではないかと思ってしまいます。
彼らは武士ではないので、武士たちのような家名が残るわけでなく、また家系図が麗々しく誇られるわけでもありません。
しかし彼らがいなければ、貴族も武士も、それこそ庶民も、生活そのものが成り立っていかないわけで、「利」を基準としながらも、どこかの時代のような「浮利」を追い求めるわけでなく、「実利」に即して行動した人々だったのではないでしょうか。

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