リアル!戦国時代 Vol.42

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第26回 衣料の座と応仁の乱

今回からは、衣食住の「衣」すなわち衣料と座についてシリーズしていきます。

しかし衣料といっても大変に幅広く、よほどの着物好きでもない限り、今ではなじみのないものが多いので、技術や製品的なものも含めながら見ていきたいと思います。

中世になると、地方における麻の生産と中国産生糸の輸入、また一部で養蚕が始まり出すと、ようやく地方でも機業が増え始め、特に京都や鎌倉などの「都市」が出現してからは高級衣料の需要が増してきました。
また地方の大寺社において、祭礼や法要などの儀式に際して、舞衣や袈裟の製造も行われ始めました。
しかし中心はやはり公家のいる京都で、高級な織物はどうしても京都の織手を招くか、京都産の織物を購入することの方が多かったろうと考えられています。

戦国末期においても京都の優位は変わらず、京都産の高級織物は「京綾」「京錦」と呼ばれ、全国の垂涎の的でした。
京都の場合、古代からの織物技術に工夫を加えたり、中国の技術を導入したりして「唐綾」などの技法を完成させ、他の追随を許さない圧倒的な技術力を誇っていたのです。

ここで織物技術について、少々説明を加えておきます。
まず、織物は経糸(縦糸)と緯糸(横糸)で構成され、反物など長い方が縦で、これに短い緯糸を交錯させて織り上げられています。
一般的に織物と言うと、経糸と緯糸をそれぞれ1本ずつ交錯させて織り上げるものと思われがちですが、これは「平織(ひらおり)」という技法です。

「綾織(あやおり)」というのは、経緯どちらかの糸が2〜3本以上になって交錯するもので、織り面には斜め方向に細い綾線が形作られていき、それが光の反射によってうっすらと浮き出して見える織物です。
「錦(にしき)」というのは、複数の色糸や金糸銀糸を使った織物で、見た目も大変豪華なものです。
また、よく聞く「唐織(からおり)」というのは、経糸を何本かまとめた綾織に、緯糸で絵柄を織り込み、その上に紋様を縫い取りした超高級品の絹織物をいいます。
現代ではあまり目にする機会もなく、ちょっとわかりにくいですが、葬式などで坊さんが身にまとう豪華な袈裟などを思い出すといいでしょう。

もともとは織手も朝廷の内蔵寮に所属しており、御綾織手と呼ばれて寮頭の山科家の支配下にあり、朝廷の御衣調進を担っていました。
『古事記』や七夕の織姫のイメージから、どうしても女性を想像してしまいますが、残っている史料から見ると、どうも男性が多かったようです。
ちなみにこの「織手」というのは絹織物の織工を指し、他の麻織物などの織工とは区別されていました。
面白いのは、寮頭の山科家が織手を屋敷に呼びつけ、何日までに持って来いと日限を切って命じていることで、朝廷の織手と言えども、じっさいは自宅において機(はた)を織っていたらしいということです。

彼ら内蔵寮の織手は課役免除の特権を持ち、その業務に打ち込める体制作りは早くからできていました。
応仁の乱以前は彼らも10人前後いたのですが、乱後は洛中に4名前後にまで激減し、機のあった自宅を焼かれた織手が多くいたことなど、応仁の乱の影響は彼らにも及んでいたのです。

また内蔵寮の織手とは別ではあるものの、時代的には彼らと並行するような形で織物業にいそしむ人々もいました。
大舎人と呼ばれた人々で、彼らはもともと織物には全く関係なかったのですが、朝廷からの俸禄が減少し、生活が困窮してきたことから隣町に住んでいた織手の技術を学び、座を組織していきました。
彼らの座は大舎人座と呼ばれ、高度な内蔵寮織手の技術を完全に学び取っていきました。
大舎人たちの技術が本家内蔵寮織手に匹敵するほどになっていたことは、南北朝期に高野山や石清水八幡宮などから注文が寄せられていることからもわかり、万里小路家を本所とし、山科家の管轄する内蔵寮織手と対抗するまでに成長していったのです。

彼らは室町中期頃まで、本来の職場である朝廷の大宿直で織物を作っていたらしいのですが、後に自分たちの家で生産するようになっていきました。
彼らが集住していた大舎人町が現在の京都西陣の地で、応仁の乱は彼らの生活をも直撃しました。
自分たちの住み、かつ仕事場にもなっていた場所を追われた彼らは、戦火を避けて奈良やツテをたどって地方に移転し、また兵庫湊も荒廃したことから、堺がクローズアップされ、彼らは堺にも流れていきました。
彼らの地方移住は織物技術の移転にもつながり、応仁の乱は技術的にも地方勃興の機会ともなったのです。

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