リアル!戦国時代 Vol.43

中世のキーワード 「座」 シリーズ 第27回 大舎人座の独占志向

前節で述べたように、地方勃興の機会ともなった応仁の乱でしたが、織物業にとってそれはまた、別の影響も与えました。
当時、兵乱によって荒廃した兵庫湊に代って躍進した堺には、九州の博多同様に中国船が来航し、中国(明)の高度な織物技法が京都出身の技術者たちに直接伝えられたことです。
もともと日本では養蚕技術などの一般導入も遅れており、織物技術自体はあまり発達していませんでした。
それがここにきて、明の先進技術がダイレクトに伝えられたわけですから、高級絹織物の歴史上、画期的なことだったのです。

明の撚糸技術も導入され、経糸を2本まとめて強く撚じり、織物の表面にシボ(繊維の塊)を織り出す縮緬(ちりめん)技法が日本で行われたのもこの頃だったようです。
しかし日本に伝えられたのは織物の技法であって、それを織り出す機(はた)は、相変わらず古代から伝えられたものを使用していました。

この頃、地方での織物は麻などの庶民衣料が主であり、布の幅も狭くてかまわなかったためか、幅の狭い単純な機がほとんどで、これは居坐(いざり)機と呼ばれていました。
居坐機は現在の結城紬、北陸の越後上布(麻布)や縮(ちぢみ)などにも一部残っており、地上高30〜40cm程度の高さにさし渡した板材の上に坐り、織工の腹に経糸をまとめたものを結びつけて織り上げるものです。
ちなみに縮というのは、平織の麻布の横糸に強い撚りをかけたものです。

京都ではこれを改良した高機(たかはた)が常用され、幅広の織物や高級絹織物を生産していました。
これはその名のとおり、織工の座席が居坐機よりも高い位置にあり、近世までは京都西陣がこの技術を独占していました。
この他、錦や綾という複雑な紋様を織り出す空引機というのもあり、これは2人で操作して使われていました。
当時の織物には牡丹、唐草、獅子、象、桔梗など動植物の図柄を織り出していたようで、いかにも豪華な感じがします。

さて話が横道にそれてしまいましたが、応仁の乱終了後、各地に四散していた織工も徐々に京都に戻り始め、大舎人座が復活します。
彼らは大乱時の西陣があった大宮に集住し、いわゆる「西陣」として再出発を果たしました。
そして大舎人たちは荒廃していた内蔵寮の織手さえ兼ねて、徐々に規模を拡大していったのです。
彼らは他座の例に漏れず独占志向を強めていったのですが、問題はいくつもありました。

まず彼らは絹織物という製品を製造販売する座でしたけれど、その原料となる生糸の供給や染色は、別の座に頼っていました。
生糸の供給は、京都堀川上流の白雲や村雲に集住していた練貫座が行っていました。
中国から輸入される生糸は、そのままのものを白糸と呼び、これを指などでしごいて光沢を出したものを練糸と呼んで区別し、これらの単体使用または組み合わせによって織物も変わっていったのです。

経緯(タテヨコ)両方の糸が白糸のままで織り上げたものは白布と呼ばれたようで、これは勧修寺家が本所となっている白布座が製造していました。
練貫座の練貫は、経糸を生糸、緯糸を練糸とした絹とされ、ここでは一部で生産も行われていたらしく、薄物の上質白絹として珍重され、厚手織りを本業とする西陣大舎人座と対抗していました。

また高級衣料と言っても染色もあれば男物から女物、帯から袴まであり、帯の帯座、袴の袴腰座といったふうに大舎人座の完全独占というわけには行かなかったのです。
また祗園社を本所とする練絹座、味噌屋の話で出てきた四府駕輿丁座も、京都錦小路の錦座を傘下に持ち、当時女性の一般的な衣料だった小袖を扱う小袖座など、競争相手には事欠きませんでした。

これらの競争はかなり激しかったらしく、大舎人座の面々は天文年間に将軍家御台所の被官となり、同業の練貫座に対抗して座の結束を高めていきました。
この頃、座の人数が31人に固定され、同業他座との競争も、より激化していきました。

たとえば、帯商人が帯座を結成して帯の販売を独占しはじめると、大舎人座は初め帯座と営業協定を結んでいたらしいのですが、天文年間に何度も帯座から協定違反の販売を咎められており、彼らの独占志向が窺えます。
これはもともと問丸に卸したり、帯棚に並べて販売していた帯を、天文年間あたりから、帯座を通さずに道端で勝手に売り出したため、帯座から協定違反を幕府に訴えられたというものです。

大都市であった京都と言えども、そこにごまんといる庶民相手ではなかった高級衣料を扱っていたわけで、限られた消費者相手に苛烈な販売競争を繰り広げていたということでしょうか。

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